第1幕:『再会の代償は、半径25メートル』 1話:死人に口なし……のはずが、相棒がうるさい
「――おい。いつまで震えてる。仕事だぞ、無能助手」
その声は、冷たくて、鋭くて。 けれど、私の凍りついた心を溶かす唯一の温度を持っていた。
「……わかってます。わかってますけど、怖くないわけないじゃないですか」
私は震える手で、立入禁止の黄色いテープを潜った。 場所は、深夜の廃ビル。 コンクリートの床はひんやりと冷たく、湿ったカビの匂いが鼻を突く。
隣を歩くのは、工藤蓮司。 私が勤める『工藤探偵事務所』の所長であり、私の相棒。 そして――警視庁さえ匙を投げた難事件を闇で捌く、影の探偵。
「警視庁からの極秘依頼だ。……準備はいいか、朱里」
蓮司さんは、いつも通り仕立ての良いコートのポケットに手を突っ込み、顎をしゃくった。 その視線の先。 無造作に転がっている「それ」を見て、私は息を呑む。
「……っ」
それは、かつて人間だったものだ。 外傷は一つもない。 けれど、その表情は「この世のものとは思えない恐怖」に固まったまま絶命していた。
「……視える。犯人は、赤い香水の女」
私は、死者の首筋にそっと指を触れた。 その瞬間。
「あ、が、あぁあああ……ッ!!」
視界が、真っ赤に染まった。 ドクドクと脈打つような殺意。 喉を焼くような熱い感覚。 見知らぬ女の、歪んだ笑顔が脳内に直接流し込まれる。
これが私の能力――【魂の断片】。 死者が最期に見た記憶を、五感ごと共有する禁忌の力だ。
「……朱里! 戻ってこい!」
強い力で肩を揺さぶられ、私は現実に引き戻された。 蓮司さんの顔が、すぐ近くにある。 相変わらずの眉間の皺。でも、その瞳には隠しきれない危惧の色が浮かんでいた。
「……はぁ、はぁ……。大丈夫、です。視えました」
「そうか。上出来だ。あとは俺が論理でハメてやる」
蓮司さんは私の手を離すと、冷徹な探偵の顔に戻った。 「犯人はこのビルの管理状況を知り、被害者を誘い出した。……香水の主は、被害者の愛人だな。橘、あ後の裏取りは任せるぞ」
影から現れたのは、橘慎一刑事。 蓮司さんの親友であり、私たちの事務所に「表に出せない事件」を持ち込む窓口だ。
「助かるよ、蓮司。お前たちがいないと、この街の『視えない事件』は迷宮入りばかりだ」
「ふん、警察がマヌケなだけだ。……行くぞ、朱里。ここにはもう用はない」
蓮司さんは背を向け、さっさと歩き出す。 私は慌ててその後を追った。
事務所に戻ると、蓮司さんはいつもの定位置――革張りのソファに深く腰掛けた。 彼はコーヒーを一口啜ると、不機嫌そうに私を睨む。
「朱里。……霊の記憶は『毒』だと言ったはずだ。深入りしすぎるな」
「でも、私が視ないと、蓮司さんの推理が始まらないじゃないですか」
「お前の代わりはいない。だが、俺の代わりはいくらでもいる。……それを忘れるな」
……まただ。 蓮司さんはいつも、私を守るために自分を低く見積もる。 彼は、私が闇に飲み込まれないように「一線」を守ってくれる盾だった。
「……蓮司さんこそ、最近無理してませんか? 変な連中に付け狙われてるって、橘さんが……」
「あの熱血馬鹿の言うことを真に受けるな。俺がヘマをするとでも思うか?」
蓮司さんは鼻で笑った。 でも、その時の彼のデスクには、見たこともない重厚な『黒いファイル』が置かれていた。 そこに記されていたのは、国家の根幹を揺るがすような――文字通りの禁忌。 有能すぎた彼は、踏み込まんではいけない場所に、その足をかけていたのだ。
「いいか、朱里。もし俺に何かあったら――」
「縁起でもないこと言わないでください!」
私は彼の言葉を遮った。 その時は、本気でそう思っていた。 彼がいなくなるなんて、世界が消えるのと同じくらい現実味がないことだったから。
けれど、破滅の足音は、私たちが気付かないほど静かに、確実に近づいていた。
――数週間後。
工藤蓮司は、死んだ。 公式の発表では、不慮の事故。 けれど、私は知っている。 彼が最期に残した、位牌の中の魂が、私にこう告げたからだ。
『……おい、朱里。いつまで泣いてる。ブサイクな顔が、さらに酷いことになってるぞ』
……今、私の目の前には、位牌がある。 御影家の仏壇の奥から引っ張り出してきた、古びた位牌だ。 その中に、彼はいる。
「……蓮司さん。……本当に、死んじゃったんですね」
「見ての通りだ。触ることもできなければ、コーヒーの味もしない。おまけにお前の愚痴を聞かされる。……地獄とはこのことだな」
声は、生前と同じ。 毒舌も、生前と同じ。 けれど、彼はもう、私の肩を抱いてはくれない。
「……これから、どうするんですか。私一人じゃ、探偵なんて……」
「黙れ。俺がお前を仕込んでやったんだ。……それより、朱里。覚悟を決めろ」
位牌の中から、ゾッとするような冷気が漏れ出した。
「俺を殺した奴らは、次にお前を狙う。……そして、この国の『裏側』を暴く。……半径25メートル。この距離がお前の守備範囲だ。死んでも俺が守ってやる」
私は涙を拭い、位牌を強く抱きしめたまま震えが止まらなかった。 冷たい。 でも、不思議と怖くはなかった。
「……わかりました。やりましょう、蓮司さん」
「あぁ。……まずはその泣き言を止めろ。耳に障る」
私の相棒は、生きていても死んでいても、最高に口が悪い。 けれど、世界で一番、頼りになる幽霊だ。
その時。
事務所のドアが、ノックもなしに激しく開かれた。
「朱里! 無事か!」
飛び込んできたのは、肩を大きく揺らした橘さんだった。 彼の目には、焦燥と、そして――どこか私に向けられた、切実な独占欲のようなものが滲んでいた。
「……おい、朱里。橘が来たぞ」
「わかってますよ、蓮司さん」
「……あいつ、お前の肩を抱こうとしたら、霊力で弾いていいか?」
「ダメですよ!」
私の新しい日常。 それは、死んだ相棒と、生きている親友。 二人の男に挟まれた、世にも奇妙な事件簿の始まりだった。




