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海辺にポツンと佇む一軒家、先日亡くなった叔父一真の作業場兼自宅に来て2日目、碧は少しながらも遺品の整理を進めていた。
蟻塚の一つは片付いただろうか。それだけでも風の通りがよく、わずかながら明かりも差し込んできたようだ。
自宅周辺は防風林があるだけで、お隣さんは見える距離にない。初日は駅前のビジネスホテルに泊まったが、毎日通うとなると、ただいま休職中の碧にとって時間もお金ももったいない。よって今日からはここに寝泊まりしようと奮闘しているのだが。
「叔父さん、溜め込み過ぎ!」
裏口から海に向かって叫んでみる。ここでは人目が一切ない。叫び放題だ。碧はひと通り声を荒げるとすっきりして、一冊のノートをめくった。
『5月30日(木)曇り
今日、翠が帰って行った。今年こそは箸の使い方を覚えてもらおうと思ったがダメだった。まぁ、皿ごとかじらなくなったから進歩か』
「皿ごと?!」
癖のある一真の筆跡だった。
3年前の年号が書かれたそれは、昨日碧がひっくり返した蟻塚のひとつから出てきたものだ。その中には無数の珊瑚やサメの写真が挟まれていて、それが土台となっていたからか、絶妙なバランスで保たれていた蟻塚は見事に崩れ落ちて散乱した。幸いだったのは他の蟻塚には累が及ばなかったこと。差出人別に書類を仕分けした先に出てきたそれは、一真の日記のようだった。
『でも、箸は金属製にしないと危うい。とにかく陸に上がっている間はアレコレもっと教え込まないといけないな』
叔父が変わった人物だということは世間で認知されていた通りだと理解は出来る。だが、碧の認識の上を行く一真の人物像にますます謎が深まっていった。
『5月29日(水)曇り時々晴れ
今日は料理をしてみたいと言ったので、カレーを一緒に作った。味はわかっているんだか、とにかくよく食べる。それよりも怖いのは、翠は痛みに本当に鈍いってことだ。気をつけないと指を食べる羽目になりそうだ。そういえば、いつだったか、破片を踏んだのにも気づかないで家まで来たことがあったな。あの時は事件だと思われて翌日警官が来てえらい目に遭った。それにしても、あれだけ出血したのにもう治っているって、やっぱり翠は特別なんだな。でも、救急箱は揃えておくことに越したことはないな』
『5月28日(火)晴れ
今日は昨日のことがあるので家でおとなしくしていた。こないだセブで買ってきた調味料のラベルを、翠がすらすら訳してくれたので驚いた。日本以外のも混じっているのはわかるが、まさか英語以外も話せるとは驚きだ。いや、今更驚きもへったくれもないか。とりあえずは英語、韓国語、中国語、タイ語とベトナム語、タガログ語が話せるらしい。まぁ行動域がその辺だと言うし、ソロモンあたりの現地の言葉もわかるんじゃないだろうか。羨ましい』
『5月27日(月)晴れ時々曇
とりあえず猫と勘違いされてよかった。確かに初めて見たときは『呪われた村』の子供みたいでやばいと思ったが、まぁ、今も慣れないが名前の通り翡翠だと思えば奇麗だし、怖くは、、、なくないな。それより、あの子供、最近引っ越してきたと言っていた。また会うようなことがないように気を付けないと』
『5月26日(日)晴れ
今日は釣りをした。してみたいと言われたときは思わず吹いたが、結局一匹も釣れなかった。そりゃあ翠がいれば魚なんて逃げ出すだろう。さもあらん。それより最近この辺をうろつくやつがいる。まぁ、それを教えてくれたのは翠だが、気を付けないと。翠は本当に夜目が利く。音にも敏感だし、防犯にはいいか?』
『5月25日(土)晴れ
今年の事始めは自転車だ。去年乗ってみたいと言っていたらしいが、本当か?(去年の日記に書いてあった。すまん、翠)記憶力恐るべしだな。でも、深夜に自転車はかなり難しい。車の通りがほぼないから練習するにはもってこいだが、あんな暗闇で翠はよく乗れる。というか、あんなにすぐ乗りこなすなんて、運動神経は人並みなのは今でも驚く。気が付いたら明け方までやってた。俺も夜型だからいいが、翠は本当に元気だ。前から思っていたが何歳になるんだ?俺だけが老けていて悔しい。まぁ、夜にしか動けないんだから似たようなものか。それよりも、翠は去年、ダイバーに遭遇したそうだ。グレートバリアリーフあたりか?自分が行ったときはいなかったくせに、そのダイバーが羨ましい』
『5月24日(金)曇りのち晴れ
翠が来た。数えてみたら今年で15年だ。さすがに勝手知ったるで、シャワーまで浴びて待っていてくれたのには驚いた。今年は月食も重なってか、潮の流れが近くまで及んだらしい。陸に上がったら家が目の前だったから楽だったと。それにしても冷蔵庫はすっからかんだし、箸は全部折れ曲がっているしで、色んなことを吸収するくせに、箸の使い方は覚えられないってどういうことだ?今年こそは覚えてもらうぞ』
『5月23日(木)曇り
西側の浜辺で珊瑚の産卵が始まったらしい。もうそろそろ来るか?でも、明日は夜まで仕事だ。念のため食べ物を入れておく。今回は何を言い出すやら楽しみだ』
碧はそこでノートを無造作にめくり、ひと息ついた。
「翠って人、何者?!」
思わず叫ぶ。彼女の頭の中は今や疑問だらけ。
「皿ごと?血だらけ?子供……じゃないし、何?!」
再びノートを開き、今度は日付順に読み返す。それでも益々頭の中は疑問符だらけで、その謎に興味が湧いた。
「他の蟻塚も早いところ壊さなくちゃならないよね……」
後ろを振り返り、隆々とそびえ立つ蟻塚群を見てため息を漏らした。だが、好奇心の方が上回る。
そこへクラクションが鳴り響く。
表で澄子が手を振っていた。
「こんにちは」