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第一話 螺旋階段(二)

 その日の真夜中すぎ、寝静まった街を狂ったように全力疾走する男がいた。飛び出そうな血走った目に、はあはあと息をきらせ、あきっぱなしの口、汗まみれの額から水滴を散らせながら、頭と手足を激しく振って、アスリートのごとくがむしゃらに走っている。上下に青のチェックが入った寝間着のおしゃれ加減が、見た目の異様さをいっそう引き立たせる。しかも足元は靴も履かず、裸足だ。


 それもそのはず、彼はここから二駅も離れた自宅のアパートで、眠っていた布団から突如飛び起きるや、玄関に走ってドアにしがみつき、指を切るほどに乱暴に鍵をあけ、そのまま一目散に外へ飛び出したのである。そして一瞬も休むことなく、路上をただ疾走しているのだった。

 これほどに怪しい男が、警官やパトカーに出くわさず、通行人や町の住民に通報もされずに、あっさりと目的地にたどり着いたのは奇跡のようだった。なにかの神秘の力が働き、邪魔ものをよけているようですらあった。

 さらに不気味なのは、彼が迷うことなく到着したにもかかわらず、そこまでのルートを事前に全く覚えていなかったことだ。彼は自分でも知らない道を確実に走ったのだ。その行動、顔つきからして、彼は明らかに何者かに操られていた。



 そこは、彼——霧島譲葉(きりしま ゆずは)——が、その日の午後に仕事で一度だけ訪れた古いマンションだった。七階建てで、それなりの規模だが管理人は常駐しておらず、まして今は真夜中なので人の姿はない。

 彼は昼間と同じく、敷地の奥にある赤茶けた鉄の螺旋階段まで行くと、カンカンと派手に音を響かせて一気に駆け上がっていった。住人に気づかれようが知ったことではない。今の彼に理性は全くなく、己のすべきことは、ただこの階段を上がり、最上階まで行くことだった。

 七階が近づくと、長距離の失踪でさすがに疲れたのか、ほとんど這って進んだ。最上階に着いたが、まだ上がある。階段は屋上まで続いているが、その先は鉄格子の柵でふさがっていた。

 危険だから誰も上がれないようにしてあるのだが、彼にとって、そんなものはなんでもなかった。ただ狂ったように飛びつき、柵の隙間に足の指をかけて這い上がり、向こうへ飛び降りる。鉄格子のあちこちに痛々しい血がついたが、気にもしない。ついに屋上へ着いた。


 疲れ果てて膝をついて進むと、目先に誰かが立っている。譲葉(ゆずは)は顔をあげて相手を認め、なぜかうっすらと笑みを浮かべた。そこにいるその少女こそ、彼をここへ呼んだ超自然の存在だった。

 今夜は満月で明るいはずだが、そこそこ拾い屋上の真ん中に立つ彼女は、形だけは両おさげの幼女にもかかわらず、その全てが墨を塗ったくったようにどす黒い。その輪郭の中で、ただ二つの細い目だけが鈍く緑色に光っている。

 譲葉は立ち上がり、そのままふらふらと屋上の端に行った。柵もなにもない。数十メートル下は硬い地面だ。落ちたら確実に死ぬ。それこそが、少女の思惑だった。


 ところが、端から身を投げようとしたそのとき、横から何かがぴゅっと空を切った。首筋にそれが当たり、彼は背後へ倒れた。物陰から出てきたのは、夕方に譲葉と出会った、あの女装の少年だった。ピンクの花柄の髪留めに黒のセーラー服、黒ズボンにローファーと同じ格好だが、その口に細く短いものをあてている。吹き矢の筒だった。譲葉の首に特製の矢を射ち、気絶させたのである。

 彼は筒を下ろすと、少女を冷たい目で見つめて言った。

「やっぱり、君か」


「お、お、ま、え」

 少女は、けもののようなダミ声でうめくように言い、緑の目が見開くように丸くなった。

「あそこでも、君を止められなかった」と上目でにらむ少年。「なぜなら、君の最後の場所は、あそこではなかったからだ……」

「じゃ、ま、スルナアアー!」

 叫びと共に影が数倍にも膨れあがったが、彼が吹き矢をくわえると、屋上の端から滑るようにさっと消えた。




「お……おれは、いったい……」

 不意の声に少年が見れば、正気を取り戻した譲葉がいた。白い月光を浴びて座り込み、自分の血まみれの両手を、呆然と見つめていた。

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