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第28話:執行人の拳と、明日への秒針


「……っ、うわっ!?」


 鏡の中から伸びてきた無数の黒い手に、私の足首が掴まれる。  冷たい。  氷というより、**「他人の悪意を煮詰めて凍らせた」**ような、不快な冷気。


「させないわよ……っ!」


 私は内側にある黄金の泉を、強引にこじ開けた。  修行で得た一点集中の霊力を足元に叩きつける。


 パァン! と、黄金の波紋が広がり、私を掴んでいた影の手が、焼けたゴムのような臭いを立てて弾け飛んだ。


「朱里、こっちだ! 離れるな!」


 蓮司さんが私の腕を掴み、背後に引き寄せる。  目の前には、迷宮の鏡をパッチワークのように身体に纏った、身長4メートルはあろうかという巨躯が現れていた。


 無貌の支配人ノーフェイス・ホスト


 桐生の装置に霊素を吸い取られ続け、極限の飢餓状態に陥ったこの街の化け物だ。


「……ハァ、……ハァ、……アカリ、……サ、ン……」


 怪異の喉元から、吸い込まれた若者たちの残留思念が、掠れた声となって漏れ出す。


「……ひどい。桐生……あの男、わざと怪異を飢えさせて、攻撃性を高めているの!?」


「あぁ。あいつはデータさえ取れれば、怪異が暴走しようが街が沈もうが知ったことじゃないんだ。……橘! 鏡の反射角を計算しろ。奴の本体は鏡の中を転移しているが、霊力の供給源は背後のアポロンに直結している!」


 蓮司さんは眼鏡の位置を直し、周囲に浮遊する何百もの鏡の破片を一瞥しただけで、その複雑な光の屈折を読み解く。


「……了解だ、蓮司! 朱里さん、供給を最大に! この街の『嘘』を、俺が全部ひっくり返してやる!」


 橘さんが地を蹴った。  怪異が鏡の盾を展開し、橘さんのパンチを四方八方に逸らそうとする。


 だが、今の橘さんには、朱里から送られる黄金のパスと、正当な後継者としての自覚がある。


「……逃がさない。そこだ!!」


 橘さんの拳が、物理的な距離を無視して鏡の裏側に突き刺さった。


 『九条流・霊界門送れいかいもんおくり』。


 修行で開花したその技は、破壊ではなく浄化の門を対象の座標に直接開く奥義だ。


「――お前たちの帰る場所は、ここじゃない。……還れ!!」


 青白い閃光が迷宮を焼き尽くす。  怪異の身体を構成していた鏡が、安らかな光の粒となって砕け散り、吸い込まれていた魂たちが、夜空へ昇る蛍のように解放されていった。


『……ふむ。霊的波長の完全相殺か。素晴らしい、実に有益なデータだ』


 アポロンの柱から、再び桐生の声が響く。  怪異が消えたことで迷宮が崩落を始め、ビルとビルの隙間から、元の歌舞伎町の汚れた夜空が見え始めていた。


『任務完了だ。工藤くん、今回のデバッグ作業は君たちの勝ちにしておこう。……だが、アポロンが吸い上げたエネルギーはすでに特務室のサーバーへと転送された。……君たちが救ったのは魂であって、街ではないということだ』


 黒い柱が、青い火花を散らして自爆を開始する。


「待て、桐生! まだ話は——」


 蓮司さんの声は、爆風にかき消された。


 静寂が戻った裏路地。  足元には、誰のものか分からない片方の靴だけが残されていた。


「……終わった、んでしょうか」


 私は、ぐったりと肩を落とした。  助けられた人もいれば、間に合わなかった人もいる。


「……いや、序章に過ぎない。橘、お前の時計……動きはどうだ」


 蓮司さんの問いに、橘さんは腕に巻いたクロノグラフを見た。  チチチ、チチチ。  止まることなく、正確に時を刻んでいる。


「……あぁ。順調だよ。……あいつが何を企んでいようと、俺の正義は、もうこの時計みたいに止まらない」


「ふん。生意気を。……おい、朱里。いつまで俺の服を掴んでいる。……もう安全圏だ。25メートル以上、離れてもいいぞ」


 蓮司さんが意地悪く笑う。  私は慌てて手を離そうとしたが、その瞬間、膝の力が抜けてよろけてしまった。


「あ、れ……? 足が……」


「……バカか。急激に供給を使いすぎたんだ。……ほら」


 蓮司さんが、舌打ちをしながらも私の肩を支えた。  復活した彼の肉体は、以前よりも少しだけ筋肉質で、心地よい体温があった。


「……帰るぞ。事務所のコーヒーは、一番高い豆を買ってこい。……橘、お前もだ。依代の瓶を磨いてやるから、さっさと歩け」


「はは……。了解だよ、ボス」


 歌舞伎町の喧騒が、再び私たちを包み込む。  7つのデッド・スポット。まだ1つ目をクリアしたに過ぎない。


 けれど、私たちの「絆」という名のシステムは、確実に桐生の計算を狂わせ始めていた。

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