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第27話:鏡像の回廊と、冷徹な観測者


 一歩、足を踏み入れた瞬間、世界から「音」が消えた。


 背後にあったはずの歌舞伎町の喧騒は、分厚いゴムの壁で遮断されたかのように遠のき、代わりに鼻を突くような**「古びた香水」と「焼けた電子回路」が混ざった悪臭**が立ち込める。


「……気持ち悪い。ねえ、蓮司さん。ここ、さっきも通りませんでした? あの、枯れかけた開店祝いのスタンド花」


 私は、自分のコートの袖を力任せに掴んでくる蓮司さんの気配を感じながら、無限に続くかのようなホテルの廊下を見上げた。壁紙は剥がれかけ、天井の蛍光灯は不規則なリズムで明滅している。


「……ふん。指摘するまでもない。すでにあのユリの花の前を通過するのは4回目だ。空間そのものが円環状のループに閉じられている。物理的な出口を探すのは時間の無駄だ、無能助手」


「誰が無能ですか! 出口が分かってるならさっさと教えてくださいよ、天才探偵様!」


「黙れ。お前の供給が不安定なせいで、空間の解像度が落ちているのが分からんのか。壁の模様をよく見ろ。テクスチャがバグを起こして、ノイズが混じっている。……おい、あまり離れるなと言っただろう。25メートルどころか、25センチ以内にいろ」


「……それ、ただ単に怖いだけじゃないですか?」


「生存戦略と言え」


 蓮司さんは顔をこわばらせながらも、私のすぐ背後にぴたりと張り付いている。修行で肉体を得たとはいえ、魂の定着が完全でない彼にとって、この霊的に歪んだ空間は極度のストレスなのだ。


「二人とも、漫才はそこまでだ。……前を見てくれ。この迷宮の異物が見えた」


 少し前を行く橘さんの声に、私たちは顔を上げた。  歪んだ廊下の突き当たり、本来なら非常口があるべき場所に、それは不自然なほど**「清潔」で「機械的」な存在感**を放って鎮座していた。


 高さ3メートルほどの、鈍く光る黒い金属の柱。  周囲の腐りかけた空間とは明らかに異なる、最新鋭の科学の結晶。


「……桐生の仕業ね」


 私が呟くと同時に、柱の表面に埋め込まれた青いランプが規則的に明滅し、ノイズ混じりの音声が空間に響き渡った。


『――美しいとは思わないかね、工藤くん。九条という古い管理者が消えたことで、この街のエネルギーはより純粋な、利用価値のある資源へと昇華された』


 スピーカーから流れる、温度を感じさせない冷徹な声。  警察庁特務室長、桐生勝己。


「桐生……! 貴様、こんな場所で何をしている。このデッド・スポットで若者たちが消えているのを知っていて、傍観しているのか?」


 蓮司さんの声に、低く冷たい笑い声が返ってくる。


『傍観? 心外だな。私は管理しているのだよ。この装置――霊素集積型観測機アポロンは、街に溢れる負の霊素を回収し、国家のクリーンな電力へと変換するための杭だ。……犠牲になった若者たちは、いわばそのための燃料だ。合理的だと思わないかね?』


「……燃料だと? ふざけるな……!」


 橘さんの拳が、怒りに震えて青白く発光する。


『感情で真実を曇らせるな、橘くん。君のような不燃ゴミにも、ようやく役割を与えてやろう。……アポロンが霊素を吸引しすぎたせいで、ここの主が少々、空腹のようだ。……デバッグの時間だ。君たちの絆という名のバグが、どこまで通用するか見せてもらうよ』


 桐生の声が途切れると同時に、迷宮全体の壁が、一斉に**「鏡」**へと変貌した。


 映し出されるのは、何百、何千という、顔のない自分たちの姿。


 そして。  鏡の奥から、巨大な「黒い手」が、私たちの生命線である私――朱里を狙って伸びてきた。


「――っ、朱里!!」


 蓮司さんの叫びが、砕け散る鏡の音にかき消される。  歌舞伎町のデッド・スポット。その真の主が、桐生の装置によって暴走させられ、牙を剥いた。

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