第13話:遠い記憶と、老婆の宣告
ガタガタと震える車体。
街灯一つない山道を、橘さんの中古車が悲鳴を上げながら登っていく。
「……本当に行くのか。あのお婆さんのところへ」
ハンドルを握る橘さんの声が、心なしか震えている。 助手席で位牌を抱きしめる私にも、その不安は痛いほど伝わってきた。
行き先は、私の故郷。 地図にも載っていないような深い山奥にある、御影の分家。 そこには、私の祖母である御影トキが住んでいる。
「……嫌なら、降ろして、やるぞ……。俺も、あのババアだけは……死んでも、苦手だ……」
バッグの中から、蓮司さんの弱々しい声が聞こえた。 数年前、まだ蓮司さんが生きていた頃、三人で遊びに行った時のことを思い出す。
『朱里をこんな危険な遊びに巻き込むな! 二度と敷居を跨ぐんじゃないよ!』
玄関先で浴びせられた、バケツ一杯の塩と、魂を射抜くような叱咤。 名探偵として恐れ知らずだった蓮司さんも、あの時ばかりは尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
けれど、今は背に腹は代えられない。 蓮司さんの霊体は、九条の攻撃で消えかかっている。 そして何より、あの『赤い香水の女』から逃げ延びるには、あのお婆ちゃんの力が必要だった。
ーー
「見えてきた。……変わってねえな、ここは」
橘さんがブレーキを踏む。 深い霧の向こうに、古びた、けれど圧倒的な存在感を放つ日本家屋が姿を現した。
車を降りると、山の冷気が肌を刺す。 静かすぎる。 虫の声さえ聞こえない不自然な静寂。 それは、この家全体が強力な結界に包まれている証拠だった。
ギィ、と重い音を立てて玄関が開く。
「……夜分に、騒がしいねぇ」
暗がりに立っていたのは、寝間着の上に羽織をかけた小さな老婆だった。 杖をつき、深く刻まれた皺の間から覗く眼光は、数年前と変わらず鋭い。
私の祖母、トキ。
「お、お婆ちゃん……」
「朱里。……それに、化け物と逃亡者かい。ろくでもない客を連れてきたもんだね」
トキは一歩も動かず、ただ私たちを一瞥した。 それだけで、橘さんは石のように固まり、バッグの中の蓮司さんは気配を消した。 霊能者としての格が違いすぎるのだ。
「……入れ。塩を撒くのも面倒だ」
ーー
促されるまま、私たちは囲炉裏のある奥座敷へと通された。
パチパチと爆ぜる火の粉。 トキは、私が差し出したバッグを無造作に掴み、中から位牌を取り出した。
「おい、ババア……! 丁寧に扱え……!」
「黙ってな、死に損ない」
トキが位牌を一喝すると、蓮司さんの声がぴたりと止まった。 彼女は位牌の表面に刻まれたヒビを、カサカサに乾いた指先でなぞる。
「……酷いもんだ。魂の根っこが、九条の毒に焼かれてる。よくこれで形を保っていられたね」
「蓮司さん、治せますか?」
私の問いに、トキは答えなかった。 ただ、じっと私を見つめる。 その瞳に、哀れみのような色が混じった。
「朱里。……あんた、自分がどれだけ馬鹿なことをしているか、分かっているのかい?」
「……え?」
「この男の魂は、もう器から漏れ出している。今、この形を維持できているのは、あんたの命を直接吸い上げているからだよ。……これは相棒じゃない。あんたの命を食い潰す寄生虫だ」
心臓が、ドクンと跳ねた。 橘さんの顔が、驚愕に歪む。
「……そんな。……蓮司、お前、朱里さんの命を……!?」
「……違う! 蓮司さんは、私を守って……!」
「守っているつもりで、道連れにしているのさ。無意識だろうがね」
トキは冷酷に、けれど事実だけを突きつけるように言った。 そして、位牌を畳の上に置く。
「朱里、あきらめな。……明日の朝、夜が明けたら、私がこの男を浄化してやる。成仏させて、あの世へ送るのさ。それがこの男のためでもあり、あんたが生き残る唯一の道だ」
「そんなの……嫌です! 蓮司さんがいなくなったら、私は……!」
「あんたが死ぬよりはマシだ。……それとも、こいつと一緒に九条の器として壊されるのが望みかい?」
トキの言葉に、反論できなかった。 蓮司さんも、何も言わない。 位牌の中から、微かな、けれど深く苦しげな吐息が聞こえた気がした。
彼は、知っていたのだ。 自分が現世に留まることが、私を傷つけていることを。 だからこそ、あの日、私を解雇して遠ざけようとした。
橘さんは、顔を伏せて拳を握りしめている。 蓮司を救いたい。けれど、朱里の命を削ってまで? その葛藤が、部屋の空気を重く沈ませる。
「……決まりだね。今夜一晩、お別れの時間をあげる。明日になれば、すべてを終わらせるよ」
ーー
トキはそれだけ言うと、杖を突いて立ち上がった。 部屋を出る間際、彼女は不意に立ち止まり、窓の外の闇を睨みつける。
「それから……朱里。あんた、変な匂いを連れてきたね」
「匂い……?」
「この家は結界を張っているが、それも時間の問題だ。……あんたの中の器が、目覚めようとしている。……九条の追手は、もう山を登ってきているよ」
トキがいなくなった後、座敷に冷たい沈黙が戻った。
囲炉裏の火が、小さく揺れる。 ふと、自分の袖口から、微かな香りがした。
あの不快な、血の匂いの混じった赤い香水。 いや、違う。 それはもっと深く、甘く、けれど背筋が凍るような――清廉な赤い花の香り。
「……蓮司さん」
私は、冷たくなった位牌を抱きしめた。
成仏なんて、させない。 たとえ、私の命がどうなろうとも。
けれど、私の思いとは裏腹に、窓の外からは赤い香水の匂いが、夜の霧に乗って確実に近づいてきていた。




