第二話 シートの黒い影(三)
なにも起こらない。
そのはずだったが、バンは街道に続く道の真ん中あたりで突如停まり、右回りにガーッとUターンするや、弾丸のごとく、まっしぐらにこっちへ戻ってきた。そして驚愕する平井めがけて、とてもさっきまではしゃいでいた明るい人たちが乗っているとは思えないほどに、その車体を乱暴にガタガタ横揺れさせて突っ込んでくる。近づいてくるにつれでも、さっきのおぞましい不快感が戻ってくる。
相手の様子がはっきり見えてきた。左右の窓から何度も腕が突き出しては引っ込み、外に赤い液体が飛び散っている。中からドスンドスンという破壊音と、獣の吠えるような男女の叫びが響いてくる。
平井は凍り付いた。
(中で……)(殺しあってる……!)
突如フロントガラスがけたたましく割れ、中からハンドルを握る秋山兄の血まみれの頭ががばっと飛び出した。車内から地獄のような咆哮がとどろく中、バンは危うくよけた平井の脇をかすめ、駐車場に入って奥のブロック塀に突っ込み、停まった。
ボンネットがバクンとひらき、ドアがボコボコにひしゃげた痛々しい車体の割れた窓から、人間が何人も蛇みたいにずるずると頭から這い出てきた。さっき笑いあっていたクラスメイトたちのなれの果てで、その目は無残に潰され、片方にペンが刺さっているのもいて、口を刃物で裂かれたらしい、おぞましい顔の奴もいた。彼らはみな気味の悪い唸り声をあげ、ゾンビのように地を這って寄ってくるので、平井は恐怖のあまり、駐車場の入り口にある電柱によじ上った。敵はそう速くもないので、全力で逃げれば助かったろうが、その気力はなかった。
敵はもしや上がれないのでは、と一瞬期待したが、すぐ絶望した。彼が電柱の足掛けをつかんで上がったその下から、一人が同じように足掛けをつかみ、ゆっくりだが確実に登ってくる。それも、一人来るその下から何人も続いている。
電柱の中ほどで追いつかれそうになり、平井は必死に蹴ろうとした。彼を見上げたその顔は、両目がなく口元が無残に裂けているが、完全にあの秋山のそれだった。顔に平井の靴を受けると、彼は「ギャアアアー!」と吠えて右手を伸ばし、足首をつかんだ。引っ張られた平井は力が抜けた。
(もうダメだ――!)
ここで死ぬと確信した。
だが、その必死の目が虚空を泳いだそのとき、向かいの数十メートル先の敷地に建つ、もう一つの電柱の姿をとらえた。自分と同じ高さのところに、人の姿がある。そいつは電柱にしがみつく格好で裏からひょいと顔を出し、右手をタバコでもふかすように口にそえていた。だがそれは、細く短い筒だった。
ヒュンッ!
そこから飛んだ吹き矢は、虚空を一直線に抜けて秋山の首筋に命中した。彼は絶叫してずり落ち、下にいた数人も巻き添えになって、地面へぼとぼとと落下した。そこへ目がけて、闇介は吹き矢を何本も打って全員を眠らせた。
(き、来てくれたんだ……)
平井は安堵したが、もう遅かった。完全に力が抜けて彼も落ちた。
が、即死はしなかった。
下に背広姿の大人の男がいて、両腕で彼をがっちりと受けとめたからである。