表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/29

第10話:壊れた均衡、選ぶべき正義


事務所に戻った後の沈黙は、地下室の闇よりも深かった。


カチ、カチ、と壁の時計が時を刻む音だけが、耳障りなほど大きく響く。


橘さんはソファに深く沈み込み、両手で顔を覆っていた。 その前のテーブルには、あの血のついた戸籍謄本が置かれている。


「……嘘だろ。なんで、俺があいつの……」


絞り出すような声は、今にも壊れてしまいそうだった。


九条宗次郎。 母を奪い、蓮司さんを殺し、この国の闇を操る化け物。 橘さんが生涯をかけて戦おうとしていた悪の権化が、自分の実の父親だった。


「朱里さん。……俺は、どうすればいい」


橘さんが顔を上げる。その瞳は濁り、絶望に塗りつぶされていた。 私を真っ直ぐに見ることさえできないほど、彼は自分という存在に怯えている。


「あいつの血が、俺の中にも流れてるんだ。……母さんは、毎日この血を隠しながら俺を育てた。俺は、存在しちゃいけない人間だったんだよ。……俺が、蓮司を殺したも同然じゃないか」


「そんなこと、ありません!」


私は思わず叫んでいた。 でも、私の言葉は橘さんの心に届かない。


彼は自嘲気味に笑い、自分の手を汚いものを見るように見つめた。


「同じなんだよ。この体も、この骨も……。九条の呪われた血が混ざってる。……俺が、そばにいない方がいいんだ。蓮司だって、俺の顔なんて見たくもないはずだ」


その時。


私の隣でずっと沈黙を守っていた幽霊が、盛大に舌打ちをした。


「――おい、朱里。そこの自暴自棄ゴリラの胸ぐらを掴め」


「えっ……蓮司さん?」


蓮司さんは腕を組み、空中で橘さんを冷たく見下ろしていた。 その瞳には、憐れみなんて一滴も入っていない。


「いいからやれ。……そのマヌケな面に、俺の言葉を叩き込んでやる」


私は意を決して、橘さんのシャツの襟を掴んだ。 突然のことに橘さんが目を見開く。


「朱里、伝えろ。……『お前が誰の息子だろうが、俺の知ったことか。お前の親父がクズなのは、大学時代から薄々感づいてた。だが、俺を殺したのは九条宗次郎であって、橘慎一じゃない』」


私は、蓮司さんの言葉を一言一句、体中の熱を込めて橘さんにぶつけた。


「……蓮司、さん……?」


「まだだ! 『俺の親友は、デカの癖に靴が汚くて、無駄に熱血で、時計のオーバーホールも知らない馬鹿な男だ。九条の世継ぎなんて、薄っぺらな肩書きの奴じゃない。……それを否定するなら、今すぐここから出ていけ。俺たちの邪魔だ』」


蓮司さんの声が、事務所の空気を震わせる。 彼は実体がないはずなのに、その言葉には物理的な衝撃があった。


「……ふっ、はは……。相変わらず、容赦ないな。死んでもそれかよ」


橘さんの目から、ポロリと涙が零れ落ちた。 彼は笑いながら、何度も何度も目元を拭う。


「……あぁ、そうだな。俺は、橘慎一だ。……九条なんて、知ったことか」


橘さんはゆっくりと立ち上がると、デスクに置いてあった上着を掴んだ。 その足取りには、先ほどまでの迷いはない。


「朱里さん。……ちょっと、行ってくる」


「え? どこへ……」


「……けじめをつけに、な」


ーー


警視庁。


かつての職場、そして正義の殿堂。 橘さんは淀みのない足取りで、捜査一課の奥、『特務室』のプレートが掛かった部屋のドアを蹴破るようにして開けた。


中にいたのは、桐生勝己。 九条宗次郎の手先として、警察組織を腐らせている男だ。


「おや、橘くん。……九条様のもとへ行かなかったのかい? 君はもう、この世界の主役になる権利を得たというのに」


桐生が優雅に椅子を回し、不敵な笑みを浮かべる。 橘さんは無言で、桐生のデスクの前に立った。


そして。 懐から取り出した二つのものを、桐生の鼻先に叩きつけた。


一つは、白無地の封筒。 もう一つは、金色の代紋が輝く警察手帳。


「……これは?」


「辞表だ。……俺は今日、警察官を辞める」


桐生が、意外そうに眉を上げた。


「ほう。せっかくのキャリアを捨てるのか。……九条様の息子として、我々の組織を指揮する道もあっただろうに」


「断る。……お前らの腐った手下になるくらいなら、ドブネズミになった方がマシだ」


橘さんの声が、部屋中に響き渡る。 周囲の職員たちが息を呑む中、橘さんは桐生の胸ぐらを掴み、その冷徹な顔を至近距離で睨みつけた。


「桐生。九条宗次郎に伝えろ。……あんたの血が流れていることは否定できない。だが、あんたの言いなりになる橘慎一は、どこにもいない」


橘さんの拳が、ミシリと音を立てる。


「次にあんたたちの前に立つ時は、法なんて生易しいものじゃない。……蓮司を殺し、母さんを汚した報いを、俺自身のこの手で叩き込んでやる。……覚悟しておけ」


「……威勢がいいね。……だが、バッジを捨てた君に何ができる?」


「一人じゃないさ。……俺には、世界一性格の悪い相棒がついてるんでね」


橘さんは、桐生を乱暴に突き放した。 そして、一度も振り返ることなく、その部屋を、そして警視庁を後にした。


ーー


事務所に戻ってきた橘さんの顔には、清々しい朝日が差し込んでいた。


彼はデスクの上に置かれた蓮司さんの位牌を見つめ、不敵に笑う。


「……待たせたな。……今日から俺は無職だ。用心棒として雇ってくれ」


「ふん。給料は出さないぞ、橘」


蓮司さんは、ソファにふんぞり返ったまま、満足そうに鼻で笑った。 朱里も、ようやく笑顔を見せる。


死んだ相棒。 警察を捨てた親友。 そして、霊感しか取り柄のない私。


壊れたはずの三人の均衡は、より歪で、けれどより強固な形に生まれ変わった。


「……よろしくお願いします、橘さん」


「あぁ。行こうぜ、二人とも。地獄の蓋を、こじ開けにな」


その時。


ふと、デスクの上の位牌が、ピシリと音を立てた。


一筋の、小さなヒビ。 蓮司さんの魂が、現世に留まるための代償。


タイムリミットは、確実に近づいている。 けれど、私たちの心に、もう迷いはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ