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第22話:三者三様、地獄のメニュー


 午前四時。


 まだ夜の帳が深く下りた山奥に、およそ文明的な音とは無縁の「野獣の咆咆」が響き渡った。


「――起きな、欠陥品共! 太陽は待ってくれないよ!」


 ドガァァァン!!


 盛大な音を立てて襖が蹴破られた。  枕元に投げ込まれたのは、氷水がなみなみと入ったバケツ。  そして、それを持つのは慈悲の欠片もない笑顔を浮かべた母・沙也加だった。


「ひゃあぁっ!? 冷たっ、冷たい!!」


「……がはっ……貴様……暗殺か。暗殺だな、これは」


 悲鳴を上げる私と、水浸しになりながら幽霊のように(いや、半分幽霊だが)起き上がる蓮司さん。  一方で、壁を透過して浮いている橘さんは、実体がないことを良いことに優雅に欠伸をしている。


「……おはよう。幽霊で良かったと、生まれて初めて(死んでから初めて?)思ったよ」


「……橘。……お前、……今すぐその依代の瓶を熱湯にぶち込んで、エクトプラズムごと茹で上げてやろうか」


 蓮司さんが震える手で眼鏡を拭いながら、殺意のこもった視線を向ける。  そんな私たちの前に、お婆ちゃん・トキが静かに現れた。


【地獄のカリキュラム:現状分析】


 囲炉裏の前に集められた私たちは、お婆ちゃんが記した「三人の処方箋」を突きつけられた。  そこには、昨夜語られた「欠陥」を埋めるための、あまりに非人道的なメニューが並んでいた。


■ 訓練コード:『三位一体の怪物トリニティ・モンスター』構築


御影 朱里:【供給源ソースの精密化】 内容:極寒滝行中における『二重霊力バイパス』の維持。 目的:蓮司と橘、異なる霊的波長を同時に、一滴の誤差なく供給する。


工藤 蓮司:【肉体定着と25m機動】 内容:泥濘の急斜面における『デッド・ゾーン』ダッシュ。 目的:朱里の霊力の波を読み、心拍数との同調率を98%以上に保つ。


橘 慎一:【霊子的質量エクト・マスの獲得】 内容:爆音霊素パンチによる『物理的壁』の粉砕。 目的:意志の密度を物理的な「重さ」に変換し、生身以上の打撃力を得る。


「……おい、ババア。この蓮司のメニューにある『急斜面ダッシュ』の項目に、『朱里が滝に打たれている間のみ有効』とあるのは何だ? まさか、俺が走っている間、こいつは固定されるのか?」


「当たり前だろう。あんたの心臓は朱里という『杭』に繋がれているんだよ。杭が動けば鎖の範囲も変わるが、杭が止まっていれば、あんたはそこを中心に動くしかない」


「……つまり、私が滝で震えている間、蓮司さんは私の周り25メートルを必死に駆けずり回るわけですね。まるで……」


「……『散歩中の犬』、と言いたいなら、今すぐその首を絞めて心中してやろうか、無能助手」


「事実じゃないですか。はい、ワンちゃん、準備はいいですか? 私の霊力が切れたら、あなたの心臓、止まりますからね」


「貴様……後で覚えていろよ。……橘、お前もだ。何をニヤニヤしている」


「いや、俺のメニューも大概だぞ。沙也加さんのパンチを『意志で受け止めろ』って……幽霊相手に無茶苦茶だ」


【第一フェーズ:滝と泥と拳】


 修行が始まった。


 山の奥、氷点下に近い水温の滝。私は白装束に身を包み、滝壺の岩に座らされた。


「……っ、ふぅ、……っ!!」


 痛い。冷たいのを通り越して、全身が針で刺されるような激痛に襲われる。  だが、私が意識を逸らせば、25メートル圏内を泥まみれで駆け上がっている蓮司さんの呼吸が止まる。


「……おい、……朱里! 出力が、……不安定だ……! 俺の、左半身が……感覚を失いかけている……ッ!」


 泥濘を四足歩行に近い形で這い上がっている蓮司さんが、歯を剥き出しにして叫ぶ。  彼の腕に巻かれた止まった時計の風防が、朝日に反射してギラリと光った。


「黙って、走ってください! 私の、集中力が……切れるでしょうが!」


 私は、自分の内側にある「器」の底から、霊力を汲み上げる。


 蓮司さんには「生命維持」のための、重厚で絶え間のない拍動のような霊力を。  橘さんには「実体化」のための、鋭利で高密度な霊素の粒を。


 性質の異なる二つの流れを、半径25メートルという限られた領域の隅々まで、ミリ単位の誤差もなく分配していく。  意識が乱れれば、蓮司の心臓が止まるか、橘の体が霧散する。  私は滝の重圧に耐えながら、自分の神経を二人の生存曲線へと深く沈めていった。


 その横では、橘さんが母・沙也加に「物理的な意味」でボコボコにされていた。


「慎一くん、甘いわよ! 幽霊なら攻撃が透けるなんて思ってんじゃないわよ! 意識を固めなさい! あんたの『警察官としての誇り』は、紙屑より軽いの!?」


「――っ、ふざけ、ないで……ください!!」


 ドゴォォォン!!


 橘さんの透き通った拳が、一瞬だけ、実体を持ったかのように青白く発光した。  母が構えていた防護用の盾が、微かにひび割れる。


「……へぇ。やるじゃない」


 母はにかみ、サングラスをずらした。その瞳には、かつての戦友の息子に対する、確かな期待が宿っていた。


【影の追跡者:桐生の冷徹】


 その頃。  東京、警察庁・秘密組織『特務室』のオフィス。


 桐生勝己は、皺一つないグレーのスーツで、モニターに映し出される霊波図を眺めていた。


「……ダムの決壊により、御影本家の周辺で異常な霊素の反応。……工藤くん、君の生存反応、やはり見間違いではなかったようだ」


 桐生は銀縁の眼鏡を指先で押し上げた。  彼の背後には、最新式の対霊狙撃ライフルを装備した、温度を感じさせない黒服の私兵たちが整列している。


「感情で真実を曇らせるな。……死んだ人間が生き返るなど、システム上のバグに過ぎない。……デバッグの準備をしろ。工藤蓮司と御影朱里は、再び特務室の管理下に置く。橘慎一という不燃ゴミもろともな」


【修行の終わりに:止まった時計】


 一日目の修行が終わり、私たちはボロ雑巾のように縁側に転がっていた。  私はガタガタと震えが止まらず、蓮司さんは泥人形のようになり、橘さんはエクトプラズムが薄れて半透明の極限状態だ。


「……あー、……本当に死ぬ。……お婆ちゃん、私……御影の女、……辞めてもいいですか」


「馬鹿言え、朱里。……お前が辞めた瞬間に、……俺の寿命は、……一分でカウントダウン終了だ」


 蓮司さんが、這いずりながら私の隣に寄ってくる。  25メートルの呪縛。  それは、今や私たちの「絆」そのものだった。


「……でも、見てくれよ。蓮司」


 橘さんが、お婆ちゃんが用意した石を、幽霊の指先でコンコンと叩いた。  カチ、と。  幽霊であるはずの彼の指が、確かに石を叩く音を立てた。


「……あぁ。……少しは、使い物になりそうだな。……背景ノイズ」


「……厳しいなぁ、相変わらず」


 蓮司さんは、自分の腕に巻かれた時計を見つめた。  橘さんが残し、再び蓮司の腕に戻った止まった時計。


 桐生勝己。  あの爬虫類のような男が、再び動き出している。  蓮司の死を演出し、肉体を九条に売り渡した、真の黒幕。


「……待っていろ、桐生。……お前の合理を、俺たちの欠陥で叩き潰してやる」


 夜の山に、蓮司の静かな、けれど苛烈な誓いが響いた。


 私たちの修行は、まだ始まったばかりだ。

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