第2章:亡霊相棒の消滅危機と、赤き香水の処刑人 第11話:赤い香水の残り香
湯気の立たない冷めたカップ麺。 それが、今の私たちの現状を物語っていた。
「……はぁ。橘さん、本当にそこで寝るんですか?」
「文句言うなよ、朱里さん。一応、元・一課の精鋭だぞ。床で寝るのなんて慣れてる」
事務所の隅、臨時に敷かれた煎餅布団の上で、橘さんが大きな体を丸めている。
警視庁を辞めてから一週間。 最大の収入源だった『警視庁特務室』からの極秘依頼は、当然ながら一切途絶えた。
今や事務所に舞い込むのは、近所の浮気調査や迷い猫探しといった、小銭程度の仕事ばかりだ。 かつては国家の禁忌を扱っていた探偵事務所が、今や食いつなぐのにも必死。これが正義を選んだ代償なのだとしたら、世の中というのは随分と世知辛い。
「……おい、朱里。猫の次は犬か。俺を誰だと思ってる。これでも数々の迷宮入り事件を――」
ソファの上で不満げに毒づく蓮司さんの姿は、あの日以来、目に見えて透けていた。
九条宗次郎が放った『霊を縛る杖』のダメージは、想像以上に深刻だったのだ。
「蓮司さん、無理しないでください。……位牌のヒビ、また少し広がってる」
「……っ。気のせいだろ」
蓮司さんは視線を逸らしたが、その輪郭は時折、ノイズのように激しく揺れる。 霊力が底を突けば、彼は今度こそ成仏――いや、この世から消滅してしまう。
タイムリミットの足音が、静かに、けれど確実に近づいていた。
ーー
その時だった。
閉め切った窓の隙間から、ふわりと『それ』が入り込んできた。
「……!?」
私は鼻を突く異様な刺激に、思わず身を震わせた。
それは、むせ返るほどに甘く、どこか血の匂いが混じったような――香水の香り。
「朱里さん、どうした?」
橘さんが即座に跳ね起き、私の前に立つ。 彼は霊感こそないが、長年の刑事の勘で異常を察知したらしい。
「匂いが……。橘さん、気をつけて。例の……『赤い香水の女』です」
街で噂されていた都市伝説。 深夜、赤い香水を振りまきながら現れ、出会った者の魂を文字通り吸い出すという怪異。 それが今、私たちのすぐ近くにいる。
ガリ、と。 事務所の古いドアの向こう側から、爪で引っ掻くような音が聞こえた。
「……ふっ、ふふ……。視つけた。……いい匂い。……美味しそうな魂……」
扉の隙間から、真っ赤な霧が染み込んでくる。 蓮司さんが、青ざめた顔でソファから立ち上がった。
「朱里、下がれ! 橘、位牌を抱えてこい! ……こいつは、ただの霊じゃない。九条が『門』から呼び出した、純粋な捕食者だ!」
「ちっ、こんな時に……! 朱里さん、俺の背中に隠れてろ!」
橘さんが無骨な拳を構える。だが、相手は物理法則の通じない怪異だ。
バキィィィィン!!
激しい衝撃と共に、事務所のドアが粉々に砕け散った。
舞い上がる木屑の中から現れたのは、真っ赤なドレスを纏い、顔の半分が溶け落ちたような姿の女。
「……あ、あぁ……。九条の『スペア』。……そして、『器』の娘……」
女の手が、ゆっくりとこちらへ伸びる。 その指先から放たれる圧倒的な殺圧に、私は足がすくんで動けなかった。
「朱里――ッ!!」
蓮司さんの叫び声。 彼は消えかかっている霊力を振り絞り、私の前に飛び出した。
だが、その体は以前のような輝きを失っている。 女の指が、蓮司さんの胸を無情にも貫いた。
「蓮司さん!!」
「……ぐ、ぅあ……ッ!!」
蓮司さんの姿が、激しく点滅する。 弱り切った今の彼に、この怪異を押し留める力は残っていない。
「蓮司! 離れろ、バカ野郎!」
橘さんが捨て身のタックルを女に見舞うが、彼の体は霧のように女を通り抜けてしまう。
「……足りない。……まだ、足りないわ……」
女の口が、裂けるように開いた。 事務所中を埋め尽くす、赤く、重い香り。
絶体絶命。 収入も、力も、相棒も。私たちは、すべてを奪われようとしていた。
けれど、私は見た。 蓮司さんの白木の位牌のヒビが、一瞬だけ黄金色に輝くのを。
(……やらせない。私の相棒を、二度も殺させたりしない!)
私の右手が、無意識にバッグの中の位牌を掴んだ。 熱い。火傷しそうなほどの熱が、私の腕を駆け巡る。
――逆襲の鐘は、まだ鳴り止んでいない。




