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第26話:歌舞伎町デッド・スポット、開演


 新宿、歌舞伎町。


 かつて「不夜城」と呼ばれたこの街のネオンは、今や毒々しい油膜のように空気を汚していた。  九条宗次郎という巨大な「ダム」が崩壊してからというもの、この街は単なる繁華街ではなくなっていた。溢れ出した未精製の霊素が、人々の欲望と混ざり合い、物理法則さえも歪め始めた「デッド・スポット」……霊的汚染区域だ。


「……最悪だ。空気が重すぎて、肺胞の一つ一つが抗議の声を上げている。おい、朱里。今すぐこの街全体に消臭剤と聖水を撒け。さもなくば俺は一分以内に不機嫌の極致に達し、捜査を放棄して事務所に引きこもるぞ」


 人混みの中、眉間に深い皺を刻んで毒を吐く男。  工藤蓮司。  修行を経て、生身の肉体を維持する力はついたものの、相変わらず性格の歪みだけは矯正されなかったらしい。


「無理を言わないでください。私の霊力は空気清浄機じゃないんです。ほら、蓮司さん、また20メートル離れましたよ。命が惜しければ私の影でも踏んで歩いてください」


「ふん。お前の影を踏むのは、俺の美学が許さない。……だが、心臓が止まるのはもっと許せないからな。……ちっ、これだ」


 蓮司さんは吐き捨てるように言いながら、私のコートの袖を、まるで迷子の子どものように指先で掴んだ。  修行の成果で25メートルの制限距離は「快適に動ける範囲」になったが、この汚染区域内では霊力の消耗が激しい。必然的に、私たちの距離は以前よりも近くなっていた。


「……はは……。二人とも、相変わらずだな。でも気をつけてくれ。……この街、『見えてる場所』と『繋がってる場所』が一致してない」


 私たちの少し前、人混みをすり抜けるようにして進む影があった。  橘慎一。  瑠璃色の香水瓶を依代に、実体化の訓練を積んだ彼は、今や一般人には「少し影の薄いイケメン」程度にしか見えない密度を保っている。


「橘さん、何か見えますか?」


「あぁ。あそこの路地裏……ネオンの色が反射していない場所がある。……朱里さん、供給を少し強めてくれ。俺の執行人としての感覚が、あそこに不自然な『穴』があると言っている」


 私は頷き、内側にある黄金の泉から、橘さんと蓮司さんに繋がる見えないパスに霊力を流し込んだ。


「……よし。ロジックを組み立てるまでもないな。……消える若者、増え続ける影。犯人は、この街の『隙間』に巣食う支配人だ」


 蓮司さんが眼鏡のブリッジを押し上げる。  私たちが辿り着いたのは、歌舞伎町のビルとビルの間にある、何の変哲もないはずの裏路地だった。


 だが、一歩足を踏み入れた瞬間、背後の喧騒が完全に遮断された。  カツ、カツ、カツ。  不気味に響くのは、私たちの足音だけ。  振り返ると、ついさっきまで通り過ぎてきたはずの大通りが、霧に包まれたように消えていた。


「……出ましたね。これが歌舞伎町のデッド・スポット……『消える迷宮』」


「……あぁ。そして、お出迎えだ」


 霧の向こうから、音もなく現れたのは、高級そうなスーツを着た「顔のない」男たちだった。  一見すればホストのようだが、顔のパーツがあるべき場所には、ただ滑らかな皮膚が張られているだけ。


『いらっしゃいませ……。お帰りの場所は、もうございません……』


 複数の声が重なり合い、空間そのものが震える。  デッド・スポットの概念怪異、無貌の支配人ノーフェイス・ホスト。  九条が抑えていたエネルギーを喰らい、街の「執着」から生まれた化け物だ。


「……フン。客引きなら間に合っている。……おい、橘。……警察の正義が間違っていたとしても、お前の拳まで間違っているわけじゃないんだろ? ……片付けろ」


「……言われなくても。……朱里さん、準備はいいか?」


 橘さんが一歩前に出る。  その拳が、青白い光を帯びて膨れ上がる。  かつて自分を「スペア」だと自嘲していた頃の弱々しさは、もう微塵もない。


「――九条の名において。……貴様らを、あるべき場所へ送らせてもらう!」


 橘さんの拳が、顔のない男の胸を貫いた。  物理的な破壊ではない。  正当なる後継者の血が持つ「浄化」の波が、怪異を構成する不純な霊素を一気に分解していく。


「朱里、最大供給! 迷宮のコアを炙り出すぞ!」


「了解! ――開け、黄金の器!!」


 私が両手を広げると、足元から黄金の光が波紋のように広がり、歌舞伎町の「嘘の壁」を次々と剥ぎ取っていった。  新生・工藤探偵事務所、初陣。  不夜城に、浄化の咆哮が響き渡る。

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