第一話 螺旋階段(三)
近くの安ホテルでとりあえず手当され、自分の落ち度で災難にあったのに助られっぱなしの霧島譲葉は、かなり気まずい思いもしたが、それよりも自分が死にかけたことへの恐怖が勝った。こうなった理由は、あの非常階段で少女の影を見たからだろうが、だからって、殺されかけるような目にあうのは理不尽すぎる。
ホテルに入るとき、フロントの太ったおばさんに不信な目で見られたが、それは連れの「少女」が未成年っぽかったのもあるが、それ以上に男のほうが、憔悴した顔で手足に怪我、裸足で寝間着のあちこちが血染めだったせいで、反社会勢力と勘違いされたのだった。
「ヤクザの喧嘩じゃないよ。ちょっと怪我しただけ」
鍵を受け取るとき、男の肩を背負った「少女」は何食わぬ顔でフロントに言った。フロントの女性は終始しかめ面だったが、それでも面倒はごめんだから、しぶしぶ救急箱を渡し、「その奥の〇〇号室です」と薄暗い通路を指した。
「少女」は行きかけて、ふと振り返り、「あと、ぼく男だから」と言って、ウィンクまでしたが、受付にとっては年齢が重要で性別は関係ないので、あまり意味はなかった。
「やたら座り心地が悪いな、これ。不良品かな」
手足の指が包帯と絆創膏だらけで痛々しくソファに座る譲葉の向いで、少年は尻でベッドを上下にぶよんぶよんさせながら言った。
「それは、ウォーターベッドと言って……」
説明しかけて、譲葉はやめた。こんな知識を未成年に教えてもしょうがない。というか今は下ネタにかまける気力もない。
それを察したように、少年はいったんベッドに両手をついて伸びをしてから、前かがみで彼を見つめ、真顔で言った。
「あの子が、また君を呼ぶことは、とりあえずないと思う。まあ安心していいんじゃない」
そして口元をゆるませたが、それが譲葉には妙に他人事というか、無責任に見えて不安になった。
「なぜ、そう言える」
「あれの前の前のマンションのとき、さっきみたく、あの子を妨害したことあるんだ。自分の影を見た人を、君と同じように操ってね。そしたら、もう手だししなかった」
「そ、そんなの、わからないだろ……! また、あんなふうにならない保証は……!」
譲葉は痛む両手の指を見つめて顔をしかめ、うなるようにつぶやいたが、急にうなだれて、ぽつりと言った。
「……ごめん」
「いいよ、あんな目にあっちゃ、誰でも理性を失うもんだ」
「ちがう、君に嘘をついたことだ」と、かぶりを振る。「なにも見なかった、なんて……」
「ああ、そのことか。いいよ、そんなの」
言ってベッドから降り、腕組みし、壁を見つめる。目線の向こうには、きっとあのマンションがあるにちがいない、と譲葉は思った。
とにかく、この不思議な少年のおかげで、とりあえず命が助かったのだ。今は感謝しかない。
「ありがとう」
「えっ? ああ、助けたことか」と彼を向く。「いいよ、これがぼくのすべきことなんだから」
「いったい――」
君は何者なのか、と聞きかけたが、さえぎられた。
「そう、いったいあの子が誰なのか、ぼくにもわからない。ただ確かなのは、あの子がどこかのマンションで誰かに殺されて、殺したやつが、その死体を持ち歩いてるってことだ」
「持ち歩いてる?!」
驚く譲葉に、彼は陰鬱な顔でうなずいた。
「たぶん、あの子の親だろう。親が何度も引っ越して逃げ回ってるのを、あの子の霊が追いかけてるんだ。親が捕まって死体が供養されない限り、犠牲者はこの先も増え続ける」
「じゃ、その親が引っ越すたびに、あの少女の霊が来て、住人を殺してるわけか。でも、」と眉をひそめる譲葉。「その親は、なぜ似たようなマンションにばかり越すんだ? どこも、その子が殺されたのと同じ、螺旋階段がついたでかいところなんだろう? 逃げるなら平屋とか、元とはちがう場所に行きそうなもんだが」
「似たマンションにしか行けないんだと思う」
再びベッドに腰かけて続ける。
「最初はきっと君の言うとおり、殺人現場を思い出すような場所は避けようとしたはずだ。でも、越そうとすると、必ず何かが起きて入れなくなる。たらいまわしのあげく、元いた忌まわしい場所と同じつくりのマンションだけが残った。あの子の呪いのせいかもしれない。
あいつには人を誘導する力がある。遠隔操作みたいなものさ。君は、その身で体験したろ?」
譲葉は、さっきのことを思い出し、背筋がぞっとした。
が、ふと疑問がわいた。
「でも、おかしいぞ。あの子は、見ず知らずの他人のぼくにすら、あんなことができるんだぜ? 憎い親を殺すくらい、わけないはずだろ。なんで、そんなまどろっこしいことを――」
「憎いから、だよ」
少年は床に目を落とし、ぽつりと言った。その顔には、子供のものとは思えないほどの、深く重いかげりがさしていた。
「憎いから、簡単には殺さない。とことん追い詰めて、恐怖を味あわせてから、ゆっくりとどめをさすつもりだ。でなきゃ君の言うとおり、こんな無駄なことはしないだろう。恨みを晴らすためには、より多くの犠牲者がいる。あの子を見て死んでいった人たちは、彼女が親をとことん責めさいなむためのダシなんだ」
「じゃあ、俺もそのために……」
改めて恐怖に襲われたが、同時にむかついてきた。少年がなんだかんだで頼れる感じなので、落ち着いてきたせいもある。
「なんとかならないのか? こんなひどい話ってないだろ」と痛む拳を握る。
「うん」
譲葉の言葉に、少年はうなずいた。そしてまた立つと、上着のポケットに手を突っ込み、さっきと同じように壁を見つめて言った。
「あそこで、終わらす」
「ただねえ」と腕組みして続ける。「あの子の親が、あそこに住んでいるのは確かなんだけど、どこの誰なのか……」
それを聞くや、譲葉の目が光った。
「待てよ。その親って、最近、越してきたんだろ? 俺が昨日担当した客が、確か三日前に入ったばかりだと言ってた」
「そういや、君は仕事であそこに来てたんだっけ」
「ああ」
譲葉はうなずいた。
「うちは家電の会社で、昨日のお客は冷房機を買ってくれたんだ。四十前の男性の一人暮らしで。そうだ、よそのマンションを転々としてきたんで、ここに落ち着きたい、と言っていたな」
「転々と?!」
今度は少年の目が輝いた。
「一人暮らしって、同居はいないんだね?」
「子供がいたけど、女房に取られたってさ。寂しいのか、べらべらといろいろ喋ったよ。ここは水がきれいだからいい、貯水槽がしっかりしてる、って。たとえば、いい加減なオーナーだと、何年も掃除しないことがあって、水が――」
「貯水槽って?」
「団地やマンションの敷地にあるでかいタンクで、建物に供給する水を一時ためておく施設だ。そのお客さん、やけに水のことばかり言ってたな。冷房には水を使うから、気になるのもわかるが。とにかく、やたらそこの貯水槽をほめまくるんだよ。性能がいいだの、きちんと掃除してるだの。まあ、管理人さんに聞いたんだろうけど」
「それだ!」
いきなり叫び、少年は部屋から出ていった。あわてて追う譲葉。
「おい待て、どうした?」
廊下で追いつくと、少年は急に立ち止まり、独り言のように言った。
「……その男性客が父親なのは間違いない。君、悪いけど、協力してもらえるかな?」
「もちろんだよ。君は命の恩人だ」
そう言って笑ったが、相手がこっちを見ないままなので、少し不安だった。
「……一度、君を助けたけど」と神妙に続ける少年。「それで、あの少女がもう手出ししないと保証はできない。前したときはそうだったけど、またそうなるという確信は持てないんだ。さっきはそう言っちゃって悪いけど……」
「なんだ、そんなことか」
譲葉は笑った。つまり、彼がまた操られるのを恐れているのだ。だが、彼はもう何も気にならなくなっていた。今や彼は、この少年のためならなんでもやろう、なんなら命を張ってもかまわない、という気にさえなっていた。
「そもそも、君に一度救われたんだ。次に死んだら、それでトントンじゃないか」
それを聞いて、少年はため息をついた。
「大人ってみんなそうだね。一万円ぶん働いたから、一万円払いますよ、って。だいじょうぶ、君に現場に来てもらうつもりはないよ。その客の情報だけ教えてくれれば、それで」
「じゃ、うちに戻って資料を持ってこなきゃ」
「急ぐわけじゃない。明日の午後三時くらいに、あのマンションの門のところで待っててよ」
「あ、ああ、わかった」と自分の指を見る。「ぼくもこの手じゃ、少しは休まないといけないしな」
「じゃあ、さっさと行こう」
歩きかけ、振り向いて、にっと笑う。
「お楽しみの時間も、終わりだしね」
時間オーバー。
入口のほうから、受付のおばさんが半ばキレかかって来るのが見えた。