第12話:25メートルの反撃
「……ぐ、ぅあ……ッ!!」
蓮司さんの悲鳴が、狭い事務所に響き渡った。
顔の半分が溶け落ちたような『赤い香水の女』の指が、蓮司さんの胸を深く貫いている。 幽霊であるはずの彼の体が、まるで脆いガラス細工のようにノイズを走らせ、今にも砕け散りそうに明滅していた。
「蓮司さん!!」
私は叫び、足がすくむのを必死でこらえて一歩踏み出した。 喉の奥を焼くような、毒々しく甘い香り。 女の指先からは赤い霧が溢れ出し、蓮司さんの魂を内側から腐らせようとしている。
「……足りない。……まだ、足りないわ……」
女が裂けた口を歪めて笑う。 その視線は蓮司さんではなく、彼の背後に隠れている私——『器』の娘へと向けられていた。
「朱里、……逃げ、ろ……ッ!!」
蓮司さんが血を吐くような思いで叫ぶ。 その瞬間、私の抱えていたバッグが、まるで溶岩を流し込まれたような熱を発した。 中に入っている、蓮司さんの位牌だ。
(……やらせない。蓮司さんを、これ以上……!)
私の指先が位牌に触れた瞬間、頭の中で『視界』が爆発した。 いつもなら死者の記憶を読み取る回路が、今は外側へと逆流している。 私の中から溢れ出した無尽蔵の霊力が、位牌を触媒にして、青白い閃光となって吹き出した。
「なっ……!?」
女の指が弾かれた。 私と蓮司さんを中心に、半径25メートルの球状の障壁が展開される。 青白い光のドームが、室内の赤い霧を一瞬で押し返した。
「朱里さん、今のうちに!!」
橘さんが私の腕を強く掴んだ。 彼は状況を瞬時に理解していた。幽霊である蓮司さんが守りに回った今、実体のある自分が朱里を外へ連れ出すしかないと。
「でも、蓮司さんが……!」
「連れて行くんだよ! その位牌を離すな!」
橘さんが私の体を半ば抱きかかえるようにして、事務所の奥へと走る。 正面のドアは女によって塞がれている。逃げ道は一つ。
「裏の非常階段だ!」
橘さんが窓枠を蹴り破った。 ガラスの砕ける鋭い音が響く。 私は位牌を胸に強く抱きしめ、橘さんに引かれるままに夜の闇へと飛び出した。
背後からは、コンクリートの壁を爪でガリガリと削りながら追ってくる女の足音が聞こえる。
「逃げられないわよ……『器』の娘。お前の魂は、門を開くための鍵。九条の『スペア』と共に、血の池へ沈む運命なのよ……」
女の声が、風に乗って耳元で囁くように響く。 スペア。器。 不気味な言葉が頭をよぎるが、今は止まっている暇はない。
鉄製の非常階段を、一段飛ばしで駆け下りる。 ガン、ガン、と足音が夜の路地裏に虚しく反響した。 位牌から展開されている青白いドームが、階段の柵や隣のビルの壁に接触するたび、激しい火花を散らしている。
「橘さん、車は!?」
「すぐそこだ! ……ちっ、来やがった!」
路地裏の突き当たり、橘さんが用意していた中古の軽自動車が見えた。 だが、その屋根の上には、すでに『赤い香水の女』が音もなく降り立っていた。
「……おいで。……幸せな死を、あげるから」
女が赤いドレスを翻し、天井からこちらへ飛びかかる。
「……っ、朱里さん、伏せろ!!」
橘さんが私を突き飛ばし、自分は車に飛び乗ってキーを回した。 キュルル、キュルル、とセルモーターが空回りする。
(お願い、かかって……!)
最悪のタイミングでエンジンがかからない。 女はニチャリと笑うと、車の屋根に両手をかけた。
メキ、メキメキッ……!!
嫌な金属音が響く。 女の細い指が、紙細工のように軽自動車の屋根をひしゃげさせていく。 フロントガラスにヒビが入り、女の真っ赤な顔がすぐ目の前まで迫った。
「……捕まえたわ」
絶体絶命。 橘さんが必死にキーを回すが、エンジンは沈黙したままだ。
その時。 私の腕の中で、位牌がこれまでになく激しく震えた。
「……橘、踏め!! 朱里、その板を絶対に離すな!! 消えたくなければな!!」
位牌から、蓮司さんの怒号が響き渡った。 それは、死者の声とは思えないほどの生命力に満ちた叫びだった。
ドォォォォォン!!
位牌の表面にあるヒビから、目も眩むような黄金の閃光が噴出した。 青白かった障壁が、一瞬にして刺々しい黄金の衝撃波へと変貌する。
「……ぁ、が……あぁあああッ!?」
車を押し潰そうとしていた女が、至近距離からの霊力の爆発をまともに浴びて、紙屑のように後方へと吹き飛ばされた。 路地の奥の壁に叩きつけられ、女の体が赤い霧となって霧散する。
――ブロロォォォン!!
呼応するように、エンジンの咆哮が上がった。
「今だぁぁぁ!!」
橘さんがアクセルを床まで踏み抜く。 タイヤが路面を激しく焼き、煙を上げながら、軽自動車は路地裏から大通りへと弾き出された。
バックミラーの中。 霧散したはずの赤い霧が、再び一箇所に集まり、女の形を作っていく。 女は追ってこようとはせず、ただ夜の闇の中に佇み、遠ざかるこちらの車を見つめていた。
その唇が、ゆっくりと動く。 音は聞こえない。けれど、その言葉ははっきりと脳裏に刻まれた。
『……逃げられないわよ、スペアと器』
女の不気味な笑顔が、闇の中に溶けて消えていく。
「……はぁ、はぁ、……朱里さん、無事か?」
ハンドルを握る橘さんの手は、小刻みに震えていた。 無理もない。幽霊に襲われ、車を素手で潰され、最後は黄金の光で脱出する。まともな人間の神経なら、とっくに限界を超えているはずだ。
「……はい、……なんとか。蓮司さんは……?」
私は恐る恐る、位牌を覗き込んだ。 黄金の光は消え、位牌は以前よりもずっと冷たくなっている。 蓮司さんの姿はどこにも見えない。
「……蓮司さん?」
返事はない。 ただ、白木の位牌のヒビが、先ほどよりも一回り大きく、深く刻まれていた。
彼は残された力のすべてを使って、私たちを逃がしたのだ。
「……あいつ、俺たちに黙って、何を隠してやがるんだ……」
橘さんが、苦しげに呟いた。
スペア。器。 九条宗次郎が私たちをそう呼ぶ理由は、きっと一つしかない。
夜の首都高を、ボロボロの軽自動車が疾走していく。 行き先なんて決まっていない。 ただ一つ分かっているのは、私たちの『日常』はもう、どこにも残っていないということだけだった。




