第19話:止まった時計と、新たな絆
聖域の崩壊から一週間。
私たちは、埃の積もった『工藤探偵事務所』に戻っていた。
窓から差し込む午後の光は、あの日と何も変わらない。
けれど、部屋の隅にあるデスクは主を失い、そこには橘さんの警察バッジと、九条宗次郎から奪い返した「黒いファイル」が静かに置かれている。
「……おい、朱里。離れるなと言っただろ。……げほっ、げほっ!」
キッチンでコーヒーを淹れようとした私を、鋭い咳き込みが呼び止める。
ソファに座る蓮司さんの顔色が、一瞬で青白くなっていた。
「あ、すみません! ちょうど二十五メートルくらいでしたね」
私は慌てて蓮司さんの隣に戻る。
彼が生き返ってから判明した、新たな呪い。
スペアを失った蓮司さんの肉体は、器である私から供給される霊力なしでは維持できない。私から半径二十五メートル以上離れると、彼の心臓は文字通り止まろうとするのだ。
「……ちっ。死んでいた時より不自由だ。……トイレに行くにもお前の許可がいるとはな」
蓮司さんは毒づきながらも、私の淹れたコーヒーを一口飲み、ふう、と息をついた。
その左手首には、橘さんが最期まで身に着けていた、あの止まったクロノグラフが巻かれている。
「……寂しいですね、蓮司さん」
「……あぁ。あのバカがいないと、事務所が広すぎて落ち着かない」
私たちが、届くはずのない親友への思いに耽っていた、その時だった。
「――いつまでも湿っぽい面してんじゃないよ、このガキ共は!」
勢いよくドアが開き、お婆ちゃんがドカドカと入ってきた。
その後ろには、なぜかニヤニヤと笑う母・沙也加の姿もある。
「お婆ちゃん!? 山に帰ったんじゃ……」
「帰る前に、あんたたちに『忘れ物』を届けに来たのさ。沙也加、出しな」
「はーい、ママ。……ほら、慎一くん。いつまでその中に引きこもってるのよ」
母がライダースのポケットから取り出したのは、小さな、けれど複雑な術式が彫られた瑠璃色の香水瓶だった。
母がその栓を抜いた、次の瞬間。
ひゅんっ、と。
事務所の中に、見覚えのある「大きな影」が膨れ上がった。
「…………え?」
「……はぁ、……やっと出られた。……沙也加さんのポケット、ガソリン臭くて死ぬかと思った……」
そこに立っていたのは。
少し透き通った体で、頭を掻きながら困ったように笑う――橘さんだった。
「た、橘さん……!? どうして……だって、あの時……!」
私は驚きのあまり、持っていたカップを落としそうになった。
蓮司さんは目を見開き、ソファから立ち上がろうとして、足がもつれて転びそうになっている。
「驚いたかい。慎一くんが自分を刺した瞬間、その魂が霧散する前に私が『御影の秘術』で捕まえておいたのさ」
お婆ちゃんが不敵に笑い、数珠を鳴らす。
「九条の血筋は肉体と共に滅びたが、その魂はまだ使い道がある。……慎一くん、あんたは今日から、この探偵事務所の守護霊として働きな。いいかい、成仏なんて許さないよ。こき使ってやるからね」
「……というわけで。……戻ってきたぞ、蓮司。朱里さん」
幽霊となった橘さんが、かつての自分のデスクに腰を下ろした。
生前よりも少しだけ透明だが、その眼差しは変わらず温かく、そして正義感に満ちている。
「……橘、貴様……。どこまで俺の邪魔をすれば気が済むんだ……」
蓮司さんは震える声で毒づいた。けれど、その瞳からは大粒の涙が零れ落ちている。
彼は自分の腕の止まった時計と、目の前の親友を見比べ、初めて、心からの笑みを浮かべた。
「……ふん。いいだろう。……元幽霊と、現役幽霊。……最高のチームじゃないか」
鳴り響く、電話のベル。
私は受話器を取った。
それは、街の至る所で目撃されている、あの「赤い香水の女」についての新たな依頼だった。
「工藤探偵事務所です。――ええ、お任せください。……こちらは、最強の三人が揃っていますから」
私は蓮司さんを見、そして橘さんを見た。
復活した名探偵、工藤蓮司。
最強の幽霊刑事、橘慎一。
そして、二人を繋ぐ霊媒師、御影朱里。
二十五メートルの鎖に繋がれた私たちの、本当の反撃は――ここから始まるのだ。




