第二話 シートの黒い影(五)
「ほんとのこと言わなくて、よかったのか?」
車のハンドルを切りながら譲葉が聞くと、闇介は窓の外に目を向け、流れる街並みを眺めて言った。
「今日みたいな、とんでもなくたちが悪いのは、まずいないから。ふつう、あのたぐいの影は小指より小さくて、人を操っても大したことない。イラつかせたり、うっかり暴言を吐かせるとか、そんな程度だし。それも、終わるとすぐ消えちゃうし。まあ大丈夫だよ」
「でも、近くにいたあいつらを、無意識にせよ、あの子が呼んで、バンに乗せたわけだろ? あの子が自分で気づいたように、言っちゃ悪いが、彼のせいでああなったんだ。それを教えないでいいのか?」
「わざわざ知らなくていいよ、そんなこと」
「相変わらず優しすぎるな、お前は」とため息。
「譲葉だって、人のこと言えないよ?」
「は?」
いぶかる相棒に、意味ありげな流し目を向ける闇介。
「あのときぼくが、どうやって憑依から逃れたと思う?」
「それは、おまえが何か技でも使ったんだろ?」
「いいや」と首を振る。「あの影は最悪だって言ったろ? ぼくでも無理だった。やられて、しばらくは何もできなかったよ」
「じゃあ、どうして……」
「頭の中が恨みと怒りでいっぱいになって動けないときに、ふと君の顔が浮かんだんだ。とたんに、すーっと気が楽になって、手足が自由に動いた。あとは、見たとおりさ」
これには譲葉も驚いた。
「な、なんで俺なんかが?」
「あの影は、負の感情に呼ばれて集まり、そこにいる人間の体内に入って、心の奥にひそむ闇の部分を増幅させる。ぼくも立派な陰キャだから、入られて、たちまちマイナスの感情が爆発した。自分が最悪の社会不適合のゴミだと思い込み、譲葉に酷いことを言った。本当に悪かったよ」
「いいよ、みんな影が悪いんだし、それは仕方ないことだ」
「でも、そうやって落ち込むうちに、譲葉のことを思い出した。周りの誰もがぼくを白い目で見て避けても、譲葉だけはぼくをまっすぐに見て、ひとりの人間として扱ってくれる。世界がどんなに闇でも、君だけは、ぼくにとって光だったのさ。それに気づいた瞬間、影の力はたちまち消えてなくなり、ぼくは解放された。
そういうわけで、ぼくは君のおかげで助かったってわけ。本当にありがとう、譲葉」と、彼に頭を下げる。
譲葉は、かーっとまっかになり、危うくハンドルを切りそこねかけた。腰を浮かせて笑う闇介。
「おいおい、ここで死んだら元も子もないよ? 今日はまだ一件あるんだから」
「あ、ああ、そうだったな。ったく」と赤信号で停まる。「やっぱ、一日に三つはきついな。営業なら、そのくらいはやるが――なんだよ」
「ううん、なにも」と、視線をそらして外に向ける。その口元はうっとりと微笑んでいる。「君の顔も赤信号だなー、と思って」
苦笑してため息をつく譲葉。茶化されたせいか、照れは薄れた。
「じゃあ、ビビらして真っ蒼にしてくれよ」と冗談で返す。「でなきゃ、このまま発進できないぞ?」
「なに、もっと怖がりたい?」
少年は口元を悪魔っぽく吊り上げて言った。
「いいよ、それは次の現場でね」(「第二話 シートの黒い影」終)