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第3章:地獄の修行編 第20話:嵐は革ジャンを着てやってくる


 九条家が崩壊し、聖域が瓦礫の山に変わってから三日。


 新宿の片隅にある『工藤探偵事務所』の空気は、以前とは決定的に違っていた。  何しろ、メンバー構成が「人間一名、半死半生一名、幽霊一名」という、オカルトの見本市のような状態なのだから。


「……おい、朱里。今すぐその、安物のティーバッグで淹れた泥水を下げろ。俺の繊細な毛細血管が拒絶反応を起こしている」


 ソファに踏んぞり返り、偉そうに指を指してくる男。  工藤蓮司。  数日前まで位牌の中で「早く出してくれ」と震えていたくせに、肉体に戻った途端この傲慢さである。


「いいですか、蓮司さん。今のあなたは私の霊力がなければ一分以内に心不全で悶え苦しむ『歩く精密機器(笑)』なんですよ? 命の恩人に対して『泥水』とは何事ですか。飲みなさい、さもなくば今すぐ事務所の外にダッシュして見捨てますよ」


「……っ。貴様、恩を盾にこの天才探偵を脅迫するか……! 大体、その『20メートル』というガバガバな設定はどうにかならんのか。トイレのドア一枚隔てるだけで動悸が激しくなる俺の身にもなれ」


「それは私のせいじゃなくて、あなたの魂の定着率が低いせいです。文句があるなら自分の心臓に言ってください」


「あー、二人ともそこまでにしなよ。蓮司も、生きてる時より口が悪くなってないか?」


 割って入ったのは、デスクの椅子に座り――というか、椅子を透過して少し浮いている橘さんだった。  透き通った体で苦笑いする彼は、紛れもなく幽霊なのだが、この事務所で一番「まともな人間」に見える。


「橘。幽霊の分際で、生身の俺に意見するな。お前こそ、その瑠璃色の香水瓶から離れすぎると消えるんだろ? さっさとその瓶の中に引きこもって、埃でも数えていろ」


「ハハ……。相変わらずだな。でも、俺は幽霊だから寝なくてもいいし、お前の分まで朱里さんの警護ができる。……まぁ、朱里さんにベッタリなのは蓮司、お前の方だけどな」


「だ、誰がベッタリだ! これはあくまで生存戦略上の——」


「はい、ストップ! 蓮司さん、顔が赤いですよ。生存戦略ならもっと大人しくしててください!」


 私は、蓮司さんの腕に巻かれたクロノグラフをチラリと見た。  橘さんから返された、止まったままの時計。  三人の絆は確かに深まったはずなのに、日常に戻ればこのザマだ。


 と、その時だった。


 バリバリバリバリバリッ!!


 一階の路地裏から、重低音を響かせる凄まじい排気音が聞こえてきた。  窓ガラスがガタガタと震え、並んでいたコーヒーカップが踊り出す。


「……何だ? 珍走団の殴り込みか?」


 蓮司が眉をひそめる。


「いや、この匂い……ガソリンと、紫煙と……最悪の予感がするわ」


 私が呟くのと、事務所のドアが勢いよく蹴破られたのは、ほぼ同時だった。


「ハッハー! 湿っぽい会議は終わりよ、あんたたち!!」


 革ジャンの襟を立て、サングラスを光らせた嵐が、室内に踏み込んできた。  私の母、御影沙也加。  手に持ったヘルメットを無造作にデスクに放り投げ、彼女はニヤリと笑った。


「お、お母さん!? 帰ったんじゃなかったの!?」


「自分探しの旅は一時中断よ! ママ(トキ)から連絡があったわ。『あのポンコツ三人組をそのままにしておくと、一週間以内に共倒れになるから捕まえてこい』ってね!」


 沙也加は手首の時計をタップし、不敵に告げる。


「今からちょうど**【5分後】**に、下で待たせてるバイクを出すわ。それまでに必要なもん全部パッキングしなさい! 一秒でも遅れたら、蓮司くんはサイドカーのワイヤーで縛って引きずっていくわよ!」


「な……ッ!? 貴様、俺を誰だと思っている! 俺は——」


「はいはい、自称・天才探偵くんね。でも今のあんたは、朱里がいないと動けない『全自動介護人形』でしょ? 文句があるなら、山の上でママを黙らせてから言いなさい!」


「……介護人形だと……ッ!」


 蓮司が絶句する。  母の勢いは止まらない。彼女は宙に浮いている橘さんを指差した。


「慎一くんもよ! その瑠璃色の瓶、私が預かるわ。幽霊だからって甘えないこと! 山の空気は霊子れいしが濃いから、サボってると魂が霧散しちゃうわよ!」


「えっ、俺も修行……!? 幽霊なのに!?」


「当然でしょ! 幽霊のくせに物理で殴れる刑事なんて、超ファンキーじゃない! ママが鍛え直してあげるわ!」


 沙也加は事務所の時計を指差した。  残り、4分30秒。


「ちょっと、朱里! ぼーっとしてんじゃないわよ! あんたは特に重要なんだから。二人の『鎖』になる覚悟、できてるんでしょうね!?」


「え、ええっ!? 私も!? ……わ、わかったわよ!」


 そこからの5分間は、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。


 私は着替えと霊媒道具をバッグに詰め込み、蓮司は「俺の万年筆がない!」「推理用ノートを忘れるな!」と叫び散らす。  橘さんは自分の依代である香水瓶を母に奪われ、「わわわ、揺れる、酔う!」と瓶の中でノイズを走らせていた。


「おい、朱里! 荷造り中も離れるなと言っただろ! 20メートルを超えた、息が……ッ!」


「なら、大人しく私の後ろをついてきてください! 邪魔です、蓮司さん!」


「邪魔とはなんだ! 俺がいないと、お前はただの……あ痛っ! 今、俺の足を踏んだな!?」


「わざとじゃありません! 運命の不可抗力です!」


「……やれやれ。生き返っても、この二人はこれかよ」


 パッキング完了。  私たちは母に急かされ、階段を駆け下りた。


 外には、真っ赤な塗装の大型バイクと、特注のサイドカーが鎮座していた。  夜の新宿のネオンを浴びて、それはまるで獲物を待つ獣のように見えた。


「よーし、全員乗ったわね! 行くわよ、御影流・地獄の強化合宿キャンプへ!」


「……沙也加さん、せめて安全運転を……」


 サイドカーの隅で、香水瓶から顔だけ出した橘さんが懇願する。


「甘いわよ、慎一くん! 霊子の加速についてこれなきゃ、赤い香水の女には勝てないわ!」


「蓮司さん、しっかり掴まっててくださいね! 離れたら死にますから!」


「……フン、言われずとも分かっている! ……おい、朱里。あまり密着しすぎるな。……鼓動が、うるさいだろうが」


「……それは、どっちの鼓動ですか?」


「……黙れ、泥水助手!」


 ドォォォォォン!!


 爆音と共に、バイクが夜の街へと弾け出した。  2026年、冬。  九条家という巨大な権力が消え、混沌とし始めた霊的都市。


 私たちは、さらに過酷な『日常』へと突き進んでいく。  バックミラーに映る新宿の街が、一瞬で遠ざかっていった。

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