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あやしあやかしとりかへ物語

作者: あまNatu

 男性たちの叫び声がこだまし、夜の京は騒音に包まれた。


「――出たぞ! 怨霊だ!」


「陰陽師はまだか!?」


 松明の灯に照らされて、ソレは姿を現した。

 死した人間の無念怨念。

 それらを餌として強く大きくなる存在、がしゃどくろ。

 巨大な白骨は、近くにいる人間を最も容易く弾き飛ばした。


「――ぐぁっ!」


「くそっ! 刀も矢も効かない……っ! ――定正さだまさ殿はまだか!?」


 家を壊し人を潰してがしゃどくろが突き進む先は、日の帝がおわす内裏だ。

 そこにだけは行かせてなるものかと、男たちは刀を持ち立ち向かう。


 ――そんな時だ。


 馬の蹄が暗闇の中に響き渡る。


「――定正殿だ!」


 男たちの顔に安堵の笑みが溢れる。

 彼らの視線は内裏へと続く一本道の先へと注がれ、そこに現れた人を注視した。

 漆黒の馬に乗り駆ける男は、弓を引き狙いを定める。

 体の軸を一切揺らすことなく矢尻をがしゃどくろへ向け、そのまま指を離す。

 勢いよく飛んだ矢は、がしゃどくろの額へと直撃した。


「――破邪の矢だ!」


 するとどうしたことだろう。

 がしゃどくろはまばゆいばかりの光を発し、一瞬にして砕け散った。

 それを見た検非違使たちは大きく湧き拍手を送る。

 いつも通りの立役者。

 ――藤原定正ふじわらのさだまさその人に。


「いやあ、さすがは安倍晴明の再来と名高き定正様だ! 左大臣様もご子息がこのように優秀で、鼻が高いでしょう」


「いえ……。そのようなことは」


「息子は左近衛部の中将として帝の覚えめでたく……。そういえば左大臣家の桜姫は、そろそろ帝の女御となられるのではとお噂ですが……?」


「桜姫が? ……ははっ、そんなことは」


「桜の中将。主上が今回の話をお聞きしたいと……」


 失礼、と声をかけてから定正はもう一度馬に乗る。

 主上からの呼び出しでは、無視するわけにもいかない。

 愛馬の腹を蹴れば、分かったといわんばかりにきた道を戻る。


「やれやれ。戻るのはまだ時間がかかりそうね。桜馬おうばも、本当の主が恋しいでしょうに」


 まるでその通りだと相槌を打つように声を上げた桜馬は、さらに勢いをつけて内裏へと向かう。

 左大臣家の屋敷に帰るのは、夜が明けた頃になりそうだ。




 少し前のお話。

 左大臣家の奥方はその日、産気づいていた。

 大きく膨れたお腹を大切に守り抜き、ついにその日を迎えたのだ。

 数時間のお産の末、生まれたのは元気な男の子だった。


「――男……? 男なのね? ……ああ、神様。この左大臣家に後継を与えてくださり、誠に感謝いたします」


 大きな産声を上げた男の子に、屋敷の人々が祝いの声を上げる中。

 それは起こった。


「奥方さま。――まだ、お子がいらっしゃいます」


「…………どういうこと? ……まさか」


「そのまさか。……双子でございます」


 双子は不吉の象徴とされている。

 奥方は涙に濡れる瞳を大きく見開き、固まった。


「――双子だと!? 我が左大臣家に……そのようなこと……!」


 左大臣の声が響く。

 明らかに動揺しているらしい左大臣は、ひさしと呼ばれる中廊下のようなものを行ったり来たりしている。

 母屋と廂の間には御簾みすと呼ばれる簾のようなものがかけられ中はよく見えない。

 状況がわからないからからか不安に足を早めた左大臣の影を、奥方はぼうっと見つめた。


「奥様、力んでください」


「――けれど……」


「産まねばなりません! ……その後をどうするかは、左大臣様がお決めになること……!」


「――っ」


 そんな騒動の中生まれたのは、珠のように美しい女の子だった。

 彼女が生まれ出たその時、空は暗雲が消え去り月が優しく左大臣家を照らした。

 星々は煌めき、神風が左大臣の頰を撫でる。

 さらには咲かずの桜が芽吹き、まるでその誕生を祝福するかのように満開の花を見せてくれた。

 

 ――それは、不思議な光景だった。


「……これは……神々がこの子の誕生を祝福しているのだろうか…………?」


「殿さま……。いかがなさいますか……?」


「…………全て神のお導きだ。……娘は姿を隠し、一年後生まれたことにしよう」


「――かしこまりました」


 こうして左大臣家に双子ではない男女の子どもが誕生したのだった――。





 時は戻り、がしゃどくろが出た翌日。

 藤原定正はやっとの思いで左大臣家へと戻ってくることができた。

 寝不足の目元を擦りながらも渡殿と呼ばれる建物と建物をつなぐ橋を越え簀子を歩み、東の対屋へと向かう。

 そこには本来双子であるはずの妹が住んでいる場所だ。


「――桜姫、入るよ」


 母屋へと声をかけそっと御簾を上げ中に入れば、そこには一人の女性が座っていた。

 濡羽鴉のようなたっぷりとした美しく長い髪に、真っ白な肌。

 すっきりとした目元に影を落とす長いまつ毛に、名の通り桜のように薄い桃色をした唇。

 麗しの桜姫と噂される左大臣家の姫が、そこにいた。

 定正は己と瓜二つの顔を見ながらも、その場に勢いよく座り込んだ。


「急に変わるのはやめてくれといつも言ってるだろう!? よりにもよって主上の御前で変わるなんて……!」


「私の役目はもう終わっていたもの。あとはあなたの仕事でしょう?」


「だから変わる時と場所を選んでくれとあれほど……」


「おや、桜の中将がおかえりか?」


 外から声が聞こえ、御簾を上げて入ってきたのは左大臣。

 二人の父親だった。

 彼は息子、娘を交互に見るとうんうんと頷いた。


「元気そうでなにより。二人とも、昨夜はよくやってくれた。主上もたいそうお喜びだろう」


「頑張ったのは私でしょう?」


「体を動かしたのは僕だ。それに主上への説明だって……」


「ほらほら。言い合いなんてするものではない。そなたたちは兄妹なのだから」


 隠されて生まれた女児――本名を桜子は、摩訶不思議な力を持っていた。

 それは退魔の力。

 この世に蔓延る悪鬼たちを討ち払う、聖なる力。

 定正が生まれた一年後、生誕したとされる彼女は見るものを魅了する美しさを幼いころから携えていた。

 だからこそ左大臣は大いに困った。

 その力、息子の定正が持つのなら大いによし。

 存分に能力を使い、出世間違いなしだからだ。

 だが女の桜子となると話は違う。

 左大臣家のお姫様が、人前に出て魑魅魍魎と戦うわけにもいかない。

 貴族の女性は姿を隠し、名前ですら夫となるものにしか教えない。

 それゆえなんともったいないことをと嘆いていた左大臣に、ある日転機がやってきた。

 それはまだ、二人が五歳にもならない時だ。


『おちちうえ。わたしがさくらこです』


『おちちうえ。ぼくがさだまさです』


 そう逆から言われて、左大臣は笑った。


『なんだなんだ。お父上をからかっているのか?』


『いいえちがいます。わたしがさくらこで』


『ぼくがさだまさです』

 

『だから、からかって……』


 双子は本当に不思議そうに左大臣を見てくるのだ。

 なぜこんな簡単なことがわからないのだと。

 実際、本来なら桜子にしかないはずの退魔の力を定正が使ったことにより、その入れ替えは真実であると確信した。

 そしてそれを使えば、二人の未来も明るいと……。


「あの時はたいそう驚いたが……やはり双子というのは不思議なものだ。一つの魂を分けたからか、そなたたちは互いの体を行き来できる」


 昨夜のがしゃどくろ。

 退治したのは定正の体に入った桜子であった。

 彼女は馬だけでなく、剣術も弓道も最高の腕前だ。

 ゆえに昨夜のように妖退治の際は、お互いの体を入れ替えることになっている。


「その間、僕は殿方から届いた文を読んでました。かと思えば急に入れ替わって……。主上の御前で心臓がとまるかと思った」


「どうせろくな手紙はなかったのでしょう?」


「それはそう。桜姫が気にするようなやつはいなかったよ」


「ならよかった。女房たちに代筆させるのも骨が折れるもの」


 ちょうど桜子の目の前に手紙が入った螺鈿細工の箱があり、見るのも嫌だと早々に蓋をした。

 螺鈿細工とは貝殻を用いた技法だ。

 貝殻で美しい蝶を用いた箱なのに、桜子は奥の方にしまい込んでしまう。


「父上の仰るとおり、主上はたいそうお喜びでしたよ。僕を近衞府に置いてよかったとおっしゃっていただきました」


「内裏を守るのがそなたの役目。主上のこと、必ずやお守り致せ」


「もちろんです」


「だから、守るのは私の役目でしょう? ――それよりお父上。このような夜明けにどうなさいました?」


 左大臣として忙しくしている父がやってくるなんて珍しいと桜子が問えば、途端にその瞳があちこちへと向けられる。

 その様子に、桜子は扇を広げ顔の半分を隠した。


「――お父上?」


「……いや、その、だな。……桜の中将が帝の覚えめでたいだろう? その流れでな……うん…………」


「――まさか、本当に桜姫を帝の女御に?」


「……主上は入内をお望みだ」


 女御とは帝の妻のこと。

 ということはつまり、帝は桜子を妻にと望んでいるのだ。

 それを聞いた桜子は、ピシャッと音を立てて扇閉じた。


「冗談ではありません! だいたい私が女御になったら、桜の中将はどうするのです!?」


「君は変わりたい時に変われるだろう? 僕は無理だけれど……」


 双子とはいえ能力の差は大きい。

 むしろこれは、桜子と双子だったから与えられたに過ぎないものなのだろう。

 どれほど遠く離れていても、お互いの存在は感知できるし、なんとなく状況も理解できる。

 桜子のほうは目を閉じれば、定正の瞳を介して外の景色も見えるらしい。

 そんなわけで桜子の能力のほんの一部を与えられたに過ぎない定正からは、体を入れ替えることができないのだ。

 心の中で桜子に願い出て、ようやく叶う。


「ならまた主上と一緒の時に変わりましょうか? 夜の御殿で」


「――な、なんてこと言うんだ!?」


 夜の御殿とは寝所を意味する。

 それはつまりそういうことをする時に変わるといっているようなものだ。

 そんなことされては困ると慌てて首を振れば、見かねた左大臣が口を開いた。


「桜姫。冗談でもそのようなことを口にするべきではない」


「……申し訳ございません」


 確かに今のは不適切だったと軽く頭を下げた桜子に、左大臣はにっこりと微笑んでみせた。


「ならば桜姫よ。――尚侍ないしのかみとなり新たな東宮さまをお助けする気はないか?」


「――お父上? 一体なにを……」


 聞き間違えかと耳を疑ったが、どうやら間違いではないらしい。

 左大臣は大きめなため息を一つこぼす。


「主上はなにがなんでもそなたを内裏に招きたいらしい。女御が難しいようなら、ぜひまだ幼い新しい東宮さまの尚侍として支えてほしいと」


「それは、主上と桜姫の顔合わせのためでは……? 東宮様の尚侍になったら否応でも主上に会うことになる」


「桜姫。そなたはこの左大臣家の姫。……避けては通れぬ道だ」


 尚侍。

 つまりは女官として宮中に上がれというのだ。

 名家の娘として産まれたからには、確かに避けては通れぬ道だろう。

 実際桜子が年ごろになってからは、毎日のように手紙が届けられる日々。

 帝の女御にとの話も、これが初めてではない。


「…………わかりました」


 はぁ、と大きなため息をついた桜子に、左大臣は瞳を輝かせる。


「おお! やっと女御として入内する気になったのか!?」


「まさか。私がなるのは東宮さまの尚侍です。……どうせ結婚させられるのなら、相手はこの目で確かめます。それは主上も同じです」


「な、なんと恐れ多いことを……!」


 どうやら桜子は帝を値踏みしようとしているらしい。

 口に出すのも憚られるような内容だが、桜子は恐れることなく述べた。


「それくらいの度胸もなくて、主上の女御などできましょうか?」


 確かに、と定正は頷いた。

 内裏とは人の欲望渦巻くところだ。

 男同士の権力争いもさることながら、なにより恐ろしいのは女同士の争いだ。

 たった一人、主上の子を成すためだけに人生を捧げたものたちにとって、寵愛を得られるかどうかはまさに命懸け。

 そして男の子を授かろうものなら……。

 だから怨念が強いんだよなと、定正はため息をこぼした。


「女御になるかどうかは私が決めます。お父上、勝手に話を進めぬようお願いいたします」


「うむぅ……。まあ、これでも前に進んだと思うより他にあるまい……」


 左大臣家で送られてくる手紙を精査するより、内裏に行ったほうがまだいいほうだろう。

 自分を納得させるようにうんうんと頷く左大臣を横目に、定正は桜子に近づいた。


「本当にいいの? 尚侍になったら、後戻りできないよ……?」


「どうせこの家にいたら、さっさと主上の女御にさせられるもの。……せめて人となりが知りたいだけよ。――遅かれ早かれ、女御にはなってたはずだもの」


「まあ……そうだけど。――というか、主上のことは存じてるだろう? 僕の目を通して」


 定正の言葉に鼻で笑った桜子は、閉じた扇の先を向けてきた。


「男に対する態度と女に対する態度、同じならそれもそれで問題よ? 全く……。今業平と名高い桜の中将は、男女の仲をまるで知らないのね? 名前負けしてるわ」


 ああ、嫌だと、定正はしかめっつらを見せる。

 在原業平という男が過去にいた。

 見目麗しい美男子であり、なにより情熱的な恋を歌ったことで有名だ。

 ようは数多の女性から好意を寄せられる、恋多き男にそんなあざなが付けられるのだが、その名前で呼ばれることが定正は一番嫌いだった。

 残念ながら浮き名を流したことなど一度もないのに、宮中を歩いていただけでそんな字をつけられてたまったものではない。

 桜子のいうとおり、名前負けしている。


「そういうのは式部卿宮しきぶきょうのみやさまが名乗るべきだよ」


「式部卿宮さまねぇ。……そういえば文をもらってたわね」


「……あの人は……やめたほうがいいと思うけど……」


「安心なさい。興味ないから」


 その返事に心底安心してしまった。

 現帝の叔父にあたる式部卿宮はその美しさと優美さ、さらには血筋も相まって宮中でも話題の人だ。

 数多の女房たちと浮き名を流す姿は、まさに今業平と呼ぶにふさわしいだろう。

 だからこそ、そんな男に妹がたぶらかされるとあっては、兄として黙ってはいられないのだ。

 そんな兄の心中など知りもしない桜子は、ひらりと桜襲を翻しそのまま鏡の前へと腰を下ろした。


「……東宮さまって、まだ幼子なのよね?」


「確か七になる頃だったと思うよ。……心細いだろうね。一ヶ月ほど前に宮中に入られたけれど、現帝の皇子が生まれるまでの繋ぎとしか見なされていないから」


「…………そう」


 一見冷たく見える桜子だが、実は情が深いことを兄は知っている。

 案外幼い東宮と相性がいいかもしれないなと、その背中を見つめた。





「桜の中将」


「橘の少将。いったいどう――」


 宮中にて声をかけてきたのは、顔見知りの右近衞府の橘の少将だった。

 身長も高くがっしりとした肉体を持った彼は、定正を見つけるとそのたくましい腕を首へと回してきて、すすすっと端のほうへ寄る。


「桜姫が入内すると聞いたぞ!?」


「違う。東宮さまの尚侍としてくるんだ」


「……それでは、主上の女御になるわけではないと?」


「――それは……わからないけれど」


 定正の声が聞こえているのかいないのか。

 橘の少将は力強く拳を握ると、天高く突き上げた。


「つまりまだ俺にも可能性はあるということだな! 桜の中将! 妹君を俺に紹介してくれ!」


「無理だ!」


 あの桜子が定正の友人を紹介されたからとて、だからなんだといわれるのがオチだ。

 だがそんな桜子の正体を知らない橘の少将はぽうっと頰を赤らめる。


「左大臣家の桜姫はあまりにも有名だ。だからこそ主上も女御にと望んでおられる。――お前を見ればわかる。桜姫の美しさは国一番だ!」


「――俺をそういう目で見ないでくれ」


 熱っぽい視線を向けられて、定正の二の腕が逆毛立つ。

 心底嫌だと顔を歪ませれば、橘の少将は人差し指を立てた。


「だが事実、主上はお前を見て桜姫に狙いを定めたに違いない。右大臣家から弘徽殿と麗景殿の女御さまお二人いらっしゃるが……どちらもご懐妊はされていない」


「……難しい話だ。主上はそのどちらにも分け隔てなく接しておられるのに」


「だからだろう。どちらも同じでは、寵愛にはほど遠い。……主上は望まれているんだよ。胸を焦がすような恋を」


 帝も立場がある。

 特に宮中というのは、権力がものをいう。

 そしてその権力には誰も逆らえないのだ。


 ――天下の帝であろうとも。


「左大臣家の姫ならなんの問題もなく寵愛を与えられる! 主上はその展開を望まれてるんだ」


「……ひとまず、桜姫は東宮さまの尚侍になるよ」


「これは梨壺に馴染みの女房を作っておかねばな!」


 ガハハと笑う橘の少将には苦笑いを送ることしかできなかった。

 たとえ梨壺に馴染みの女房を作ったとて、あの桜子が素直に招き入れるわけがない。

 叩き返される未来しか見えないなと思っていると、不意に後ろから声がかけられた。


「桜の中将。主上がお呼びです」


「――主上が?」


 一体なんのようだろうか?

 呼ばれるようなことがあったかと考え、すぐに答えにいきついた。

 主上も一人の男。

 その点は橘の少将と変わらないようだ。


「……わかった。すぐに向かうよ。それじゃ、橘の少将。僕はこれで」


「おお! 桜姫への紹介の件、考えといてくれー!」


 考えはした、行動には移さないが。

 定正はさっさと足を進め、帝の住まいである清涼殿へと向かう。

 その間にも、ずっと視線を感じた。

 壁のようにかけられた御簾の向こうには、数多の女房たちがいる。

 そして定正という存在を値踏みしているのだ。


 ――そう思うと、ゾッとする。


 たくさんの想いのこもったモノは、さまざまなモノを生むから……。

 桜子と共にいて知った世界は、見ていて気分のいいものではない。

 でもだからこそ思う。

 桜子のそばに自分がいれてよかったと。

 あんな世界に一人っきりでは、いさせられないから。


「……」


「桜の中将? どうなさいました……?」


「――いえ、なんでも」


 軽く首を振ると足を早める。

 清涼殿と呼ばれる帝の住まいへと向かえば、昼御座へと通された。

 昼御座とはその名の通り帝が昼に過ごす場所である。

 畳二枚の上に茵が引かれており、主にそこで帝は仕事をするのだ。


「上さま、桜の中将が到着いたしました」


「ああ。桜の中将、急に申し訳ないな」


「――いえ、そのようなことは」


 帝の前に座り頭を下げれば、顔を上げるよういわれる。

 命じられるがまま背筋を伸ばせば、目の前には麗しのかんばせが現れた。

 涼しい目元に薄い唇。

 目元のほくろがたまらないのだと女房たちが騒いでいた。

 神は人に二物も三物も与えるらしい。

 帝という立場、この見た目、そして国を収めるその手腕。

 完璧な存在とはこの人のことを言うのだろうと、定正は思っていた。


「お呼びとお聞きしまいりました。……どういったご用件でしょうか?」


「――ふむ」


 帝はなにやら意味ありげに扇を開くと、はたはたと顔の辺りを仰ぐ。

 桜が描かれた美しい扇に、予想は当たっていたのだと察した。


「……東宮の尚侍、桜姫は受けてくれたようだな」


「――…………はい」


「そうかそうか。……ついに難攻不落の桜姫が内裏にくるか。……荒れそうだな」


「失礼ながら主上。……楽しんでおいででは?」


「いやいや。ははは!」


 楽しげに笑った帝は閉じた扇を動かし、ちょいちょいと定正に近寄るよう命じる。

 膝を前に出し歩み寄れば、帝は定正の耳元で声を落とす。


「それで? 桜姫は入内は考えておいでかな?」


「いえ……。それは」


「いい、いい! 今は東宮のことに集中してもらいたい。……複雑な立場だ。左大臣家が後ろ盾……とまでは言わないが、味方についてくれるとありがたい」


「……はい」


 難しい話だ。

 もし仮に桜子が入内したのなら、現東宮はもっとも厄介な敵となる。

 桜子の産む子が男の子だったら、現東宮を廃してでもその地位を手に入れなくてはならない。

 やはり桜子が尚侍となったのは間違いだったのかもしれないと、そう思ってしまうのは無理のないことだ。


「そなたを呼んだのは他でもない。――これを、桜姫に渡してくれ」


「……これを?」


 それは今の今まで帝が使っていた、桜が描かれた扇だった。

 ふわりと香るのは、帝が好んで使う伽羅きゃらの匂いだ。

 これはまた、とんでもないものを渡されたなと定正は口をギュッと結ぶ。


「……主上は、桜姫を女御にお望みなのですか?」


 帝の私物を褒美でもなく下賜されるなんて、よほどのことだ。

 だからこそ問うたのだが、帝は定正の手に扇を握らせつつ、意地の悪い顔をした。


「さて、な。兄のそなたにいうのは憚られる」


 ああ、これは逃げられないと、定正は手にある扇を強く握ったのだった。




 


 左大臣家の姫君が東宮の尚侍として参内するとのことで、内裏は大いに沸いていた。

 その姿はまるで女御が入内するが如く。

 尚侍として参内するだけだというのに、お付きのものたちは軽く四十は超えているという。

 そんな煌びやかな参内を果たした桜子は、落ち着いた様子で東宮の前に腰を下ろした。


「東宮さま。左大臣家、藤原桜子が尚侍として参内のごあいさつに参りました」


「――ご苦労」


 幼い声を聞きながら、桜子は顔を隠していた扇を閉じ顔を上げる。

 目の前には七歳になったばかりの幼い東宮が座っていた。

 彼は威厳を保とうと必死に怖い顔をしていたが、それを見て桜子は無意識にも入っていた力を抜いた。

 見た目だけは、必死に取り繕っている子どもにしか見えなかったからだ。


「藤原桜子と申します。本日より、東宮さまにお仕えさせていただきます」


「お主が主上が女御にとお望みの桜姫か」


 東宮の瞳は、真っ直ぐに桜子が持つ扇に向けられている。

 その様子、そして周りの女房たちの視線でも気がついた。

 この扇が帝より下賜されたものだと、みなが知っているのだ。

 帝が女御にと切に願う娘。

 そう思われているのだろう。

 東宮はしばし桜子を見つめた後、にっこりと笑った。


「よく参ってくれた。お主が我が尚侍となってくれたこと、心より感謝する」


「――もったいなきお言葉にございます」


「桂はおるか?」


「ここに」


 東宮が呼んだ名前に、桜子は扇で顔を隠しつつ視線だけをそちらへと向けた。

 梨壺のことは定正が可能なかぎり調べてくれており、内情には少しだけ詳しいつもりだ。

 例えば今呼ばれた桂という女は、東宮の乳母らしく全幅の信頼を置かれているらしい。

 梨壺の主である東宮からの信頼が厚いとどうなるか。

 それはとても簡単だ。

 梨壺で誰も彼女には逆らえないということだ。

 だから要注意人物だと定正から言われていたのだが、こんなに早く出会うことになるとは思わなかった。

 初老ながらも肌艶のよさに、確かにいい暮らしができていそうだなとその様子を観察する。

 そんな桂は桜子へ、なぜか鋭い視線を向けてきた。


「尚侍と話をしてみたい。人払いをしてくれ」


「……かしこまりました」


 乳母は少しだけ怪訝そうな顔をしたが、すぐに頷くとほかの女房たちを廂まで下がらせる。


「桂。そなたもだ」


「ですが東宮様……」


「相手は左大臣家の姫ぞ。なにを警戒している」


「…………はっ」


 桂は渋々といった様子で下がっていった。

 その間も桜子を睨みつけることは忘れない。

 母屋から人払いがなされたのを確認し、東宮は桜子を呼び寄せた。


「それでは廂のものたちに聞こえる。近くに」


「――はい」


 一体なんの話だろうか?

 桜子が近寄ると、東宮は声を小さくしながら話しかけてきた。


「そなたの兄、桜の中将を呼ぶことはできないか?」


「――兄を? それはなぜ……?」


 一体なぜ兄の話になるのか。

 不思議そうな顔をする桜子に、東宮は神妙な顔をした。


「――他のものにバレぬようにせよ」


「……はい。もちろんでございます」


 東宮は袖口を軽く捲ると、子供らしい腕をあらわにする。

 そこに巻かれた包帯とともに。


「――東宮さま、それは……?」


「……桜の中将は妖ごとに詳しいと聞く。話を聞きたいのだ」


 桜子の目は東宮の腕に釘付けとなった。

 しゅるりと音を立てて包帯のとられた白く細い腕には、まるで蛇に巻き付かれたかのように真っ赤なあざのようなものができている。

 東宮はすぐに袖を元に戻すと、服の上からぎゅっと握りしめた。


「――わしは、呪われているのだ……」


「……呪い?」


「それを、秘密裏に桜の中将に調べて欲しいのだ。……誰がわしを、呪っているのかを」





「呪いってなんの話?」


「――しっ! 声をひそめて」


 梨壺は渡殿を介して二棟あり、北にある小さいほうの廂に桜子は房をもらっていた。

 本当は大きい方にとの話だったのだが、騒がしいのは好ましくないので断ったようだ。

 だがちょうどよかったと、几帳と呼ばれる二本の柱に布を垂らしたもので、区切られた部屋に招き入れられた定正は思った。

 周りの女房たちは話に夢中になっているとはいえ、布一枚の隔たりでは聞こえないわけじゃない。

 少し動けば頭と頭がぶつかりそうな距離で、二人は話を続けた。


「腕にね、真っ赤なあざのようなものがあったのよ。それが蛇みたいでね……。相当怖いみたい。見せてくれた時に震えていたわ」


「……あざ?」


「――あざ、は違うのかしら? こう……なんというか……赤く荒れてる、みたいな。それが腕に巻き付いた蛇のようになっていたのよ」


「なるほどね……」


 蛇か、と定正は考えつつもちらりと桜子へ視線を向ければ、彼女はなぜか楽しげにこちらを見返してきた。

 その表情一つでなにが言いたいのかすぐにわかってしまう、双子という存在に嫌気がさしそうだった。


「そ、れ、で? 安倍晴明の再来と噂の桜の中将はどうお考えかしら?」


「楽しんでるだろう」


「とっても。――あなたはもう一人の私だもの。……多少わかるんでしょう?」


 桜子の問いに額を軽くかいた定正は、部屋をぐるりと見回した。


「正直、わからない……。内裏は闇深いよ。至るところに怨念というか……よくないもので溢れてる。宿直の時に桜子の護符を使ってなんとかしてるけど……効果は一瞬だ」


「……ふむ、及第点ね。それがわかってるだけでも上出来だわ」


 桜子は納得したように頷くと、好物の唐菓子に手を伸ばす。

 小麦と甘葛を練って果物のような形を模し、揚げた菓子だ。

 甘いもの好きな桜子のためにと、わざわざ父が定正に持たせたのだがどうやら正解だったらしい。

 嬉しそうに食べる桜子を、定正は眺めた。


「あちこちで呪詛の気配や怨念の気配。怨霊がいないのが不思議なくらいよ」


「陰陽師たちが一応払ってるからね。でも最近は桜姫の護符のおかげだよ」


「でしょうね」


 手持ち無沙汰もあれだと唐菓子に手を伸ばすが、それを桜子によってピシャリと叩かれた。


「僕が持ってきたのに!」


「私にって持たせてくれたということは私のよ」


 くそう、と定正は美味しそうに食べる桜子を眺めることしかできなかった。


「東宮さまの件だけれど、どう思う?」


「それは君のほうがわかってるだろう。直接見たわけだし。僕より詳しいだろ」


 しょせん定正は桜子の力の欠片を持っていただけ。

 そういったことは彼女のほうがわかるだろう。


「……まあいいわ。呪いに関してはわからない。さっきもいったけれど、呪詛の気配が至るところにあるせいね」


「本当に罪深い場所だよ……」


 人の怨念が強すぎるがゆえに、真実がわからないのだから。


「全くだわ。……ああ! 裳なんてつけてなければ私がいろいろ調べて周るのに!」


「絶対やめてね」


 女房の服装はやけに重いし動きにくい。

 そのうち服を脱ぎ散らかして暴れ回りそうだと言う桜子に、それだけは絶対にやめてくれと懇願したその時だ。


「――きゃぁぁぁぁ!」


 悲鳴が梨壺に響き渡った。


「なに!?」


「行こう」


 二人は急ぎ廂を出て渡殿を渡り、もう一つの棟へと向かう。

 簀子を走り声のしたほうへ向かえば、そこには腰を抜かした女房がいた。

 定正は素早く彼女の肩を掴み支えれば、女は麗景殿へと続く渡殿を指差す。


「――へ、へ、蛇がっ!」


「蛇?」


 指さされた方を見れば、そこには一匹の白い蛇が渡殿の上にいた。

 真っ赤な瞳をこちらに向けてきた蛇は、しばし見つめあった後しゅるしゅると暗闇へと消えていく。

 その様子を見ていた桜子が、小さく呟いた。


「……今の、本物じゃないわね」


 倒れていた女房を悲鳴を聞いてやってきた女房たちに任せ、定正は桜子に近づいた。


「やっぱりそう思う? ……蛇だったけれどあれが呪いと関係はしてないよね……?」


 つい先程まで蛇の呪いについて話していた。

 だからこそ関与を疑いそうになるが、なんとなく違う気がして定正は怪訝そうな顔をする。


「よくわかってるじゃない。――白蛇は神の使いよ。……あの子、私たちになにか伝えようとしてたわ」


「なにかって?」


 桜子は考えるようにしばし周りを見た後、そばにいたカラスに目が止まる。

 その桜子の様子に、すぐに彼らと会話していることに気がついた。

 不思議な能力を持つ桜子には、自然に生きるものたちも力を貸してくれるのだ。

 そんなわけで話を聞いたのだろう桜子は、なぜか突然慌てて扇を開き顔を隠した。


「――どうしたの?」


「……白蛇は神の使いよ。……この国で神といえば?」


「………………――まさか」


「そのまさかよ」


 桜子がもう一度視線をカラスたちに向ければ、彼らはもう用はないと飛んでいってしまった。

 消えていくカラスたちをうらめしそうに眺めていた桜子は、意をけして口を開いた。


「日の帝がおいでになられるみたい」





「主上! ようこそお越しくださいました」


「東宮。元気そうでなによりだ」


 梨壺に帝がお越しになられたとなれば、女房たちはみなここぞとばかりにめかしこんだ。

 季節に合わせた色とりどりの襲が目に痛いなと、定正はそっと横を見る。

 いつも通り、桜の襲を纏う桜子は、あえて帝から下賜されたものではない扇を使い顔を隠していた。


「蛇が出たとか……。倒れた女房は無事か?」


「はい。主上からご心配のお言葉を受け取ったこと、本人に伝えておきます」


 流れで共にきてしまったが、東宮と帝に会うことになるとは思わなかった。

 しかも桜子と一緒に。

 これは逃げることはできなさそうだなと、定正はそうそうに覚悟した。


「だがよかった。ちょうど桜の中将がいてくれたんだな」


 帝からの視線に軽く頭を下げる。

 東宮からも痛いくらいの視線を向けられている気がして、正直いたたまれない気分だ。


「桜の中将がいれば、あやかしまやかしなにも恐れることはない」


「噂はかねがね。わしもお話を聞いてみたいと思っておりました」


 話とは呪いのことだろう。

 これは東宮から直接話を聞かなくてならなくなりそうだ。

 とんでもないことに巻き込まれたなと小さくため息をつく。


「ぜひそうするといい。――それで、そちらが……?」


 ついにきたかと、定正はさらに背筋を伸ばした。

 帝の視線が隣へと向けられる。

 桜子はしばし帝と見つめ合い、ゆっくりと扇を閉じた。


「お初にお目にかかります」


「桜の尚侍と名付けました。これから主上とも顔を合わせることになるかと思います」


「……そうだな。桜の中将に桜の尚侍。……素晴らしい」


 帝の瞳に熱がともる。

 確かにその目は、定正には向けられたことのないものだ。

 これが桜子のいう態度の違いというやつなら、なるほど定正にはまだ理解できないことだった。


「二人ともよく似ている。――だが尚侍の美しさは……まるで桜の精のようだ」


「――もったいなきお言葉にございます」


 この顔合わせで、帝の熱は一気に燃え上がった気がする。

 これはきっと、桜子の入内の話を本格化させるのも時間の問題だろう。

 桜子のほうはどうだろうと見れば、いたって冷静な顔つきだ。

 だが生まれた時から一緒にいる双子。

 あの桜子が視線を逸らさないだけでもじゅうぶんだろう。

 これはもしかしたらもしかするかもしれないなと、父である左大臣に急ぎ伝えようと心に決めた。


「桜の中将と並んでいると人形のようだ。いつまでも見ていられる……」


「誠に。……またそろって顔を見せにきて欲しい」


 東宮にそういわれて断れるわけもなく。


「かしこまりました」


「なるほど。ではまたその機会に、私も顔を出させてもらうとしよう」


 帝はそれだけいうと立ち上がり、梨壺を去ろうとする。

 だが途中で足を止めると、廂へと繋がる御簾を上げたまま、ちらりと後ろを振り返った。


「桜の尚侍。……贈り物は気に入らなかったかな?」


「そのようなことございません。大切に使わさせていただいております」


「――そうか。またなにか贈り物をするとしよう」


 それだけいうと、帝は梨壺をあとにした。

 あれだけ大掛かりだった桜子の参内。

 その話を聞いていないわけがない。

 それなのにあのようなことを言うということは……。


「……次から主上に拝謁する際は、あの扇にしないとね」


「先手をとられたわ」


 桜子にこっそりと話しかければ、彼女はどこか苦い顔をした。

 だがやはり嫌がっている様子はなかったので、これはもしかしたら本当にもしかするのかもしれない。


「……さて、少し桜の中将に話がある。みな下がるがいい」


「…………はっ」


 どうやら今話をするらしい。

 しぶしぶといった様子の女房たちが出ていく。

 その中の一人に定正は目を奪われた。

 年のいった女房だが、やけに肌艶がいい。

 そんな女房を目で追っていると、隣の桜子が耳元でつぶやいた。


「桂という東宮の乳母よ」


「――乳母?」


 なるほどと頷いた定正は、改めて東宮と対峙した。


「藤原定正にございます」


「うむ、桜の中将。噂は聞いている。安倍晴明の再来だとか」


「そのようなことは……」


「桜の尚侍から話は聞いているか……?」


 横の桜子を見ればただ静かに東宮を見つめている。

 これは素直に伝えていいのだなと理解し、定正は頷いた。


「お聞きしております。……その、お身体の具合はいかがでしょうか?」


「大事ない。腕のあざも多少よくなってきた」


 東宮が腕を上げれば、裾からちらりと包帯が見えた。

 なるほど普段はああやって隠しているのかと、その腕をつぶさに観察する。


「あざはいつ頃からお出になったのですか?」


「いつ……? 一ヶ月ほど前だな」


 一ヶ月前。

 ずいぶんとその呪いとやらに苦しめられていたようだ。

 さぞつらかっただろうと思っていると、東宮がゆっくりと包帯をとりはじめた。


「最初は赤い発疹が点々とできただけだった。だが東宮としてこのようなものがあるのはよくないと、薬草を塗り包帯を巻いて過ごしていたんだが……」


「悪化なされた、と?」


「……ああ。まるで蛇のようではないか? これのせいで風呂も桂にしか任せられぬ。……ほかの女房に見られるわけにはいかないのだ」


 しゅるっと音を立ててとられた包帯から顕になったのは、真っ赤に爛れたようなあざだった。

 それが腕に巻き付いた蛇のように見え、確かにこれなら呪いだなんだと騒ぐのも納得だと、定正はじっと眺める。

 真っ赤に腫れ上がったあざのようなところに、赤い発疹が見えた。

 医術の心得はないが、これは本当に呪いなのだろうか?

 だが違うとしたら、この蛇のような形はなんだ?

 なぜこのような形になっている?

 定正が己の頭の中でいろいろと考えていると、東宮が腕を前に持ってきて、見やすいようにしてくれた。


「桜の中将は恐ろしくないのだな。これが呪いなら、移ったり目が潰れる可能性もあるのに」


「あやかしや呪詛の類は見慣れておりますので……」


「……そういえばそうだな!」


 年ごろの子どものように無邪気に笑った東宮は、改めて包帯を腕に巻き始める。


「これを恐れなかったのは桂以外そなたたちだけだ」


 桂、とは確か東宮の乳母だったなと思い出す。

 乳母以外に見せることのできないあざ。

 この内裏では、さぞ生活しづらいだろう。


「……わしが呪われているのなら、東宮にはふさわしくないのかもしれない」


「…………東宮さま、そのようなことは」


「よいのだ。……わしも、望んでここに座っているわけではない」


 今度は子どもらしからぬ遠い目をする東宮は、小さくため息をついた。


「わしは繋ぎだ。……ならいっそ、この呪いを理由に東宮の座を降りればいい」


「東宮さま」


 まだまだ年端もいかぬ子どもだ。

 その肩に乗る負担はさぞ重かろう。

 そんな哀れみを感じていた定正の隣で、黙り込んでいた桜子がぴしゃりと言い放つ。


「弱気になられますな。呪いも病も心の弱さにつけ込みます。強い心をお持ちください」


「……桜の尚侍」


「私たちがおります。東宮さまのお悩みは、桜の中将が必ずや解決いたします」


 ぎょっと隣を見たけれど、桜子は一切こちらを振り返らない。

 どうやら桜子はこの呪い事件を解決するつもりのようで、それはつまりは定正の出番というわけだ。

 実際に必要なのは身体だけなのだが。


「――ありがとう。桜の中将、桜の尚侍。二人に任せる。……どうかこの真実を解明してほしい」


「かしこまりました。必ずや桜の中将が解決してみせます」


「……尽力いたします」


 こうして、桜子と定正の推理が始まったのだった――。





「実際にその目で見てみて、どう思った?」


「…………呪いじゃないよね、あれ」


 桜子の房に戻った二人は、先ほど見た東宮の呪いの件について話していた。


「あら? どうしてそう思ったの?」


「……嫌な感じはしたんだ。あれは悪意だと思った」


「呪いも悪意よ?」


「そうだけど、呪いよりは軽かった気がするんだ。ドロドロしてないと言うか……ごめん、うまく言葉にできないんだけど、どうかな?」


 桜子はもちろん真相がわかっているのだろう。

 だからこそ己の考えを話したのだが、桜子は満足そうにしている。


「本当に感が鋭いわね。ちゃんと自覚しなさいよ? あなたの感は当たるんだから、何かあったら己の思うままに進みなさい」


「――うん、わかった」


 まさかそんなことを言われるなんて思わなかった。

 素直に返事をすれば、桜子もまた頷いた。


「東宮さまの腕のあざは呪いじゃないわ。あれは爛れよ」


「爛れ?」


「……東宮さまの寝所には、漆器がないの。――いえ、正確には漆器はあるけれど東宮さまが触れられないようにしてるわ。箱を開けるのは必ず乳母の桂よ」


 それはつまり、東宮が漆器に触れるとなにか起こるということか?


「でも漆器に触れたくらいであんなふうになるかな?」


「ならないわよ」


 意味がわからない。

 じゃあなんなんだと眉間に皺を寄せた定正に、桜子は扇の先で床を叩く。


「だから厄介なのよ。――犯人は桂よ」


 定正は桜子のその言葉に、桂と呼ばれた女房を思い出す。

 苦々しい顔をする定正に、桜子もまた似たような顔をする。


「桂のことよく見てたものね、あなた。……気づいてるんでしょう」


「……うん」


 東宮の乳母であると桜子から紹介された時、定正は桂を見つめていた。

 それは紹介されたというのもあるけれど、彼女の様子がほかとは大きく違ったからだ。


「……あの人、人を殺してるね」


「それも複数人。……邪魔者を殺し続けてたのね。女子どもばかり」


 桂の背後に、大きな黒い靄が見えたのだ。

 形にはなっていないけれど、明らかに桂にまとわりつこうとしていた。


「足元にもよ。……生まれる前の子どもでしょうね。あの女を引きづり込もうとしてた」


「……どうして?」


 どうしてそんなことができるのだろうか。

 あれだけの靄だ。

 一人や二人ではないのだろう。

 だからこそ桜子もまた、表情が暗い。

 

「さあね……。でもあの数よ」


 定正はもう一度思い出す。

 あの桂の首から頭にかけて、巻きつくようにしていた靄のことを。


「少なくとも善人でないことだけはわかったわね」


「……そうだね」


 聞けば東宮の育ての親的立場でもあると言う。

 定正には想像もつかない苦労があったのだろうが、だからと言って人を殺していいわけではない。

 考えれば考えるほど闇の深い話になりそうだ。


「でもそれと東宮さまの腕の件、関係あるのかな?」


「さあね。……どちらにしろ、まだ調べなきゃいけないことがあるわ」


「調べなきゃいけないこと?」


 桜子は深く頷いた。


「腕の件とは別に……東宮さまは呪われているわ。その元を見つけないと」


「――だから腕が呪いかどうか、最初わからなかったの?」


「そういうこと」


 一難去ってまた一難なんてもんじゃない。

 これは最悪だと思わず頭を抱えた。






「ずっと気になってたんだが、桜の中将はどうして陰陽師にならなかったんだ?」


「――急にどうした?」


 宿直と呼ばれる夜の警備をしていた時のことだ。

 宮中の見回りをしていた定正に、橘の少将が声をかけてきた。


「あれだけの腕前なら陰陽師の道だってあっただろう? というか、望まれてただろう?」


 望まれているのは桜子の力だ。

 定正のものではない。

 だから本業の道にはいかないのだ。

 他人の力で認められても、定正は嬉しくはないからだ。


「今でじゅうぶんだよ。――それに星は読めない」


「…………確かに。それじゃあ陰陽師には向いてないな」


 陰陽師ともなれば星を読み占わなくてはならない。

 だが残念ながら定正にも桜子にもその知識はないのだ。

 だから無理だと告げれば、橘の少将はそれ以上なにかを言うことなく定正の首に腕を回した。


「まあこうやって一緒に宿直ができるんだ。俺としては万々歳」


「そりゃどうも」


「そういえば桜の尚侍には俺のこと……?」


「主上と争うつもりがあるならいいが?」


「………………やっぱりそうだよな」


 噂を聞き女御にと望んでいた時とは違う。

 お互い顔を合わせて言葉を交わした。

 それでも女御にと望んでいるのなら、それは本心だろう。

 本来なら桜子には拒否する権利はない。

 さてはてどうなることやら、とため息をついた時だ。

 隣を歩いていたはずの橘の少将が急に視界から消えた。


「――橘の少将? ……どうした?」


「………………あれ」


 橘の少将が呆然としながら指先を定正の後ろに向けた。

 なにごとだと振り返ろうとしたその時だ。

 定正の二の腕がぞわりと逆毛立つ。

 今後ろになにかいるのがわかる。

 そしてそれがよくないものだということも。

 ああ、振り返りたくないと思いつつも、致し方ないと覚悟を決めて踵を返した。


「――…………」


 その日は満月で、松明の光がなくてもあたりが見えるくらい明るかった。

 もしかしたら、だから出てきたのかもしれないなと定正は思う。

 登華殿の先、玄輝門の上にそれは立っていた。


「……ああ」

 

 単姿の女性は、濡れた髪を退かすことなくその間から定正たちを見つめている。

 明らかにこの世のものではないその姿に、橘の少将が小さく悲鳴を上げた。


「さ、桜の中将……! あ、あれはいったい……っ!」


 震え上がる橘の少将の姿に、見慣れないものからしたらあれは恐ろしいものなのかと気づく。

 定正には、あれがただ悲しいだけのものにしか見えなかったから。

 未練ののちに亡くなった女性。

 その姿を見てすぐに気づいた定正は、彼女に近寄ると優しく手を差し出した。


「――寒くないかい? 僕になにを伝えたいんだい?」


「――」


 声は聞こえない。

 話せないほど弱い霊なのか、はたまた成仏寸前なのか……。

 きっと答えは後者だろう。

 定正に出会えて満足しているのが、髪の隙間から覗く表情から読みとれた。

 彼女はなにも言わず、ただ静かに指を貞観殿へと向ける。


「――あそこになにかあるのかい?」


 こくり、女は頷く。


「あそこを僕に調べて欲しいんだね?」


 女はもう一度頷き、静かに定正の出方を探っているようだ。

 本当なら東宮の件もあり、ほかのことに時間を割きたくはないのだが、ここまで期待されては断れない。

 だからお前は甘いのだと脳内桜子が叫んでいるが、定正は静かに頷いた。


「わかった。ちゃんと調べるから、君はもう行くんだ。これ以上ここにいては、悪霊化してしまうよ」


「――」


 キーンっとまるで耳鳴りのような音が一つ、定正に届いた。

 これは彼女からの最後の礼のようなものだろう。

 穏やかに微笑んだ女性は、蛍の光のように輝きながら天高く飛んでいった。


「――お元気で」


 なんて幽霊にいうのは変かな? と思いながらも口にすれば、固まっていたはずよ橘の少将が慌てて駆け寄ってきた。


「今のが幽霊か!? 俺初めてみたぞ!」


 先ほどまで直立不動だったのにこの変わり身の早さには、思わず感心してしまった。

 定正が静かに頷けば、橘の少将は鼻息荒く語ってくる。


「貞観殿を指差してたみたいだが……一体なにがあるんだろうな? そこらへんも優秀な桜の中将ならわかるのか!?」


「いや、さすがにちゃんと見てみないとわからないよ」


 それにそういったことがわかるのは桜子のほうだ。

 これは早々に桜子に聞いたほうがいいかもしれないと、定正は橘の中将へ振り返った。


「すまないが僕はこの件を調べたい。見回りを任せてもいいか?」


「おうよ! 俺は霊だのなんだのはからっきしだからな! 対人間は任せておけ!」


 まあ確かに対人なら屈強な橘の少将のほうが適任だろう。

 ならそういうことでと手を振り別れ、定正は足早に梨壺に向かった。

 夜型の桜子のことだ。

 きっと起きているだろうと踏んできたのだが、案の定ほのかに蝋燭の明かりが御簾の隙間から漏れていた。

 定正はほかの女房に聞こえぬよう声をひそめる。


「――桜姫。僕だ」


「……入っていいわ」


 許可をもらってから軽く御簾をあげ、廂にある桜子の房へと入った。


「まさか初めての夜這い相手が兄だなんて笑えるわ」


「僕もまさかはじめて夜中に逢引する相手が、妹だなんて思わなかったよ」


 気分だけは馴染みの女房に会いにくる男のようだと伝えれば、ものすごく嫌そうな顔をされた。

 心外すぎる。

 話を振ってきたのは桜子のほうなのに。


「それで? 話って――ちょっと待って。あなたまたなにしたのよ」


 読んでいたのだろう本を放り出して定正に近づいてきた桜子は、視線を上へ下へとさまよわせたあと深く眉間に皺を寄せた。


「またお節介したでしょう!? 生命力がっつり奪われてるじゃない!」


「――え? そうなの?」


「このおバカ!」


 言われてみれば確かになんとなく疲れている気がするな、なんて考えていたら、桜子が定正の頭を掴み己の膝の上に置かせた。

 俗にいう膝枕というやつだ。


「無駄に生命力高いから動けてるけれど、普通の人間なら倒れてるわよ!?」


「そうなの? 気をつけないと」


 宮中で倒れでもしたら、方々に迷惑がかかってしまう。

 あらら、なんて軽く言う定正に、桜子はそれはもう盛大なため息をこぼした。


「まったくこの兄ときたら……! それで? 今度はなにをたぶらかしてきたの?」


「たぶらかすって……失礼な言いかただなぁ」


「過去の行いを思い出しても同じことを言えるのかしら?」


 そんなことを言われても、定正本人はなにかしたつもりはないのだ。

 とはいえこれを伝えたところで桜子が折れるとも思えず、そうそうに話題を変えるため先ほどの出来事を桜子に話した。

 女性の幽霊と出会ったこと、彼女がなにかを伝えたそうにしていたこと。

 それらを伝えると桜子はふむと顎に手を当てた。


「ちょっと見るわよ」


「――あっ! ……もう、勝手なんだから……」


 定正は桜子の白魚のような真っ白な手に目隠しされると、そのままなす術がなくなった。

 これは桜子が定正が見たものをもう一度【見る】ためにする行動だ。

 許可なくやるなといつも言っているのにと思いつつも、どうせ聞かないかと早々に諦める。

 双子だからか、はたまた桜子がすごいからか。

 過去この目で見たことを桜子は追体験できる。

 なので説明が楽だと思っていると、徐に桜子の手が離れていった。


「……なるほどね」


「なにかわかった?」


「あなたがたぶらかしたことはわかったわ」


「ええ……。そんなことしてないのに……」


 どこをどう見たらたぶらかしてるなんて言えるのだろうか?

 わけがわからないと思いつつも、話を進めた。


「それで? なにかわかった?」


「私が見えるのはあなたが見た景色だけよ。……とはいえ、気になるわね」


「なにが気になるの?」


 定正が見た光景しかわからないとしても、桜子はきっとなにかを見出してくれているはずだ。

 そんな期待を込めて聞けば、桜子はしばし考えるように沈黙したのちにゆっくりと口を開いた。


「あの女性の霊、喋れなかったでしょう? 多分だけれど、少し前に亡くなった人なのよ」


「少し前っていうと……」


「五年……いえ、もっと前ね。人の記憶って薄れていくでしょう? 死んだ後も同じで、どれほど怨念を持っていようとも徐々に薄れてしまうのよ。喋れないくらい弱い念ってことは、年月が経ってるってことよ」


 ふむ、と定正は考える。

 あの時の女性の顔は、どちらかといえば不安そうな感じだった。

 本当に怨念なんてあったのだろうかと考えてしまう。


「だというのにいまさら出ていたのよ? あなたがあの道を通るのはじめてでもないでしょう?」


「え? もちろん。警備でよく通るよ。……言われてみれば確かにそうだね」


 彼女が古い時代の人ならば、もっと早く定正に訴えることができたはずだ。

 その時ならもしかしたら喋れたかもしれない。

 だというのに今、この時出ていたのに一体なんの意味があるのだろうか?


「しかも貞観殿でしょう……?」


「貞観殿になにかあるの?」


「……詳しいことは確信が持てたら話すわ。貞観殿を調べるのはいつ?」


「明日にでも行ってみるよ」


 ただ貞観殿の女房に話を聞くだけだが。

 とはいえ定正に顔見知りの女房などおらず、どうしたものかと考える。

 ここは最悪顔の効く橘の少将にでもお願いして、一緒についてきてもらうほうがいいかもしれない。

 しかしそうなるとさすがに褒美の一つでもないと、手伝ってくれないかも……。

 と考え、定正はあたりを見回した。

 とっちらかった房の中には、たくさんの桜子の私物がある。

 これを一つくらい渡せば快くついてきてくれそうだなと考え、定正は床に散らばる紙を一枚手にとった。


「これ、もらっていい?」


「書き損じよ? そんなのなにに使うの?」


「源氏物語? 橘の少将にあげようと思って。貞観殿に馴染みの女房とかいないし」


「――気持ち悪い男ね。そんなので動くなんて……。というか、各殿に馴染みの女房くらい作っておきなさいよ」


「無茶言わないで」


 そういうのが苦手なことを知っているくせにと苦い顔をすれば、桜子はどこ吹く風といった様子だ。


「とにかく明日貞観殿で話を聞いてくるよ」


「……なにかわかり次第すぐに教えてちょうだい」


「もちろん。君じゃないとわからないことだらけだし」


「……少なくともあの霊は、あなただから顔を出したと思うけどね」


「どういう意味?」


 そう聞くが桜子が返事をすることはない。

 さわさわと風が草木を踊らす音が聞こえてきて、桜子曰く生命力をとられたからか、強い眠気が襲ってきた。


「ちょっと。寝るなら帰りなさいよ」


「んー…………」


 そんなことを言われても眠いものは眠いのだ。

 落ちた瞼はくっついてしまい、もう開けることはできなさそうである。

 こうなったら寝てしまおうと意識を手放した定正は、翌日後悔することになる……。





「あの桜の中将がどこかに馴染みの女房を作ったと、宮中で話題になってるぞ? 本当か? どこの誰だ?」


「……桜の尚侍のところにいたんだよ」


「またまた! ついにあの桜の中将が意中の相手を……! なんて女房たちの噂の的になってるんだぞ?」


 本当に桜子の房で寝こけていただけなのに、あの後帰らなかった定正のことを誰かが言いふらしたようだ。

 宮中は狭い。

 あっという間に話が広がって、定正に意中の相手がいることになってしまった。


「――は! まさかそれが貞観殿の女房なのか!?」


「それなら僕一人で聞きに行ってるよ」


「確かにそれもそうだな!」


 なにを言ってもウキウキな橘の少将には、定正も呆れた笑みしか浮かべられなかった。

 貞観殿の女房になじみがいる彼に頼んで話を聞かせてもらえることになったのだが、もちろんただではない。

 若干乗り気ではなかった橘の少将に、桜子が書き損じた紙を見せれば態度は一変。

 それをまるで恋文が如く大切そうに懐にしまうと、足どり軽くついてきたのだ。


「――それ、書き損じだよ?」


「わかってる。しかし文字には人となりがわかる。さらにはこの香り……! やはり桜の尚侍は教養も備わった絶世の美女に違いない――!」


 こんな姿を桜子が見たら、きっと冷めた視線を向けることだろう。

 それはそれで橘の少将は喜びそうな気もするが……とそれ以上深く考えるのはやめた。

 仮にも友のことを変態だと思いたくはない。

 そんなわけで橘の少将馴染みである貞観殿の女房、柏の房にお邪魔することとなった。

 柏は桃が描かれた扇を開き顔を隠しつつも、定正と対峙する。


「まさか橘の少将が桜の中将さまを連れてきてくださるなんて……。一体なんのご用ですか? 桜の中将さまのお願いなら、この柏喜んでお話しいたします」


 その熱っぽい視線には覚えがある。

 御簾の向こうの女房たちから似たような視線を向けられて、定正は居心地の悪さを感じていた。

 そういったことには慣れていないので、どう反応していいかわからないのだ。


「おいおい、さすがは桜の中将だな。女房に人気が高い」


「貞観殿に馴染みの女房がいないとか。もしよろしければこの柏を……」


「この貞観殿で数年前に、おかしな事故などはありませんでしたか?」


 下手に彼女の話を聞いていては、断るのに骨が折れそうだ。

 なので申し訳ないが話の腰を折れば、柏は少しだけ瞳を細めた。


「――……事故、ですか?」


「ええ。……人が亡くなるような事故です」


 柏はしばし沈黙した後、膝を進めて定正に近づいてきた。


「近くに。――あまり話していいものではないのです」


 どうやら話を聞けそうだと、定正と橘の少将は揃って顔を柏に近づけた。

 すると柏は声をひそめ、周りに聞こえぬよう話し始める。


「七年ほど前、御匣殿みくしげどのが亡くなったのです。……それが現東宮さまの実の母君なのです」


「――」


 定正はそっと息を呑む。

 まさかそこが繋がるとは思わなかったのだ。

 御匣殿とは貞観殿の中にある帝の衣装を作ったりするところのことを表す。

 この時代、女性は本名を名乗ることはなく、働く場所やその人に由来のあるものの字名をつけられるのだ。


「先の帝は気難しいおかたで、お手つきは数多いれど、お子は現東宮さまただお一人。……しかし噂では本当は先の帝のお子ではないと。ゆえに先の帝は弟君であられた今の主上を、その座に置かれたのではと……」


「…………なんともまあ……複雑な話だな」


 橘の少将の独り言に、定正は静かに頷いた。

 まあ確かに、先帝が亡くなって三年。

 三年前といえば現東宮がまだ四歳の時だ。

 だからこそ弟である今の帝がその座についたと思っていたが、もしこのうわさが本当ならいろいろ聞かされている話とは違うことがありそうだ。

 とはいえそれはただのうわさ。

 ひとまず本題に進むとしよう。


「うわさはわかった。……それで? 女性はなぜ亡くなった?」


「それが……。実は腹に東宮さまを身ごもっている時、何者かにきざはしより落とされたのです」


「――な!? 子を身ごもっているのにか!?」


 子を産むことすら命懸けであるのに、そんなことをするなんてと青ざめる。

 さらには帝の子を宿しているかもしれない相手にそんなことをと驚きつつも、それが内裏であることを思い出した。

 怨念無念の巣窟であり、怨霊があまた生まれる場所。


「主上の寵愛を受けていることはわかっていたので、狙われたのでしょうね。……お腹の子は無事産まれましまが、御匣殿はそのまま……」


「……業の深い話だ」


「この話は貞観殿にいるものなら皆知っていますが、内容が内容なためあまり話しません。これは内密にお願いします」


「わかりました。……ちなみに犯人は?」


「…………見つかっておりません」


 本当に業が深いなと、定正は瞳を閉じる。

 もしだ。

 もしあの時の幽霊が御匣殿だとして、今この時定正の前に現れたのはなんの意味があるのだろうか?

 殺された恨みを晴らしたいのか?

 と考えたが、定正は静かに首を振った。

 やはりあの時の女性が、恨みつらみで現れたとは思えないのだ。


「……なるほど、話はわかった。難しいことなのに話してくれてありがとう。なにかお礼をしたいんだけれど……」


「では馴染みに――」


「それ以外で頼む」


「あら……」


 これ以上変な噂を流されてはたまったものではない。

 なので丁重に断れば、柏からではまた今度困った時にでも頼りますと言われた。

 それでいいならと橘の少将と共に貞観殿を出て、外の空気を吸いつつふと息をつく。

 まさかの話を聞いてしまったなと考えていると、隣を歩く橘の少将が口を開いた。


「先帝の話は少し聞いたことがある。……後にも先にも、寵愛を与えたのはただ一人だったとか。ゆえにお子は現東宮さましかおられず、崩御なさる前に弟君であられる今の帝を推されたとか」


「……難しい話だ」


 東宮が本当は帝の子どもではない?

 寵愛を得た御匣殿は誰に突き落とされた?

 東宮が呪われている理由はなんだ?


「――謎ばっかりだ」


 定正のつぶやきは、風に乗ってどこかへと消えてしまった。






「――そう。やっぱりね」


「やっぱりって……知ってたの? 東宮さまの母君のこと」


「カラスたちが噂してたのよ。だからもしかしたらって思ったけれど……あの霊は、東宮さまの母親で間違いないでしょうね」


 今度は昼間に桜子の房へとやってきた定正は、その話に唇を曲げた。

 知ってたなら教えて欲しかったが、桜子としても確証がなかったのだろう。

 しかたないかとため息をついた。


「だとしたらやはり殺された恨み? ……でもそれじゃあもっと早くに顔を見せていいはずよね?」


「……恨みを持っているようには見えなかったんだ。ただの感だけれど」


 悩む桜子にそう告げれば、彼女は定正のほうを勢いよく振り返りふむと顎に手を当てた。


「ならそうなんでしょうね。……恨みつらみじゃないなら、なおさらなんで……?」


「――そんなに素直に聞いてくれるんだね?」


「言ったでしょう。あなたの感は当たるから信じなさいって」


 そういえばそんなことを桜子から言われていた。

 自分自身ではそんなふうに思ったことはないが、桜子に言われると少しだけ自信がつく。


「つまり出てきたのは恨みじゃない……」


「なにか思い当たる節でもある?」


 桜子はちらりと定正を見ると、まるで致し方ないと言いたげにため息をついた。


「――とりかえましょう」


「…………へ?」


「この目で直接見たいけれど、私じゃ目立ってしまうもの。――だから、とりかえましょう」


 それはつまりそういうことだろう。

 確かに桜子が直接見たほうがわかりやすいだろうが……。


「大丈夫かな? 君が内裏にきてからとりかえは初めてだけど」


「ええ。……けれどやるしかないでしょう」


「……わかった」


 目を閉じる。

 ふわりと体が浮く感覚があり、次の瞬間グッと強い圧力のようなものを感じた。

 そして目を開ければ、目の前には己が存在しているのだから普通なら驚きだろう。

 こんなに簡単に入れ替わることができるのだから。

 見た目定正、中身桜子は体の動きを軽く確認したのちに深く頷いた。


「よし。それじゃあいろいろ見てくるわ。……あとは任せたわよ」


「わかったけど早く帰ってきてね? ……ここは宮中なんだから」


「はいはい」


 自由に動けることが嬉しいのだろう。

 明らかに瞳を輝かせている桜子に、定正はため息をつく。

 足取り軽く房を出て行った桜子を眺めながら、定正は手持ち無沙汰にあたりを見回した。

 どうやらまだ源氏物語を書き写しているらしく、どうせなら続きを書いてみようと筆を手にとる。

 末摘花の話のところらしく、久しぶりに読書をするのもいいかもしれないと本の内容を読み始めていく。

 容姿がよいとは言えない末摘花も、しかしそれゆえの内面の美しさが際立つ。

 一途に光源氏を思うその姿に、いつか自分も恋を知るのだろうかとふと考えた。

 結婚は家が決めることだが、もし可能なら互いを思いやれる夫婦となりたい。

 外に愛人を作って……なんていう、光源氏のようなことはしたくない。

 とはいえこのように面白みもない男を、一体誰が選んでくれるのだろうか。

 なんて勝手に一人で落ち込んでいた時だ。


「桜の尚侍? いらっしゃる?」


「――え、ええ。おります」


 几帳の向こうから声をかけられて、定正は慌てて返事をした。

 そうだ、今の定正は桜子なのだ。

 気をつけねばと思っていると、房の中に梨壺の女房が一人入ってくる。


「東宮さまがお呼びよ。――主上がいらっしゃっているの」


「――主上が……?」


「あなたをぜひにとのことで、東宮さまの元に向かってちょうだい」


「…………はい」


 ああ、なんといことだろうか。

 だから宮中でとりかえたくなかったのだ。

 よりにもよってこんな時に帝がやってくるなんて。

 定正は顔色を悪くしながらも立ち上がると、しずしずと歩き出した。

 うまく桜子としてやれればいいが、果たしてどうなることかと不安に襲われながら帝と東宮の元まで向かう。

 途中で思い出したように帝から下賜された扇で顔を隠した。

 今までは左大臣家だったからあまり気にしていなかったが、これからは女性としての立ち居振る舞いも知らないといけない。

 果たしてバレずにできるだろうかと泣きそうになりながら、帝と東宮の前まで出て頭を下げた。


「桜の尚侍、参りました」


「うむ、ご苦労」


「――……顔を上げて」


「…………はい」


 帝からの熱い視線を感じる。

 ああ、桜子は帝と会うたびにこんな思いをしていたのかと、定正は赤くなりそうな顔を必死に耐えた。

 桜子はきっとこんなところで赤くなることはしない。

 しかし恥ずかしいものは恥ずかしいので、なんとなく帝と視線を合わさないよう努めることにした。


「桜の中将と橘の少将が幽霊を見たとか……。橘の少将が言いふらしているようで、噂が広まっているんだ」


「主上は桜の中将に会いにいらっしゃったのだが、どうやら入れ違いになってしまったようだな。そこで桜の尚侍ならなにか知っていないかと思ってな」


 橘の少将は根はいいやつだけれど口は軽すぎるという難点があるらしい。

 帝たちにバレぬよう小さくため息をついた。


「……桜の中将より話を聞いております。悲しげな女性の幽霊を玄輝門で見た、と」


「ふむ、玄輝門でか……」


 考え込む帝とは逆に、東宮はまっすぐ定正を見つめてくる。


「その幽霊はなにをした?」


「貞観殿を指さしておりました。ただそれだけで……」


「――貞観殿……」


 この反応、もしかしたら東宮は母親のことを知っているのだろうか?

 いや、知らないはずがないかと定正は視線を下げた。

 もしあの幽霊が実母だと伝えたら、東宮はどんな反応をするだろうか?

 やはり悲しむだろうかと考えると、今この真実を伝えることはできないと思った。


「その幽霊は……大丈夫なのだろうか? 宮中に不幸を運んだりはしないか?」


「大丈夫です。……成仏されたかと思います」


「――そうか……」


 帝としては宮中の安全が第一だろう。

 幽霊が出るなんて噂になっては、のちのち面倒ごとになってしまうかもしれない。

 だからこそ成仏したと知り、安堵のため息をついている。


「とはいえなにがあるのだろう? 桜の中将が探っていると聞いた」


「――そ、う、ですね……」


 さすがに東宮の前で言うのは憚られる。

 黙り込んだ定正に帝が小首を傾げた時だ。

 女房が一人やってきて、東宮に耳打ちした。


「……主上、少し外してもよろしいでしょうか?」


「もちろんだ」


 ならその隙にお暇しようと、定正も腰を上げた時だ。


「わしが戻るまで、主上のお相手をするように」


「――は、い……」


 釘を刺されてしまった。

 致し方ないと腰を下ろした定正は、居心地の悪そうに居住まいを正す。


「……東宮に気を使わせてしまったかな?」


「主上? なにかおっしゃいましたか?」


「いや。なんでもない」


 母屋には帝と定正(肉体は桜子)だけになってしまい、大変気まずい。

 どうしたものかと考えていると、帝から声がかけられた。


「そういえば桜の中将に馴染みの女房ができたとか。なにか知っているかな?」


「――それは! 間違いにございます。ぼ――、兄は、私の房におりました」


「なるほど、やはりそんなことだろうと思った」


 どうやら帝は信じてくれたらしい。

 そんなことと言われるとなぜか少しだけ胸がモヤッとしたが、まあいいかと納得した。

 実際事実なのだから、受け入れるより他にない。


「馴染みの女房でも作っていたら面白かったのだが。……桜の尚侍はどう思う?」


「ど、どう、ですか?」


「兄の結婚相手は気にならないか?」


「――結婚、ですか……」


 桜子本人なら気にならないだろうが、中身が定正なら話は変わる。

 もしかして帝から父である左大臣になにか話がいってるのかと勘繰ってしまう。


「まあそのうち話も進むだろう。――それより」


 帝の瞳がきらりと光る。

 その視線が普段定正が見ているものと違うことに気づき、思わず帝から視線を外してしまう。


「尚侍はどうだ? ……左大臣から話は聞いているだろう?」


「――……」


 頼むからその手の話を今するのはやめて欲しい。

 見た目は桜子だが中身は定正なのだ。

 どう反応したらいいのかわからない。

 あわあわと慌て出す定正に、帝は立ち上がると近づいてきた。


「もちろん無理強いするつもりはない。……ただ少し、考えて欲しいだけだ」


 帝の指先が顔を隠す扇に触れる。

 もちろん無理やりどかすことなどはしないが、距離が近すぎてドギマギしてしまう。


「意識して欲しい……ともいうな」


「――っ、主上、そのっ」


「大丈夫。今すぐ答えを出せなどとは言わない。あなたの意思で、私の元にきて欲しいと思っている」


 蕩けるような甘い声に、定正はピクリと肩を震わせる。

 

 ――最悪だ。

 

 なぜ中身が定正の時にこんなことを帝は言ってくるのだろうか。

 もちろん帝は身も心も桜子だと思っているから熱い想いを伝えてきているのだろうが、残念ながら中身は定正である。

 これはさすがにつらいすぎる!

 定正はもう無理だと帝から離れると、慌てて頭を下げた。


「体調がすぐれないのでそろそろ――」


 お暇を願い出ようとしたその時、ちょうどよく東宮が戻ってきた。

 定正はこれ幸いと立ち上がると、帝と東宮の二人に頭を下げて脱兎の如く逃げ出す。


「――冗談じゃない……! これ以上は耐えられない……!」


 足早に桜子の房に帰った定正は、引っ掛けてあった紅梅の単を手にすると頭から被った。

 帰ってきたら桜子になにを言われようともいい。

 それよりも今はこの苦痛から解放されたいと、定正は単から顔だけを出してうなだれた。


「……最悪だ」





 さてその頃。

 定正がそんなことになっているとはつゆ知らず、桜子は自由な身を謳歌していた。

 やはり外を自由に動けるのは最高だ。

 女はただでさえ人前に顔を出すのはよろしくないと部屋に篭り、しかもあれだけ重い装束まで着なくてはならないのだ。

 それに比べて男はいい。

 頭の冠は少し邪魔くさいが、なにより身軽だ。

 開放感が凄まじいと足取りを軽くしていると、御簾の向こうから小さな声が聞こえてくる。


「まあ、桜の中将さまだわ」


「なんとお美しい……。そういえば梨壺に馴染みの女房がいるとか。私も馴染みにしていただきたいわ」


 ひそひそと話すけれどしょせんは御簾越し。

 あちらも聞こえているのがわかっていて話しているのだ。

 ならばこちらがとる行動は一つだろう。

 桜子は近づくとしゃがみ込み、御簾から出ていた薄紅色の襲を軽く持ち上げた。


「紅梅匂の襲ですか? ――ああ、確かに梅のいい香りがします。……きっとあなたも、梅のように美しい女性なのでしょうね」


 そっとその襲のはしに唇を当てれば、きゃあ、と悲鳴が上がる。

 あの兄も年ごろであり、帝の覚えめでたい出世頭だ。

 こうして女房たちにも唾の一つでもつけておけば、いい縁談が舞い込むかもしれない。

 そんなことを思いつつ、あとはただ楽しいからという理由だけでやっている。

 だがそのせいで定正が今業平なんて呼ばれていることを、双子は知る由もなかった。


「そういえば一つお聞きしたいのですが……」


「あ、はい。なんでしょうか?」


 浮き足だった女房の声に、桜子は優しく微笑みながらも御簾越しに疑問を投げかけた。


「ここ、貞観殿で古くから働いていらっしゃる方はおられますか? 少しお聞きしたいことがあるのですが……」


「古くから、ですか……?」


 女房たちがお互い顔を合わせているのがなんとなくわかった。

 しばしの沈黙ののち、一人の女房がおずおずと口を開く。


「実は……。とある事件があった際、貞観殿のものたちは全員入れ替えされているのです」


「……とある事件とはもしや、御匣殿が殺された件ですか?」


「――ご存じなのですね? ですがここではどうぞ声をひそめてください」


 そうだった。

 柏という女房にもこの話はあまりしてはいけないと言っていた。

 ここでは禁忌とされている話なのだろうと、桜子は静かに口を閉ざす。

 それにしても当時の人間がいないのならば、話を聞くことは難しいかもしれない。

 どうするべきかと腕を組んだ桜子の耳に、女房たちの囁きが届いた。


「あら? でも確か、当時の貞観殿の女房が一人戻ってきたのではなかったかしら?」


「――そうなの?」


「ええ。確か梨壺に……」


「――梨壺?」


 梨壺なら桜子が支える東宮が住む場所だ。

 あそこに元貞観殿の女房がいた?

 東宮の母親が殺された場所にいた女房が、今その東宮に支えている?

 これは果たして偶然なのか……?

 と考えていた時だ。

 女房が小首を傾げながら口を開いた。


「確か名前は……。柏?」


「柏はうちにいるじゃない」


「じゃあ違うわ……」


 違和感がある。

 この話を聞いてからというもの、モヤモヤが胸に巣食う。

 こんなことなら定正と変わらなければよかったなと、桜子は心の中で失態を憂いた。

 無力だと思っているらしい兄は、人よりずっと感が優れるのだ。

 定正の考えはためになるため、絶対に聞いたほうがいい。

 きっと今だって彼なら、この違和感に気づき言語化できていたことだろう。

 女の幽霊が恨みつらみで出てきたわけではないと気づいたように。

 彼は桜子の能力のおかげで出世できたと思っているようだが、そんなわけがない。

 結局は彼自身が優秀で、さらに人を惹きつける魅力があるから今こうなっているだけだ。


「人だけじゃないのが問題だけれど」


「中将? なにかおっしゃりました?」


「いえ、なにも。その件、なにかほかに思い出すことはありませんか?」


 小さな情報でも欲しいと聞けば、女房の一人が申し訳なさそうにする。


「詳しい情報は我々では……。梨壺で聞いてみたほうが早いかもしれません」


「――そうですね。わかりました。ありがとうございます」


 これ以上は聞き出せないかと桜子はその場を後にした。

 これは当時の事件を知る人に聞くのが一番手っ取り早い気がすると、梨壺に戻ろうとした時だ。

 渡殿に白い蛇がいた。


「――……」


 真っ白な蛇はこの間見たものと同じだ。

 神の使いである蛇がいるということは、もしや……と顔を上げれば渡殿の先から、帝がこちらに向かって歩み寄ってきた。


「桜の中将」


「――主上」


 頭を下げながらも帝の登場に驚いた。

 先ほどまでいたはずの白蛇は、まるで霧のように消えていってしまっている。

 これで帝が現れる前に白蛇を見たのは二回目ということで、やはりこの男は神に愛されているのだなと再確認した。

 人々の頂点に立つべくして生まれた男。


 ――自分はこの男に嫁ぐことになるのだろうかと、他人事のように考えてしまう。


「幽霊の件を聞いて、今しがた会いに行ったのだ。だが入れ違いになったようで、桜の尚侍にいろいろ聞いた」


「――そ、う、ですか……」


 それはまた、タイミングが悪すぎたようだ。

 今ごろ定正はどんな顔をしているのか、見てみたい気もする。


「……あの場ではあまり聞けなかったのだが、貞観殿ということで東宮が気にしていた。もしやとは思うが……」


 これはもしや、帝は事件のことを知っているのだろうか?

 だとしたらなにか聞けるかもしれないと、桜子は一歩前に出た。


「幽霊の正体は東宮さまの母君ではないかと考えております。ただの憶測ですが……」


「…………そうか。だがそなたがそう言うのなら、きっとそうなのだろうな。桜の中将の感は当たる」


 おや、と桜子はバレぬよう片眉を上げた。

 まさかそんなことにまで気づいていたとは驚きだ。

 相手は帝。

 雲の上の存在。

 いくら定正を気に入り、桜子を入内させたいと考えているからとしても、そこまで人をちゃんと見れているとは思わなかった。

 いっても所詮はただの家臣だ。

 適正な判断などしていないと思っていたのに……。


(……ダメなところがないというのも考えものね)


 これでは入内の件がどんどん断りづらくなってしまう。

 ああ、嫌だと心の中でため息をついた桜子は、しかしすぐに思考を変えた。


「なにかご存知ですか? ……その、東宮さまの母君について」


「……詳しい話は。私もまだ幼かったからな。ただ……」


 帝はふと梨壺のほうに顔を向けた。


「詳しい話は東宮の乳母に聞くといい」


「乳母? ……桂ですか?」


「そうだ。その桂だ。亡くなった御匣殿とは従姉妹同士で、ともに宮仕えをしていたはずだ。彼女の代わりに東宮の母親代わりをしていたからな」


「……それはつまり」


 そうだ。

 なぜその考えに至らなかったのだろうか?

 桂が東宮の乳母ならば、彼が生まれたであろう貞観殿にいてもおかしくはない。

 東宮とともに一度離れ宮中に戻ってきたというのなら、女房たちの話とも一致する。

 なら桂に聞くのが一番手っ取り早いのかもしれないが、果たして彼女が話してくれるだろうか?

 新参者であり、帝が女御にと望む桜子は、東宮側からしてみれば敵である。

 実際桂からはあまりいい顔をされていないため、桜子が聞いたからとて話してくれるかどうかは謎だ。


「……ちなみにですが、主上は他になにかご存じのことはないでしょうか? 事件解決のためにもいろいろな情報を知っておきたいのです」


「……ふむ」


 当時のことを思い出しているのだろう。

 帝は視線を横へとずらした。

 家臣の話を聞き、きちんと答えを出すために考えてくれる。

 帝という神に最も近い立場にありながらも、人格者であるなんて反則だ。


「――そういえば、あの時の先帝は少し気になることをおっしゃっていたな……」


「気になること?」


 桜子の問いかけに頷いた帝は、真剣な眼差しで見返してくる。


「――過ちを犯した、御匣殿に申し訳ないことをした、と」


「……過ち」


 ざわりと風が吹き、肌寒さに体が少しだけ震えた。

 慌てて空を見上げれば、暗雲が天を覆っている。


「御匣殿が亡くなってから、先帝はひどく気落ちされてな。そこから心を病まれてしまった。……そのせいで東宮も……」


 ぽつりと雨粒が一つ、二人の間に落ちてきた。

 それを見た帝が天を仰ぐ。


「――雨が降りそうだな。……中将も戻るといい」


「――は、ありがとうございます」


「なにかわかったら教えてくれ。そなたの話を聞くのは面白い」


「かしこまりました」


 帝が去るのを見送ってから、桜子は頭を上げた。

 帝の女御なんて興味もなかったのに、人となりを知りはじめてからはなんとなく意識してしまっている気がする。

 他人に意識を乱されるのが嫌いなのに、自分から泥沼に足を踏み入れている気がしてしまう。


「――それが目的なの?」


 シュルシュルと音を立てて、真っ白な蛇がまたしても現れる。

 それは桜子の問いに応えることはなく、ただちろちろと舌を動かすだけだ。


「……神の思し召しのままに」


 どちらにしろ今は東宮の件だと、桜子は踵を返した。





「面白いことになってるわね」


「……どこがだよ」


 自身の房に戻ってきた桜子は、芋虫のように縮こまっていた定正を見て鼻を鳴らしてきた。

 馬鹿にして……と、おずおずと服の隙間から顔を出した定正は、しぶしぶと散らかした服を片付け始める。


「主上に会ったんだよ。……もう二度と内裏で入れ替わりたくない」


「それは無理じゃないかしら?」


「願望だよ。……そんなことわかってる」


 桜子と入れ替わらなければ、定正にできることは少ない。

 だから我慢しなければならないとは思いつつも、思わずうなだれてしまう。

 しかしすぐに両頰を叩き顔を上げると、桜子と顔を見合わせる。


「ひとまず戻ろう」


「そうね。話はそこからね」


 瞳を閉じればまたしても謎の浮遊感。

 そしてその次には勢いよく落ちる感覚。

 その全てが終わってから目を開ければ、目の前には麗しの桜姫がいる。


「――ふう。やっぱり自分の体が一番だね」


「あら、私はあなたの体を楽しんでるけれど」


「……変なことしてないよね?」


 桜子は少しだけ視線をさまよわせたあと、居住まいを正した。


「玄輝門を見てきたけれど特になにもなかったわ。あなたの言うとおり成仏したみたいね」


「じゃあ収穫なし?」


「いいえ。途中で主上に会って面白い話を聞けたわ」


 桜子はまず女房たちから聞いた話をしたあとに、帝との会話を全て定正に伝えてくれた。


「桂に話を聞けるなら早いけれど……」


「…………」


「あの様子じゃあまり話してくれなさそうなのよね」


「…………」


 桜子があれこれ言っている気がするが、定正は一人静かに頭の中を回転させた。

 今の話を聞いてなにかひっかかるのだ。

 東宮の腕に現れた蛇のようなあざ。

 突然現れた女の幽霊。

 殺された東宮の母、御匣殿。

 箝口令が引かれたかのような貞観殿。

 その事件の当時の女房たちは全員返され、唯一戻ってきたのは桂だけ。

 その桂は御匣殿とは従姉妹で、御匣殿亡き後は東宮を育てた存在。

 さらには先帝の言葉。


『過ちを犯した、御匣殿に申し訳ないことをした』


 これらはきっと、全て繋がっているはずだ。

 理由なんてわからない。

 ただ感が告げてくるのだ。

 この違和感を放置するなと。


「……桂を調べよう」


「話を聞くんじゃなくて?」


「桂が話してくれるとは思えない。……この件、桂が中心にいる気がするんだ」


 定正の言葉に桜子は頷いた。

 東宮の腕の件といい、無関係なはずがない。

 だから桂を探るというのは間違ってないはずだ。


「桂がどうして東宮さまにあんなことをしたのか。さらには従姉妹である御匣殿と同じく貞観殿にいた。……これを無視できるほど、彼女の身が潔白だとは思えない」


「実在人を殺してるものね。……あれだけの霊がついてたんだもの」


「そうだ。……だから僕は仮説を立てて調べることにした」


「それは?」


 定正は真剣な表情で桜子を見つめた。


「――御匣殿の殺したのは桂だということ。彼女についてる霊の数を見て、無関係だったとは思えないんだ」


 確かに桂は人を殺している。

 なら御匣殿を殺害したとしてもなんらおかしくはない。

 とはいえ動機は必要だ。

 同じことを思ったのか、桜子からもそこを突き詰められた。


「なぜ御匣殿を殺したの? 理由はなんだと思う?」


「従姉妹、ということは桂にも帝の寵愛を得る可能性はあったんだ。けれどそれができなくて……かな? 仮だけれど」


 じゅうぶんに可能性はあるなと頷く。

 身近な人間が己より優れた地位にいくなんて、普通の人間なら嫉妬心を抱いてもおかしくはない。

 そして嫉妬は時に、とんでもない行動力につながる。


「ならその子どもを育てた理由は? 東宮さまも殺そうとしたのよね?」


「――権力、も考えられるけれど……。違う気がするんだ。なに、とは言えないけれど」


「それが違うとわかっただけでも上出来よ」


 桂にはなにか理由がある。

 理由があって御匣殿を殺し、東宮にも呪われていると言って腕に包帯を巻かせている。

 それはつまり――。


「東宮さまが呪われていることを知っていると思う」


「……桂が呪っていると?」


「ただの可能性だけれど、そう思ったら辻褄が合う気がするんだ」


 定正が思うのならばそうだと、仮説付けて調べたほうが早いと桜子は頷いた。


「じゃあ桂を調べたほうがいいわね」


「そっちは僕がやる。だから桜子は……」


「東宮さまの呪いなら見てきたわ」


 桜子が自分の胸元をとんとんと叩く。

 それを見てまさかと定正が胸元を探れば、指先になにか固いものがぶつかった。

 慌てて取り出せば、そこには薄い木で人形を模した人形のようなものがある。


「ちょっと!? こういうのは先に出しといてよ!」


「その前に戻ってしまったんだからしかたないでしょう」


 知らない間に呪いの証を胸元に持っていた、なんて恐ろしい話はない。

 慌てて床に置き手放せば、それを見ていた桜子が軽く肩をすくめた。


「解呪してあるから大丈夫よ。素人のものだったし、たいした力はないわ」


「それでも嫌なものは嫌だよ!」


 今は大丈夫であろうとも、そもそも呪われていたのだから気分のいいものではない。

 定正は床に置いた呪いの証を見ながら、眉間に深く皺を寄せた。

 東宮と書かれた人型には、いくつも穴が空いている。

 ここに釘を刺していたのだろう。

 呪いが完璧でなかろうとも、そこに雇った怨念は凄まじい。

 じりっ……と後ずさる定正に、桜子は淡々と告げた。


「梨の木の根元に埋められてたわ」


 梨壺は庭に梨の木があるからそう呼ばれている。

 ここでいう梨の木とはそれのことだろう。


「よくわかったね」


「カラスが教えてくれたのよ」


「そのカラスは犯人を見てなかったの?」


「梨壺にあまり近づきたがらないのよ。今は私がいるから顔を見せてくれてるだけ」


 カラスが近寄りたがらないほど、この梨壺は闇が深いということだ。

 それがこの呪いのせいなのかはわからないが、あまりのんびりもしていられないように思える。


「ひとまず東宮さまにこの件を報告しよう。解呪したことと、その呪いと腕の爛れは関係なかったと」


「その際桂ことも話すことになるかと思うけれど……。東宮さまは信じてくれるかしら?」


 乳母として全幅の信頼を置いている桂と、パッと出の定正たちの話、どちらの話を信じてくれるかはわからない。

 そう不安がる桜子に、定正は首を振った。


「大丈夫だよ。たぶん東宮さまもなんとなく気づいてると思う。そうじゃなきゃ、最初の話の時に桂まで遠ざけたりしないさ」


「……確かにその通りね」


 全幅の信頼を置いているとされているのに、あの時桂を下げたのには意味があるはずだ。

 ならばと桜子は呪いの証を手にとると立ち上がった。


「行くわよ」


「うん」





「東宮さま、人払い感謝いたします」


「いや、こちらからの願いだ。それくらいはする」


 定正と桜子はともに東宮に会いに行った。

 すぐに人払いをされ、母屋には三人のみが残る。

 そんな中で東宮との距離を近めた桜子は、呪いの証を懐から取り出した。


「――、そ……れは」


「呪いの証拠です。……僕のほうで解呪はしてありますが」


 本当にやったのは桜子だが。

 禍々しい呪いの証拠。

 そこに東宮と書かれていることに気づいたのだろう。

 顔色が一瞬で青ざめた。


「これは……」


「梨壺の庭、梨の木の下に植えてありました」


「……梨壺に」


 東宮はしばし呪いの証を見つめた後、深く息を吐き出した。


「やはりわしは呪われていたのだな。だからこそこんなあざが……」


「それは違います」


「東宮さま。東宮さまの腕は呪いによるものではありません」


「――呪いではない? しかしこの蛇のようなあとは……」


 定正は首を振ると、以前桜子から説明されたとおりに言葉を紡ぐ。


「それは漆によるかぶれだと思われます。はじめのころはそこまでひどくなかったのですよね?」


「……そうだ。だがかぶれだとすればかゆみがあるのでは……? わしはかゆみなどなく、ある日突然現れたのだ」


「かぶれではかゆみを伴わない場合もあるのです。東宮さま、もしよろしければその包帯を見せていただけますか?」


「……わかった」


 東宮は腕に巻いていた包帯をとると、桜子に手渡した。

 桜子はそれを見つめたあとに、定正を見て頷く。

 どうやら推理は間違っていなかったらしい。


「これは薬草ではなく漆かと思われます」


「包帯を巻いてからひどくなられたのなら、間違いないかと……」


「そんな……つまり。…………桂が……?」


 悲しげな声。

 その声に信じていたのにという悔しさが滲む。

 全てを言わずとも東宮にはわかったのだ。

 犯人が誰なのか……。


「東宮さま。我々はこの呪いの主も、桂なのではと疑っております」


「そんな――っ! だが……桂は…………」


「素人の呪いでしたので、たとえば体の不調程度ですんでいたと思いますが、どちらにしろ許されることではございません」


「もちろん桂ではない可能性も考えて、中将は探っておりますからご安心ください」


 桜子がそう言えば、東宮はぐっと押し黙った。

 桂を信じたい心があるのだろうが、しかしどこかで疑いもあったのだろう。

 黙り込む東宮に定正は話しかけた。


「東宮さま。もし可能でしたら、桂のことをお聞かせ願いたいのです。……東宮さまはご存知でしたか? 桂が東宮さまの実母、御匣殿と従姉妹であったと」


「……聞き及んでいる。母上がわしを産んですぐに亡くなったゆえ、桂が育ててくれたと。先帝に嫌われていたせいで宮中を追われ、吉野の屋敷で育てられた」


「――先帝に嫌われていた……?」


 どういうことだ?

 先帝は確か御匣殿に寵愛を与えていたはず。

 その子どもである東宮をなぜ嫌うのか。

 だがそこまで考えて定正の頭にある考えが浮かんだ。

 そもそも東宮がこの座に着いたのはつい一ヶ月ほど前。

 年齢が原因かと思っていたが、ならなぜ宮中を出ていたのか。

 先帝唯一の男御子であるならば、宮中で大切に育てられているはず。

 この違和感は一体なんだ?


「桂はそうとう苦労をしてわしを育ててくれた。……だから、彼女を信じたいと思ってしまうのだ。……わしにとっては母も同然」


「……東宮さま。東宮さまのお気持ちもわかります。だからこそ、真実を探りましょう。桂が犯人かどうかは、もうすぐわかるかと――」


 唯一頼れる存在を信じたい気持ちはわかる。

 しかしこのままではと定正が眉間に皺を寄せたその時だ。


「その必要はないわ」


「――桂……」


 母屋に桂がやってきたのだ。

 彼女はまるで能面でもつけているかのような無表情でやってくると、一定の距離を保ってぴたりと止まった。


「嫌な予感はしていたのよ。よりにもよって主上が女御にと望む女が尚侍としてやってくるなんて。……しかもその兄があやかし退治の名手と呼ばれてて。――私の作戦を台無しにしないか不安だったわ」


「――桂……おぬし……っ!」


「実際台無しにされて本当に最悪よ。――私の人生をかけてやろうとしていたのに」


「……それはつまり、僕らの推理が合っていたということでいいかい?」


 桂はなにも言わずただ静かに微笑んだ。

 だが目は笑っておらず、ただ口端だけを押し上げたその表情に言いしれぬ恐怖を感じた。


「ちょうどいいわ。ぶんぶんと周りを嗅ぎ回られるのは嫌だったの。あなたたちの疑問に答えてあげる」


「……ずいぶん気前のいいことで」


「冥土の土産と言うやつよ」


 どうやら腹を括っているらしい。

 疑われているかつ、呪いの証を持ってこられたことで覚悟を決めたようだ。

 皇族を呪うなんて万死に値する。

 死の覚悟をしている相手ほど怖いものはないと、定正は警戒を怠らない。


「僕はあなたが御匣殿を殺したと思っていますが、真相はどうですか?」


「――あの女が悪いのよ」


 東宮の顔が大きく歪む。

 まさか育ての母が産みの母を殺したなんて信じたくなかったのだろう。

 だがそんな東宮を気にすることなく、桂はゆったりと話し始める。


「あの女が私の帝を奪ったのよ」


「私の帝……?」


「そうよ。あの女狐が全て悪いの――!」


 怒りに顔を歪める桂に定正は違和感を覚えた。

 先帝は確か御匣殿に寵愛をあたえていたはずだ。

 だが桂の言いかたになにか引っかかるところがある……と考えたところで定正はハッと顔を上げた。


「――もしかして……桂、君は帝の子を……?」


「そうよ。私はあの女よりも先に、帝の子を成していたのよ」


 東宮の乳母であるならば、近い時期に妊娠していたことになる。

 もちろん通いの男との間に、なんて可能性もあるが、どうやら違ったようだ。


「けれどね。あの女が帝を誑かしたせいで……あのお方は私を見てくださらなくなった! まるで私とのことを、一時の過ちのように思われてたのよ」


 御匣殿を愛していたからこそ、妊娠した桂の存在に帝は悩んだのだろう。

 帝のあり方としては間違っていないのに、当の本人が愛する御匣殿に操を立てようとしたのだ。

 そんな時に起きてしまった桂の妊娠。

 帝がどう思ったのかは、桂のその後の行動でわかってしまった。


「けれど先に妊娠したのは私! だから私が男御子を産めば、帝と私を見てくださる。――そう、思っていたのに……」


「流れたのね」


 黙っていた桜子が告げた。

 その視線は桂の足元に向けられており、定正も同じように見つめる。

 桂の足元には、彼女を引きずり落とそうとする数多の赤子の霊と、そんな彼女の足に必死にしがみつく形のない光があった。

 きっとその光が、赤子だったのだろう。


「――私の子が死んでしまったのに……あの女の子だけ産まれてくるなんてそんな……不公平があっていいわけないでしょう?」


「そんな理由で殺したのは、御匣殿だけではないでしょう?」


「先帝は気難しい人だったけれど、一夜を過ごした相手は決して少なくはなかったのよ。……二度目はなかったけれどね」


 つまり桂の元にいる霊たちは、先帝の一度のお手つきで妊娠した人たちとその子どもいうことらしい。

 きっとその中でも二度目三度目と逢瀬を重ねたのは、御匣殿だけだったのだろう。


「あの女が死んで、帝はどんどん壊れていったわ。だからこう言ってやったのよ。あの女との間に産まれるはずだった赤子も亡くなってしまったわね……って」


「――なにを言っているの? 東宮さまは生きて……」


 桜子の言葉を手で制した定正は、鋭い視線を桂に向けた。


「嘘をついたんだね。心を病んだ帝に、呪いの言葉を吐きかけたんだ」


 愛する人を失い心身ともに疲弊している帝に、桂は言ったのだ。

 御匣殿の子は亡くなった、と。

 それが決め手となり、帝は病に臥せってしまった。

 だがなら今いる東宮は?

 と考えてすぐに答えが浮かんだ。

 東宮本人が言っていたのだ。

 自分は先帝に嫌われていたと。

 なら答えは簡単だ。


「先帝に言ったんだな? 御匣殿の子は亡くなり、自分の子は生きていると。だから東宮さまは宮中を追われることになった。……愛した女を殺した女の子どもとして」


 定正の推理に桂はただ笑うだけだ。


「ちょっと待って。先帝以外は東宮さまが御匣殿の子だとわかっていたのよ? それなのに先帝はなぜ……」


「元より気難しく、あまり周りの話を聞く人ではなかったのだろう。……それに、心を蝕まれたのなら幻覚幻聴を見ていてもおかしくはない」


 思い込みを思い込みと思わず、その人がそれを真実だと認めてしまったらもう手遅れだ。

 特に相手は帝。

 全ての権限を持つ相手だ。


「だから幼い東宮さまと共に宮中を追い出されたんだな。だがなぜ…………」


 なぜ東宮を育てたのか。

 定正がちらりと東宮を見れば、桂は聞きたいことがわかったのか淡々と口を開いた。


「最高の形で復讐するためよ。のたれ死んだなんて嫌。……私の子と同じように、この宮中という最高の舞台で死ぬべきなのよ」


「……それと東宮さまの腕の件は、なんの関わりがある?」


「――簡単なことよ。東宮の周りに人を寄せ付けないため。その餓鬼は隠せてると思っているようだけれど、周りは気づいてるわ。そいつが呪われた東宮だって」


「呪ったのはお前でしょう!?」


 桜子が珍しく声を荒げたが、桂は気にした様子はない。

 なんてことないようすに、定正は違和感を覚える。

 呪いが解かれたというのに、大して気にしていないなんてことあるだろうか?

 これだけ明確に東宮への殺意を持っているのに。


「呪われた東宮さま。かわいそうなあなたを助けるのは私しかいない。……ほかの女房たちは、呪われたあなたに触れて穢れることを恐れている」


「――わかっている。周りは皆、わしを遠巻きにする。わしを助けてくれるのはそなただけだ。……だからこそ」


「だからあなたを呪ったのよ。呪いが不完全かなんてどうでもいいの」


「知っていたの? 呪いが完成してなかったこと」


 その呪いが不完全でいいなんてどういうことだ?

 ではなぜ呪ったのだ?

 そもそも腕のあざといい、桂のしたいことはなんだ?


「…………――そうか。そういうことか」


 定正はぐっと両手に力を込める。

 頭の中で点と点がつながり、桂のやりたいことが理解できた気がした。


「殺そうとしたのか。その手で、東宮さまを――っ!」


 定正の言葉に母屋の中は静まり返る。

 しばしの沈黙ののち、桂はゆったりと口を開く。


「――腕のあざがあるかぎり、東宮は私以外に風呂を任せない。……絶好の機会だと思わない?」


「この呪いの証はただの偽装。――東宮さまは呪われていたのだと周りに知らしめるためのもの」


「たとえば風呂で溺死したとして、呪われた東宮に献身的に支えていた私を疑うものがいるかしら?」


 つまりはこういうことだ。

 東宮は呪われていると周りに知らしめて、彼を孤立させる。

 そんな時に東宮が亡くなったところで、周りは呪いのせいだと思うだろう。

 幼きころより育てた桂を、疑うものなどいないのだ。

 定正たちもきっと、桂本人を見るまでは疑わなかった。

 彼女に憑く数多の幽霊たちを見るまでは……。


「だから梨の木の下なんていうわかりやすいところに呪物を埋めたのに……。あなたたち、なぜ私を疑ったの?」


「……あなたはたくさんの人を殺した。その人たちが教えてくれた。――それに御匣殿も。きっと東宮さまを心配して姿を現してくれたんだ」

 

 あの時の幽霊はきっと、東宮の母、御匣殿だったのだ。

 今この時姿を現したのは、呪われた東宮を心配してのことだったのだろう。

 定正に助けを求めたのだ。

 ――子を救って欲しいと。


「めんどくさいわね。死んでもなお私の邪魔をするなんて」


 だが桂はそんなことどうでもいいのか、鼻で笑い一蹴した。


「東宮が死んでもなんの違和感もない状態を作って……ここ、宮中で殺すつもりだったのに」


 はあ、と大きくため息をついた桂は、突然懐からなにかを取り出した。

 きらりと鈍く光るそれは東宮の顔を写す。


「けれどもういいわ。どうせ殺すことに変わりはないのだから」

 

 その状態が鞘から抜いた懐刀だと気づき、定正は瞬時に動いた。

 桂は大きく二歩、足を踏み出すと東宮との距離を縮める。

 大きく抜き身の剣を持った腕を振り上げると、東宮に向けて下ろした。


「東宮さま――!?」


 桜子の悲鳴に近い声が響く。

 定正はとっさに東宮と桂の間に身を入れると、彼女の二の腕を強く掴む。

 肩に強い衝撃を受けたが、頭に血が昇っているからか痛みは感じなかった。

 すぐに桂の足元を払うと横に倒し、彼女の両手を腰のあたりで纏めその上に膝を乗せる。

 体重を込めて動きを封じると、桜子に向かって叫んだ。


「紐を!」


「――」


「尚侍!」


「――あ、わ、わかったわ」


 慌てて桜子が母屋を出て、紐を手に戻ってきた。

 定正が素早く紐で桂を縛り上げる間も、彼女は呪いの言葉を吐き続けている。


「呪われろ! お前なんていらない存在なんだ! 親にも愛されない餓鬼が。帝になんてなれるわけがないんだ!」


「黙れ! お前の逆恨みを東宮さまに擦りつけるな! お前が帝に愛されなかったのはお前の責任だ!」


 定正はそう叫ぶと桂の口に布を押し込んだ。

 これ以上東宮の耳を穢させるわけにはいかない。

 やっとの思いで桂の動きを止めると、騒ぎを聞きつけてきたのだろう、橘の少将が部下を引き連れ梨壺に入ってきた。


「なにがあった!?」


「東宮さまを殺そうとした犯人だ。……捕まえてくれ」


「なんと……。――中将!? 怪我をしているのか!?」


「え? ……ああ、忘れてた」


 橘の少将に言われて気がついたと、定正は己の肩を見る。

 袍がぐっしょりと濡れており重みを感じる。

 そうなると痛みまで現れ始め、定正は肩を押さえその場に座り込んだ。


「桜の中将!」


「東宮さま、お下がりください。血で汚れてしまいます」


「構うものか! そなたはわしを救ってくれたのだ!」


 出血量が多いのか、頭がくらくらしてくる。

 痛みも心臓の鼓動と共にどくどくと増していき、定正はついに座っていることすら出来なくなってきた。

 ずるりと音を立てて床に倒れ込めば、定正の瞳は青ざめた桜子の顔を写し出す。


「…………」


 大丈夫だと伝えなければ……。

 妹はこういう時人一倍心配するのだ。

 だから安心させてあげなくてはならないのに……。


「――お兄様!」


 視界が暗くなっていく――。





「体の調子はどうだ?」


「お父上。もうだいぶよくなりました」


 左大臣家の屋敷にて、定正は休養を強いられていた。

 桂に肩を刺され丸一日昏睡状態であった定正は今、自身の部屋にて書物を読み耽っている。

 それくらいしかすることがないのだ。

 可能なら剣を振り弓矢を構えたいのだが、それを桜子が許してくれない。

 梨壺から左大臣にくれぐれも兄を無理させるなとの手紙が届き、さらには東宮からも似たような手紙が届けられたのだから、無視できるはずもない。

 そんなわけでほぼ毎日を寝て過ごしているのだが、そろそろ体が鈍ってしまいそうだ。


「もう傷もだいぶよくなりましたし、明日にでも出仕したいと思っているのですが」


「うむ。……そうだな。帝もそなたがまた出仕するのを心待ちにしておられる」


 左大臣はそういうと定正の隣に腰を下ろす。

 真剣な面持ちの左大臣に定正もまた居住まいを正した。


「主上より今回の件を考えて、そなたを頭中将に命じられるそうだ」


「――頭中将ですか?」


 頭中将とは四位の位を持つ、蔵人頭と近衛中将を兼任した役職だ。

 帝を近くでお守りすることのできる立場ゆえ、かなり重要な立場にある。

 つまりは昇進だ。


「東宮さまの命を救ったのだ。帝はたいそう感謝されておられる」


「そのような……当たり前のことなのに……」


「その当たり前をできることに、帝は感謝しておられたのだ。ありがたくお受けいたしなさい」


「……わかりました」


 まさかこんなことで昇進することになるとは。

 恐れ多いと渋い顔をする定正に、左大臣もまたなんとも言えない顔をした。


「帝は桜姫を女御にとお望みだ。もちろん本人の意思を尊重するとはおっしゃられているが、逃れることはできぬ」


「……父上。そこは桜姫もわかっていること。だからこそ心の準備をしているのです」


 あの桜子が帝を拒まないのだ。

 それだけで彼女が帝を好ましく思っていることがわかる。

 だからこそ心配そうにしている左大臣にそう伝えたのだが、表情は優れない。


「……東宮さまのお母君の件、今回の事件で公になったであろう。――そのような場所に桜姫が行くかと思うと、親として不安がな……」


 桂は東宮さまからの温情がかけられ、流刑で済んだという。

 なんとも身勝手な嫉妬から起こした事件の結末は、案外あっけなかったように思った。


「……そうですね」

 

 宮中が安全な場所ではないということが、今回の事件でよりいっそうわかった。

 帝の寵愛をめぐっての攻防は、今後桜子が直面するところだろう。


「特に弘徽殿と麗景殿の女御さまはその……気が強いと有名ゆえ、な」


 過去帝に色目を使ったとかで、女房を宮中から追い出したと噂が立ったことがある。

 確かに父が心配するのもわかるなと、定正は安心させるために笑顔を向けた。


「ご安心ください。桜姫はそのようなことに負けるような女子おなごではございませんし、なにより僕がいます。必ず桜姫を守ると誓います」


「……そうだったな。そなたたちは二人で一つ。二人が共にいれば、出来ぬことはないな」


 左大臣はやっと納得できたのか、頷くと立ち上がった。


「ひとまず明日より出仕するといい。その際は梨壺にも向かいなさい。桜姫がひどく心配していたからな」


「はい。かしこまりました」


 父がいなくなった母屋で、定正は庭を眺めた。

 御簾が上がったそこは、心地いい風を運んでくれる。

 庭にある咲かずの桜は桜子が産まれた時から、毎年のように花を咲かせてくれた。


「……桜姫が特別なだけで、僕が特別なわけじゃないのに」


 彼女の力に甘んじてその地位を拝命してもいいのだろうか?

 そう考えない日はない。

 今回のことも、桜子の実力によるものなのに。


「どうしたものかな」


 そんなふうに考えていた時だ。


「――ギャゥ」


「……今なにか、鳴き声が……?」


 定正は立ち上がると母屋を抜け簀へと向かう。

 そのまま身を乗り出して庭を眺めていると、草むらからがさりと音が聞こえた。


「なにかいる?」


 なにごとだろうかと庭に出てみれば、草むらの中に蠢く影が見えた。


「――猫?」


「ギャゥ!」


 シャーっと牙を立てて威嚇するのは、黒い特徴的な模様がある真っ白な子猫だ。

 子猫は定正に気づくと強く威嚇してくる。


「どうしてこんなところに……?」


 左大臣家では猫を飼っていないはずだ。

 どこから迷い込んだのだと小首を傾げた定正は、しかしその子猫が足をひきづっていることに気がついた。


「怪我をしてるの!? おいで、見せてごらん」


 迷うことなく手を差し出して、子猫のほうからやってくるのを待つ。

 定正がこうすれば、たいていの動物は近づいてくるのだ。

 案の定子猫は訝しみつつ近づいてくると、定正の手の匂いを嗅ぐ。

 そして相手が危険でないこと悟ったのか、手に擦り寄ってきた。


「どこで怪我をしたんだい?」


「ぎゃぅぅ」


「……まあ、聞いたところでわからないか」


 桜子のように動物の言っていることがわかるわけではない。

 定正は子猫を母屋に連れていくと、簡単にだが手当てをしていく。

 その頃にはすっかり子猫は定正に懐き、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。


「……行くとこないならここの家の子になるかい?」


「ぎゃう!」






「――…………」


「……ど、どうしたの?」


 久しぶりの出仕は、とても賑やかなものとなった。

 なにより司召つかさめしと呼ばれる秋に行われる官吏を任命する行事を無視しての昇格とあり、宮中の人々から祝福の言葉をもらった。

 今回の東宮暗殺事件はあの騒ぎにより広まっているらしく、定正の昇進に意を唱えるものはいなかったようだ。

 出仕してすぐ帝に呼ばれ、感謝の言葉とともに改めて頭中将の御役目を任命された。

 その場にいた東宮からも感謝され、定正は畏れ多い気持ちでいっぱいいっぱいだった。

 そんなわけで桜子の房に逃げるようにやってきたのだが、主である桜子は定正を見ると盛大に眉間に皺を寄せた。


「――あなた、なに連れてきたの!?」


「な、なにって……?」


「後ろのそれよ!」


「後ろって……?」


「ぎゃう!」


 桜子にそう言われて振り返れば、そこには左大臣家にいるはずの子猫―白―がいた。

 白は驚く定正の足元に擦り寄ってくる。


「あれ!? 白、なんでここに……」


「白!? なに名前つけてんのよ!」


「えぇ……。だって怪我してたから」


「…………まさか、左大臣家で飼ってるなんて言わないわよね?」


「怪我を手当してそのまま捨てるなんてできないよ」


 抱き上げれば、白は腕の中でゴロゴロと喉を鳴らす。

 甘えん坊はわからないなと撫でつつも、なぜここにいるのかと首を傾げた時だ。

 桜子が我慢ならないと深くため息をこぼした。


「あなた、それがなにかわかってるの?」


「なにって……猫だろう?」


「ただの猫なら私がこんなふうに言うわけないでしょう!」


 叱られた。

 なぜそんなに声を荒げるのだと小首を傾げていると、桜子は白を指さして言い放つ。


「あのね! それは、白虎の思念体よ。思念体って言っても本体の意思はあるの! つまりわかる? あなたまたとんでもないものを懐に招き入れたってことよ!」


「…………」


 白虎。

 それは都の西方を守る神獣の一つである。

 東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武。

 神であるそれらの存在は、我々京に住む者たちにとっては尊むべき存在である。

 それが今、自分の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らしているなんてそんなこと……。


「……嘘だろ?」


「嘘ならどれだけよかったか! 言ったわよね!? なにかれ構わず懐かれるんじゃないわよ!」


 そんなことを言われても、これはわかりは不可抗力だろうと定正は白を見る。

 言われてみれば確かに、柄が虎の模様だ。

 手足は太いし、これは大きくなるな、なんて飼うのに前向きだった母と笑っていたというのに……。


「…………これ、まずいことしちゃった?」


「もう知らないわ。せいぜいこの世ならざるものに好かれなさい。馬鹿兄」


 一難去ってまた一難とはこのことか。

 定正は顔を青ざめされると、そっと天を仰いだ――。



 完

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