夜明けのショコラ
*
『ねえ、太陽の出てる時間と月の出てる時間はどっちが長いの?』
『それはお前、決まってんだろうが。そんなこと聞いたら朝のカミサマと夜のカミサマに怒られるぞ』
『ぼく、夜のカミサマに会いたいな。そしたらこうやってお願いするんだ。世界に朝が来ませんようにって。いいでしょう?』
『まったく分かってねぇな、人間は。いいか、目覚めるために朝はあるんだ。昨日の自分から解放されるために、昨日の自分の屍を越えて今日の自分をつくるために朝があるんだ。
自然は本来平等に出来ているもんなんだよ。不平等にしているのは人の心だけ。捕らわれているだけなんだよ、自分たちでつくったルールとかいうやつに』
*
「なぁ、夜の大王、俺もうそろそろ家に戻っていいか?」
雲の上の艶々しく光る真っ黒な城で俺は大王の前に座って問う。夜の大王は足を組みなおした。
「帰ってどうするのだ。どうせあいつはお前が帰ってきたことに気づかないだろう」
俺は笑って大王を見上げる。
「まぁな。家に帰るって言ってもさ、あいつはもう二十二になるから俺を押入れに仕舞い込んだまま、俺がいなくなったことさえ気づいてないんだ。けど、帰るなら今しかねぇ。あいつが寂しがってる声が聞こえるんだよ」
「どうしてあいつにそんなに忠実になる? お前はわたしにだってそんな忠誠心を持ったことなどないくせに」
低く深い闇を伴った声で大王は言う。「それって皮肉?」と俺は笑って続ける。
「まぁ、そりゃあさ、あいつにはひどいことされたよ。しっぽちぎられたり、泥つけられたり。でもそれはさ、俺を中学三年生のときまで常にカバンにしのばせて遊んでくれたからなんだよ。しっぽのない黒猫なんか聞いたことないけどさ、俺はすごく誇らしかったんだ。あいつ、最近浮き沈みが激しいんだよ。最近やっとちゃんと生きていけてたのにさ。やっぱり俺が行かなきゃいけないみたいなんだ。まったく世話のかかるやつだよ、あいつは。けど、あいつはやさしいやつなんだ。ちょっと人より繊細で、引っ込み思案で、挙動不審で、自己顕示欲が強いかと思えば社会性の欠片もなくて、甘えたがりで、人付き合いが苦手で、でも寂しがりなだけで。だから帰ってあいつに話をしたいんだよ。いいだろう? この俺が大王のもとで一晩も休まずに働いてるんだぜ? 俺はもう充分夜を操れるようになった。やろうと思えばいつでもあいつのために夜を長くしてやれる」
そう言うや、大王は俺を鋭く睨みつけた。
「お前、それは世界の秩序を壊す神の掟に違反する行為だ。今世界は均衡で保たれている。光の神と影の神はその均衡を保ちながら今をつくっているのだ。もし夜を長くなどしたらまた朝の大王に始末書をかかねばならない」
溜息混じりに話す大王ににやりと笑い返した。
「はは、大王も弱腰だな。またってことは前例もあるんだろ。そういう『奇蹟』がこの世でたびたび起こっていることくらい俺だって知ってるんだから」
「まぁ、ともかくだ。あいつのもとに行くのか? もう戻ってはこないのか?」
「そう寂しがるなよ、大王。あいつが一人で、いや誰かと生きていけるような強いやつになったら、俺はまたここで夜の使者として働くよ。俺ならあと百年もあれば王子くらいにはなれる。五百年後は大王と世代交代だ。だから大王、お願いだ。やつのもとにいかせてくれ」
俺はそこで頭を深く下げてお願いをした。すると。夜の大王は大胆不敵に笑った。
「そこまで言うなら行ってこい。その代わり、その大事な主人への説教も含めて上からぜんぶ見ててやるよ」
二月六日、ぼくは今、多分もう出会うことはないだろう人生の絶頂期にいる。
悪いな、全国の独り身の男たち、ぼくは一足先に春を満喫する。別にいいだろう? 二十二年目、はじめての春の到来なんだ。
そろそろ時計の長針が日をまたごうかという時刻、帰りの電車のドア付近に姿勢よく立ち、両手で抱えたピンクの紙袋をみつめる。
ふふっと笑みをこぼし、車窓から外を眺める。自分のにやついた顔が暗がりに浮かんでいる。普段は自分の顔など見たくもないのに、今日はちらちらと窓ガラスに映る自分の姿を視界に入れる。
心なしか体が温かい。心臓が普段よりも小刻みに動いているのが分かる。可愛らしいその紙袋に顔をうずめた。甘ったるいチョコレートのにおいが鼻先にまとわりつく。
駅に電車が入りドアが開くと、長いすの端に座っていたおばあさんが肩をとんとんと叩いてきた。
「席ありがとうね、お兄さん。助かったわ」
「あ、いえ……」
普段は使わない顔の筋肉を使い、笑顔でおばあさんを見送った。
その後も何度も今日あった出来事を反芻する。そのたびに口元が緩む。
今日は大好きなヒナタちゃんにクッキーをもらった。しかも手作りだ。
ヒナタちゃんとは海外の輸入品を扱う雑貨屋のアルバイトで出会った。本当は大学と家の中間地点、乗り継ぎの駅構内で本屋のバイトをするつもりだった。
昔から漫画は好きだし、小学生のころは自分で漫画を書き、それを誰にも見せずに楽しんでいた。そこで乗り継ぎの駅構内と駅周辺の本屋に片っ端から電話をし面接を受けたのだが、なんとすべてに落ちてしまったのだ。募集人数制限なしと書かれた巨大書店でさえ落ちたのはぼくをさらに憂鬱にさせた。
〈赤星美月くん、志望動機は?〉
〈あ、えっと……もともと本が好きで、その……でも小さな本屋ってあまりマイナーなところからの出版物は置いていなくて、ぼくはその……ここはそういう本も置いていて、お客様のことを考えているというか……〉
〈ふうん、赤星くんは大学ではなにかやってるの? 履歴書のここ、空欄になってるけど〉
〈あ、えっと別に……〉
〈じゃあ今大学三年生でしょ? 今までバイトはやってこなかったの?〉
〈ああ、そう……ですね〉
〈なんで?〉
〈本当はその……働きたくなかったんですが、でもそろそろ社会経験をして働かなくちゃいけないと思って……〉
〈じゃあ将来書店関係に就きたいとか考えてるの?〉
〈あ、いやそういうわけでも……〉
その面接の帰り、ふらっと寄ったのが海外雑貨の店、『ケルディ』だった。そこに当時新人バイトとして入っていたヒナタちゃんが店に入ったぼくにすかさず「よろしかったらどうぞ」と、笑顔で紙コップに入ったコーヒーを渡してくれた。コーヒーのおいしさとヒナタちゃんの初々しい笑顔にぼくは泣きそうになったのを今でもしっかりと覚えている。
ぼくはそれで『ケルディ』でバイトしようと決めたのだ。
当時、『ケルディ』は人手不足でこんなぼくでも今までが嘘かと思うほどあっけなく雇ってくれた。初出勤早々、ヒナタちゃんにあなたからコーヒーをもらったことがあると言ったら「へえ、そうですか」と苦笑いされた。
そのあと、ちょっとでしゃばりすぎたと家で猛烈に反省したのもよく憶えている。
ヒナタちゃんは二十二のぼくより二つ年下の小さなマスコットのような女の子だ。茶色い髪をポニーテールにしていて、いつも左耳にたんぽぽみたいなピアスをしている。背は低いが読者モデルだと言われれば素直に納得するほどおしゃれに気を遣っているのがおしゃれでないぼくでもわかる。いつもマニキュアの色が微妙に違うからだ。似たような色をたくさん持っていてそれを塗り分けているということはおしゃれに気を遣っていないとできない。
それにヒナタちゃんは誰にでも明るく笑顔だ。中高と友だちのいなかったぼくは誰かに笑顔を向けられることがなかった。一言話しても二言目が続くことはなかった。
ぼくはいわゆる『クラスに一人はいるちょっと暗くて近寄りがたいやつ』で、自分では普通にやっていることをよく周りから笑われる、そういう類の人間だった。
だが、ヒナタちゃんはこんなぼくにも笑ってくれる。話しかけてくれる。ただ、自分にそれほど自信がないようで褒め言葉をかけてもそれを言葉通りには受け取ってくれない。でもそういうところがぼくは好きだった。
好きなところはあげたらきりがない。でももうひとつ挙げるとすれば、ヒナタちゃんの親指は綺麗に外側に反れているところだ。骨自体が変形しているのかもしれない。
ある日バイトが一緒になったときにその親指をじっと見つめていると、昔小中学校のときに野球をやっていたことを話してくれた。中学時代、部活動でピッチャーをやっていて、魔球を投げたくて小さい頃から自己流でいろんなボールを投げていたからだと言って顔を赤らめ、親指を隠した。「赤星くんにだけ言うけど恥ずかしいからみんなには言わないでね」と言いながら。
ぼくは、そういうヒナタちゃんに惹かれた。
二月六日の今日、いっしょにバイトに入り締めの作業が終わったときだった。
「赤星さんって背、高いんですね」
感心したようにぼくを見上げる。
「え、いや……いやいやいや」
「いいですね、それに細いし。うらやましい」
「ああの、あれだよ、比留間くんのほうが高いんじゃないかな」
声が上ずってしまった。何度か咳をして喉の調子が悪いことにする。
「えー、赤星さんも高いですよ! 比留間くんとどっちのほうが高いですか?」
比留間くんはぼくよりひとつ下のバイト仲間だ。男からみてもうらやましいくらいの男前だ。
「ん……ぼくのほうが少し高いかもしれない」
「確か比留間くんが百七十八あるから、じゃあ赤星さんは百八十以上あるってことですよね? すごい、いいなぁ」
ちょっと待て、なぜヒナタちゃんは比留間くんの身長をそんなに詳しく知っているんだ?
「ね、ちょっと来てください。ほらほら、わたしとこんなに違いますよ」
ぼくの動揺もお構いなしにすぐ近くにヒナタちゃんが寄ってきて背を比べはじめた。その近さに一瞬にして体が硬くなる。ヒナタちゃんは口に笑みを含んで言った。
「いいですね。わたしなんか百五十しかないので」
「いや、あの、ほら、女の子はそのくらいのほうがいろいろ気にしなくていいんじゃない」
「いろいろ?」
「うん、あ、なんか彼氏より大きいと嫌とかよく聞くし……」
「あ、そうかもしれないですね」
恥ずかしすぎてこれ以上はいっしょの空間にいられない、とぼくの体が叫んでいた。慌てて店の鍵をとる。
「じゃ、じゃあ帰りますか」
「そうですね。あ、次はいついっしょですかね?」
「え、あ、いつだろう。来週の土曜日かな、た、たぶん」
いつもヒナタちゃんとのバイトの日はチェックしている。来週の土曜日、十五時で間違いない。
そんなことを話しているとすぐにロッカーについてしまった。ロッカーは店の奥、同じビルのフロアの奥側にあり、男女別に二部屋ある。
「あの、時間ありますか」
「え、うん、別に急がないけど」
「じゃあちょっと待っててください」
そう言ってヒナタちゃんはロッカー室へ入っていった。そわそわとロッカー室の前で待つ。こんなに待たせられるとあらぬ期待ばかりしてしまう。ぼくは自分の理想的な展開の妄想をなんとか追い払うことで必死だった。
「お待たせしました。あのこれよかったらどうぞ」
「え、なに?」
「フォンダンショコラです。つくってみました。あの……おいしくないかもしれないんですけど」
「え、いいの?」
「はい、お菓子作りは趣味なんです。来週のためにちょっと試作品でつくってみたんですけど……男の人の口に合うかどうか知りたくて」
「すごい……」
ヒナタちゃんの声にかぶせてぼくが言うとヒナタちゃんは照れるように笑った。
「あの、赤星さん甘いのすきって聞いたことあったから、よかったら……」
「あああ、はい、はいっ」
感動で手から滑らせそうになる。
「ほんとですか? もしあれだったら捨ててもいいので」
「え、いやそんな……もらいますもらいます」
早口に口走るとヒナタちゃんは安心したように笑った。
「よかった。じゃあ今度バイトいっしょのときに感想教えてください」
「はい、あっあっ……あり……あっ……」
「じゃあお疲れさまです」
ぼくがどもっている音にかぶせて挨拶をし、ロッカー室の番号を早打ちしてドアを開けた。
「あ、お疲れさま。気、気をつけて」
「はい、おやすみなさい」
ヒナタちゃんはそう笑ってロッカー室へ入っていった。ぼくはあっけにとられ、あわてて声を返す。
「あ、うん、お、おやすみ……」
我に帰って歪んでいた口元を抑える。斜め前に座っている大学生らしき金髪の女二人がこちらをみて笑っている。ぼくは居ても立ってもいられなくなり車両を変えることにした。
幾度となく反芻する記憶。何度でも熱くなれる顔と心臓。
そうなのだ、ヒナタちゃんは誰にでもやさしい。こんなぼくにでも怖いくらいやさしい。
ぼくなんかに手作りのフォンダンショコラを……ちょっと期待してしまうじゃないか。
〈はい、お菓子作りは趣味なんです。来週のためにちょっと試作品でつくってみたんですけど……男の人の口に合うかどうか知りたくて〉
〈あの、赤星さん甘いのすきって聞いたことあったから、よかったら……〉
来週のために、ということはもしかしなくてもバレンタインの試作品だよな。バレンタインぼくにチョコをくれるのかな、期待してていいのかな。どうしよう、うれしい。
「ふふふふふ」
すると、また移った車両でも女子高生に横目で見られた。自分がいかに舞い上がっているか、自分ではよく分からない。とにかくうれしくてたまらない。こういう感情ははじめてなのだ。
顔を片手で叩いて深呼吸をする。深呼吸をすると少し気持ちが落ち着いてきた。また、こんな自分が相手にされるわけがない、という意識がぶりかえしてくる。
そういえば、せっかくショコラをもらったのにお礼を言い忘れた。ヒナタちゃん気分を悪くしただろうか。あそこでちゃんと言うべきだった。だめだ……きっと比留間くんならうまく言えるのに。こういうときにさらっとうまく返せるのに。
ぼくはまた悲しくなる。
ぼくは低温多湿、暗がりを好む生物だ。
部屋の隅には無数の毒キノコが生えている。掃除機はほとんどかけたことがない。
窓も開けない。換気もしない。そういう部屋でぼくは育ち、いまも生きている。
だから肌は真っ白。よく小学校のときにモヤシとかカイワレと言われた。今は自分の肌が白すぎてタンクトップも半ズボンも履けない。
どうして太陽がダメなのか。
それは世の中が煩わしいから。
なにかガヤガヤと騒がしくて、楽しく振る舞わなくちゃならない気がして、疲れるから。
同年代のように楽しそうに振舞えない。コンパや合コンや飲み会なんてもってのほか。そういう雰囲気に抵抗がある。ついていけない。それなら家で一人、日本酒でも飲んでいたほうがよっぽどいい。
一年前の就職活動の時期には、ある企業の面接官の一人に「君は怯えすぎだ、面接を受ける前にその挙動不審をなんとかしなさい」と指摘された。他の面接官にも「人の眼を見て話すことを覚えていないのは話にならない」と言われた。そこでぼくは折れてしまった。数をこなせば、というレベルの話ではない。決定的にぼくには社会性が欠けている。そう気づいてしまった。それ以来、就職活動はしていない。
知っている。
この世界は明るくてコミュニケーションのある、そしてなおかつ頭のいい奴が勝つように出来ているんだ。そういう奴とぼくはこれから先死ぬまで対比され続けていくんだ。いつか道でばったり出会った友人に、「あいつは出来るから立派な社会人になっているけど、お前は要領が悪くてだめだからフリーターなんてやっているんだ」とか言われながら生活することになるんだ。
しかし、フリーターの何が悪いのだろう。生きるために何時間も働いている。保険も保障もないまま、それでもがんばって働いているのにも関わらず、それではだめだと言われる。
ぼくは知っている。
だから部屋に籠もることにしたんだ。太陽の出ているうちは家を出ないことに決めたんだ。
夜が好きだったのは幼稚園の頃からだった。昼間は幼稚園のガヤガヤしたなかで過ごさなくてはいけない。先生にはうまく甘えられない。かと言ってみんながいる砂場には入っていけない。幼稚園児ながらなんでこんなところにいるのだろうと不思議に思っていた。早く夜になればいいのに。ずっとずっと夜だったらいいのに、と思っていた。
夜は寂しい。
けれど光はもっと怖い。ぼくは幼稚園の頃からすでに光の怖さを知っていた。
終点で電車を降り改札を出る。見上げた空は灰色をしていた。明日にでも雪が降るような空だった。冷気がひっそりと取り囲んできたが、体は驚くほど熱を帯びていた。
バイトのため、一週間ぶりに電車に乗り日も暮れかかった頃神田駅へ向った。今日はちょうどヒナタちゃんと一緒に入る日だ。ヒナタちゃんと入る日は洋服もそれなりに気にする。気分もそれなりにあがる。そして何かヘマをやらかさないか少し緊張する。
女の子にはなれていない。扱いが慣れるとか慣れないとかいう前に女の子を「扱う」ということさえ今までしたことがない。男子校だったからとかいう単純な理由ではなくて、たぶん自分なんかが相手にされるわけがないと思い込んでいたからだと思う。だからどんなことでも大抵は受身だ。
いっしょの時間に出勤し、すぐに一週間前のお礼を言ったらヒナタちゃんは照れて「みんなには内緒にしてください」と笑った。ぼくはぼくでみんなに言いふらしたかったけど、ヒナタちゃんが内緒にしてほしい気も分かるし、二人の秘密もいいものだと思ったから、そのまま黙って作業をはじめた。
忙しく時間が過ぎ去りすぐに店を閉める時間になった。レジ締めの作業をもくもくとしていたところに、たな卸しをしているヒナタちゃんが時計を見ながら話しかけてきた。
「今日は二月十三日ですか」
「あ、うん。そうだね」
気づかないふりをして返す。
「もう今日も終わっちゃいますね……」
しみじみというヒナタちゃんに腕時計をみて言った。
「あ、時間大丈夫? もう十一時過ぎるけど……」
「わたしは平気です。今日忙しかったですもんね。やっぱりお菓子関係は売れますね」
「あ、ああ、そうだね」
お菓子、ということばがリフレインする。しかし、自分からバレンタインの話を持ち出すと、なんだか欲しいとせがんでいるようで格好悪いので言わないでおいた。
しばらく作業の音だけが店内に響く。ぼくが咳をする音、ヒナタちゃんが商品を数えながら整理する音。作業の音だけが響いている。何か適当な、わざとらしくない言葉を探していると、思い出したようにヒナタちゃんがまた口を開いた。
「赤星さん、最近バイトあんまり入ってないですよね? やっぱり忙しいんですか」
「いや、忙しくないよ」
「本当ですか? なんかすごく疲れている顔してますよ」
眉を寄せて視線を向けてきた。すぐに手足に力が入らなくなる。意識してボールペンを持ち直した。
「ん……強いて言えば、今月なんか月に四回しか入ってないからさすがにお金なくて厳しいけど」
ぼくは自嘲気味に答え、それにヒナタちゃんが考え込むようなポーズをとった。
「やっぱり就職、厳しいんですか? なんか出版関係に就きたいとか言ってましたけど……」
ヒナタちゃんのことばに、作業をしながら「ああ」と曖昧に返事をした。
「でももう今年卒業の人たちの求人は終わってるんだよね。まぁ、しばらくバイトしながら考えるよ」
また自嘲。
きっと、バイトのなかでぼくだけが進路の決まっていないということをみんな心配して、ぼくの情報がバイト内で共有されているのだろう。ヒナタちゃんにはなにがやりたいということは一言も話したことがない。ぼくは次の続く言葉が何もことばが浮かばなくてまた黙ってしまった。
「あ、明日、赤星さんバイト入ってるんですか」
気を遣ってなのか、ヒナタちゃんがまた突然話し出す。
「え、……は、入ってないよ。森山さんは?」
「入ってますよ。なぜか店長に入れさせられちゃったんです」
「可哀想に……」
「そんなことないですよ。家にいてもだらだらしちゃうだけですし」
ぼくはバレンタインのポップや宙吊り飾りを見つめる。
小さな雑貨店にヒナタちゃんと二人。しかも明日はバレンタイン。でもきっとチョコはもらえないんだろうな。もらえるとしたら明日バイトに入っている大学三年生の細身で長身で格好いい比留間くんのほうだろうな。だって二人はお似合いだ。悔しいくらいにお似合いなのだ。二人でゼクシィの雑誌のCMに出てもなんら違和感がない気がする。
ああ、だめだ。考えただけでまた気分が落ち込んできた。
「……赤星さん、明日何の日か知ってますか?」
一瞬、あたまがまっしろになってじっとヒナタちゃんを見つめ返した。ヒナタちゃんの意図が読めない。
「え? な、なんの日かって? そんな……」
一体なんなんだ、このふいうちは。素直にバレンタインて言えばいいのか? そんな分かりきったこと答えてどうする? いや、バレンタインを意識していると思われたくない。ここは意識しないフリ……いや、だめだ。こんな外国製のチョコやら飾り付けやらのあるなかで意識しないほうがおかしい。
「……赤星さん?」
「あ、ああ、知ってるよ」
ぼくは努めて冷静に返事をすると、ヒナタちゃんの顔がみるみる華開いていった。
「赤星さん、やっぱり知ってたんですね! 明日は比留間くんの誕生日だってこと」
ひ、比留間くん?
ぼくはしばらくヒナタちゃんを見つめた。ああ、そっか……やっぱりそうか、と妙に納得した。自分の荒れ狂ったこころが次第に穏やかになっていく。
どうして自分なんかが期待してしまっていたのだろう。
ヒナタちゃんとぼく? 完全に釣合わないじゃないか。中高でキモイ、ダサイ、トロイとささやかれてきたことくらい自分でも気づいている。期待が無意味だと初めから分かっているのに、どうしてぼくは今もこうやって期待してしまったんだろう。
比留間くんのほうが格好いい。比留間くんはモテて当たり前。だって比留間くんは甘い香水だってつけている。なんだか知らないブランドの紙袋をいつも持っている。頭をわざとくちゃくちゃにするワックスもつけてる。
ぼくごときが期待するなんて、本当にばかげていることなんだ。
「赤星さん、どうしました?」
「え? いや、ああ、うん、知ってた知ってた」
知っているふりを装って話を促した。ぼくはずっとレジと電卓を叩いている。明日の釣り銭準備金を作りながらヒナタちゃんのほうは見ない。
「それにしても比留間くん、バレンタインの日に誕生日なんてある意味可哀想ですよね」
比留間くんとバレンタインということばが刺さる。ぼくはさらに早くそして力強く電卓を叩き書類関係に書き込んでレジを締めた。
「まあ、そうだね」
「あ、そうだ。ちなみに赤星さん、うちの商品のお菓子のなかで何が好きですか」
ヒナタちゃんのほうを向くと、やさしい顔で首をかしげている。何を考えているのだろう。まったく分からない。
「え……そうだなぁ」
「男の人の好みと女の人の好みってやっぱりちょっと違うじゃないですか。だから男性的な視点でこれはおいしかったとか、これは好きだとかなんかあったら教えてください。今年はなにか作りたいんです」
ヒナタちゃんの顔をみる。そこで勘のいいぼくは〈気づいて〉しまった。これはぼくに比留間のチョコを選ばせようとしているのではないか?
でも、だからなんだ? 分厚い眼鏡にもさもさとした黒髪に高校生のときに買ったダウンジャケットじゃ話にならないじゃないか。なに嫉妬なんかしてるんだ。そう思うと胃のあたりにぽっかりとむなしさだけが残った。
「も……森山さんはどうなの?」
「わたしはそうだなぁ。ショコラとトリュフですかね。なかにいろいろ入ってるのがすきなんです。アルコール入ってるのもいいですね。ドイツとかノルウェー産のものがうちには多いですけど、やっぱりあんまり甘くない日本のチョコがなんだかんだ言っていちばんすきです。ほら、最近は抹茶味のボンボンショコラとかあるんですよ! でも、やっぱりつくるのはむずかしいですし、実際買ったほうがおいしいんですよね」
屈託のない笑顔を向けるヒナタちゃんが眩しかった。なにか、ひどく、苦しい。そう、それは不幸にもぼくが〈気づいて〉しまっているから。
「や、そんなことないよ。森山さんはお菓子作りうまいよ」
「でも……ふつう、男性に手作りって重くないですか?」
「別にそんなことないんじゃない?」
「じゃあ、赤星さんは好きなチョコとかあるんですか?」
無邪気に笑いかけるヒナタちゃんにぼくは醒めた感情をみつける。
「ぼくはクッキーとかマフィンとかより純粋なチョコのがすきかな。あとフォンダンショコラとか。あまったるいのが好きだから別にぼくに聞いても意味ないと思うけど」
気づくとヒナタちゃんが驚いた顔をしてこちらを見ていた。その顔をみて自分の言い方がきつくなりすぎていたことに気づく。
「あ……」
ここは謝ったほうがいい、いや謝らなくては。そう思えば思うほど言葉が出てこない。一瞬であるはずの時間がひどく長く感じられる。言いよどんでいるとヒナタちゃんがチョコレートの棚にあるひとつを手に取った。
「でも最近結構多いですよね、甘ったるいの好きな男性。じゃあ、このクーベルチュールでつくろうかな」
「ああ……」
「製菓用チョコとしてはいいみたいですし、市販の板チョコよりいいって聞きますし。じゃ、これで頑張ってフォンダンチョコラでもつくろうかな」
ヒナタちゃんがクーベルチュールチョコレートをとった。そこではっとした。
ああ、ぼくは馬鹿者だ。大真面目に自分の好みを話してしまった。比留間が食べるなら適当な、それかぼくの嫌いなマジパンの入っているチョコを勧めてやればよかった。
だが、生憎ぼくはそんなことが出来るほど器用な男ではない。
ぼくはまたヒナタちゃんの横に比留間を投影した。比留間とヒナタちゃんはつりあいすぎている。そう、おしゃれな二人は誰がどう見てもお似合いだから。そういう二人を見ると悲しくなるから。
別に嫌いじゃない比留間のことを、これから家のわら人形に五寸釘を刺して呪ってしまいそうだから。
もうそろそろバイトはやめよう。ほかに新しい、それこそ正社員登用してくれる場所をみつけてそこに入ろう。大学も卒業するというのにまだ就職先だって決まっていないのだし、そもそもそんな宙ぶらりんな男をヒナタちゃんが好きになってくれるはずがない。それにもう見てられない。
息をゆっくりと吐く。静まり返った店内はなんだか底冷えする。
苦しい。どうしよう、泣きそうだ。どうしたらいいんだろう。何なんだろう、この息苦しい感情は。吐きそうなくらいのこの感情は。
どうして好きなのにこんなに苦しいことばかりなんだ。人を好きになるってもっと楽しかったり嬉しかったりワクワクドキドキするものじゃないのか。
そうか、ぼくが暗いからなのかもしれない。比留間くんのように自分に自信があれば違うのかもしれない。そんな考えばかりが頭をよぎる。
ぼくは目の前にヒナタちゃんがいるのに、満足に受け答えも出来ないでいる。本当に情けない。
やっと閉店作業が終わり、退勤の打刻をしたのは十二時十分前だった。
「あの、こないだあげたフォンダンショコラ、本当に大丈夫でしたか?」
「え、ああ……うん」
「じゃあすみません。これ、売り上げに入れておいてください。また作ろうと思うので」
突然、ヒナタちゃんから突き出されたのはぼくの好きなフォンダンショコラをつくるクーベルチュール入りのお菓子キットと紙幣だった。
「ああ、うん。もうレジ締めちゃったから明日の売り上げに分けて入れておくよ」
「あ、そうですよね。すみません。面倒なことしてしまって。バイト中ずっと悩んでたらこんな時間になっちゃって……もっと早くから赤星さんに聞いておくべきでしたよね」
うつむくヒナタちゃんの頬がほんのり赤い。ぼくは目に光が消えていくのを感じた。吐き捨てるような衝動で乱暴に店の鍵をとる。
「別に。これも明日までの商品だしきっと喜ぶと思うよ。よかったね、いいもの選べて」
まただ、また嫌な言い方になっている。ヒナタちゃんが驚いた顔をして目の前に立っている。ぼくは自分に腹がたっていた。
「あ、あの……」
「なに? ほかにもなんか参考に聞きたいことでもあるの?」
だめだ、止まらない。
「いえ、そうではなくて、これ……」
「あのさ、急ぐから納金所のとこに鍵返しにいっておいてくれる? じゃあまたね」
止まらない。
「あ、あの赤星さん!」
ヒナタちゃんが呼び止める声を無視してぼくはロッカーに向った。身を翻すようになかば強引に振り切るように駆け足で向った。
なんかもう、年甲斐もなく、泣きそうだった。
世界でいちばん嫌いな曲がクリスマスの定番曲だとすれば、世界で二番目に嫌いなのは間違いなくバレンタインがモチーフになった曲になるだろう。
バレンタイン、ぼくの敵だ。敵め、左胸に向って引き金をひいてやる。さあ、日本から居なくなれ! そう、空を見上げながら叫びたくなった。
再び地面を見つめながら歩く。コンクリートの冷えた地面に鮮やかな色のチラシが落ちている。
黒髪ストレートのセーラー服を着た女性のカラー写真に惹かれてついつい拾い上げる。立ち止まって眼鏡をかけなおして文字を読んだ。「バレンタインの今日だけ特別一時間三千円、サービスサービス☆」と書かれている下のほうに電話番号が書いてある。ぼくはそれに運命の呪いを感じてそのチラシを放り投げた。終始ぼくを付け狙っている陰惨な神を背中に感じながら。
見上げた空は白く濁っていた。天気予報によれば、今日は雪が降るらしい。そういえばなんだか底冷えする。ジーパンを通して冷気の棘が刺さってくるのを感じる。それに気づくと、ふいに胸が締め付けられるような痛みに気づいた。
「ちょっと! そんなとこに突っ立ってたら邪魔だよ」
どすの利いた低い声が後ろから聞こえ、ぼくは慌てて身を翻す。
「あ、す、すみません」
ぼくは反射的にぺこぺことおじぎする。
「ここは道路なんだから」
「はい……すみませんでした」
ふん、と鼻息を鳴らしてそのオヤジは苔のような丈の短いジャンパーのポケットに手をねじ込ませ歩いていった。
そうか、ベンチに座らなくちゃ。ここでは立ち止まってはいけないんだ。
立ち止まってもいけないんだ。なんだよ、忙しない世の中だな。
もやもやと胃の辺りに漂っている絶望を背負いながら、ぼくは公園のなかの野球場前に静かにおいてあるベンチに腰を下ろした。
そう、分かっている。
自分は寂しいだけなのだ。
寂しいということを、毎年誰からも相手にされない一人だということを、改めて思い知らされるのが怖いだけなのだ。
寂しいから人は人を求める。しかもいちばん身近な人を求める。それを恋だと錯覚する。
だからかもしれない、ぼくがヒナタちゃんを好きなのは。
大学四年の二月はもうほとんどニートのようなものだ。講義もなく、かといって二月十四日の今日にバイトを入れる気にもなれなくて、結局バイト先のある神田から上野まで歩き、上の公園をふらふらと歩き、落ちていたキャバクラのチラシを拾ったら苔みたいなオヤジにすごまれ、仕方なくこうして寒々しいベンチに座っている。クビになったサラリーマンを演じているようだ。
実際、人生をクビになったような気分だけど。
午後十六時。空の色はさほど変わらない。黒い雲が灰色の空にまだら模様をつくって、その下で烏や鳩が家路に急ぐように群れて飛んでいく。冷気が指先と足先に絡みつく。振り払おうと手をこすると自分の手の冷たさに驚いた。まとわりついて離れてくれない冷気。
黒い雪の降ってきそうな空と枯れ木と絡み合うたくさんの男女。しかし、見上げた桜の木には蕾が出来ていた。
春はあまり好きじゃない。なにかがはじまってしまう予感がする。みんながスタートしていってしまう予感。自分だけがまた取り残される予感。また寂しい一人を過ごす予感。
ぼくはどうなっていくのだろう。これ以上親に迷惑はかけられない。かけられないが、社会に出ることが果たして今の自分にとっていちばんいいことなのか、疑問だった。
桜の木を見上げる。突然なにもかもが自分から遠ざかっていく気がした。「生き苦しい」と思っていると、無意識に息を止めている自分がいた。
早く帰ろう。外にいてもいいことなんてひとつもない。
ゆっくりとベンチから立つ。埃をはたいた尻が冷えていた。
西洋美術館から上野駅の改札まで歩くと信号のところで視界がひらける。坂を下りたところにキラキラと光る繁華街がある。パンダ橋から神田方面を見下ろした。
この先にヒナタちゃんがいる。時計は十六時を少し過ぎたところ。ちょうど今出勤か。ヒナタちゃんのいる空間に比留間くんと店長がいる。
ふと、ヒナタちゃんといつかのロッカー室の前でのやりとりを思い出す。
〈はい、おやすみなさい〉
〈お、おやすみ〉
「あああああああああああああ、もう!」
片手で目を抑えていつの間にか声を上げていた。道行く人がこちらを怪訝な顔で見つめてくる。ぼくは急いでうつむき、顔を抑えるように拭うしぐさをする。
ヒナタちゃんがすきになってからこんなことばかりだ。突然叫んだり、落ち込んだり、笑ったりする。それもぼくばっかり勝手に振り回されているんだ。恋愛はなんて理不尽で非合理的なんだろう。
冷たい空気を深く吸って遠くのほうを見つめた。煙草の吸いたくなる空気だ。そう思えば、ヒナタちゃんを意識しはじめてから煙草をよく吸うようになった。無意識に溜息の代わりをさせているのかもしれない。
遠くをぼんやりと見つめながら考える。
今日、ヒナタちゃんは比留間くんにぼく好みのチョコをあげる。比留間くんはぼく好みのチョコを食べるんだ。それならまだいいか。……なんだか腹黒いな。
無意識に溜息が出る。
あとで喫茶店でも入ろう。それにしてもどうしてこんなに苦しいばっかりなんだ? 別にヒナタちゃんにすきになってほしいなんて贅沢は言わない。ただ、自分が思いっきりすきになりたいだけなのに。自分を卑下する気持ちが勝ってうまくいかない。
自分を認めてあげないと人もすきになれないなんて、おかしな話だな。
ケータイをみた。画面の二月十四日、十六時十一分という文字がぼくを打ちのめした。
「……ふいうちかよ」
ケータイ電話に表示されるニュースを消す。画面設定で日付表示も消す。
どうしても比べてしまう。でもどうしようもない。そういう日なのだ。バレンタインっていうのは。ぼくにとっては耐える日なんだ。だってそうだろう? 独り身の男にほかになにができる?
パンダ橋から大人しく日比谷線に乗って実家のマンションに帰ると、なぜか玄関にまだ口の縛ってないたくさんのゴミ袋が五袋も置いてあった。
どうやら母さんが大掃除をはじめたらしい。母さんは普段掃除しないくせに、ある日突然家が汚いと叫んで一気に大掃除をするということを何度かやっている。気づいたら掃除するの、と言っていたが、その気づくまでに結構な時間がかかるらしい。そして気づいたら片っ端からやらないと気がすまないようだ。
ちょっと覗くと自分の洋服が入っている。高校生のときのジャージも入っていた。
「これまだ着るっつーの」
なにか他にもないかとがさがさとゴミ袋を漁っていると、奥のほうに黒猫のぬいぐるみがあった。
「夜!」
それがこの子の名前だった。おなかのなかにみゃーと鳴く声の機械が入っていてその機械を入れてマジックテープでおなかを止める。揺らすと鳴く黒猫のぬいぐるみだ。幼稚園のころよくこれで遊んでいた。うるさくて機械は捨ててしまったけど、愛着があって押入れにしまっていたのだ。
「かあさん! どうしたのこれ!」
ぼくは夜を持って廊下を走り、リビングにいるかあさんに駆け寄った。
「ちょっと! もしかして押入れまで片付けたの?」
すると、かあさんはなんでもないことのようにぼくを一瞥して自分の料理雑誌などを片付け始めた。
「掃除してたら押し入れにあったの。邪魔だから捨てようと思って」
「捨てんなよ! てか勝手に入ってくんなよ!」
「あんた、ほんっと内弁慶ね。外でもそんなふうに大声で話して内定の一個でももらってきなさいよ! 大学もおわるって言うのにだらだらだらだらして。かあさん呆れてものも言えないよ」
かあさんはいつも人の気も知らないで痛いところばかり突く。
「で、でもこれはゴミ袋に入れるもんじゃないだろ?」
すると、かあさんは大きくあからさまな溜息を吐いた。
「だってあんた、もう二十二でしょ? 二十二の男がそんな幼稚園のころのぬいぐるみ大事に持っておいてどうすんの? そんなんだからいつまでたっても彼女ができないのよ。今日だってバレンタインなのに……」
「うっさいな! 夜は大事なんだよ。とにかく勝手に入って勝手に捨てんな!」
ぼくはそう怒鳴り散らして自分の部屋のドアを勢いよく閉め、夜を抱えてベッドに寝ころんだ。大きく深呼吸する。
「夜をゴミ袋で捨てようとしたんだよ、かあさんは。最低だよね」
夜はちいさいころからのぼくの友だちだった。なぜか変なところで強がって誰にも甘えられなかったけど、それでも誰かと繋がりたくて、そうやっておもちゃ売り場をふらふらしていたときに出会ったのが夜だった。
その頃、男はみんなミニ四駆だとか、ヨーヨーだとか、ゲームボーイだとか言っている時期に、ぼくはおもちゃ屋のコロコロ鉛筆の隣にあったぬいぐるみのブースで、山積みになっている動物に埋もれていた夜を見つけた。なぜかこれだ、と思った。優柔不断のぼくがめずらしく迷わなかった。こいつは友だちになれる。山積みのぬいぐるみのいちばん下で押しつぶされていたこいつとなら友だちになれる、そう思ったのだ。
かあさんに買ってくれというのはさすがに恥ずかしくて、ぼくは毎日買っていた百円のヨーグルトキャンディを我慢してお金を貯めた。そうしてやっと夜を手に入れたのだった。そういう小学生時代だったから無論、生身のともだちは一人も居ない。
ベッドから時計をみると十八時になっていた。外はまだ灰色がかっている。これで夜がちゃんと来てくれるのだろうか。そういえば雪の降る日はあまり暗くならないな。夜が来てくれなきゃ困る。闇がやってこないと困る。ぼくの居場所が、本当にどこにもなくなってしまう。
痛いね、夜。
寂しいね、夜。
苦しいね、夜。
想像したくないのに想像しちゃうよ、夜。
どうしよう、夜。
ぼくだめだね、夜。
今日はバレンタインんだよ、夜。
今頃二人は……。
ぼくにはくれないよね……僕なんかにくれるわけないよね……
ですよね……
そのとき突然臍のほうから声が聞こえた。
「んなら、美月があげればいいんじゃないの?」
「な、なに!」
思わず、夜を放り投げる。すると、「いて」という低くしわがれた声が聞こえた。
「なに……」
「今度ブン投げたらただじゃおかねぇ」
「も、もしかして喋ってる?」
ベッドの上で後ずさる。人は未知のことに遭遇すると恐怖を感じるらしい。
「なぁ、美月はなんかあげないのか?」
「ぼ、ぼくが?」
「当たり前だ。俺はお前以外には話せない」
「そ、そうなの?」
「そうだ。なぁ、どうしてお前は待ってばかりいるんだ?」
瞳の半透明なボタンのような目がこちらを見つめている。
「だってバレンタインってのは、女の子が男の子にチョコを送って気持ちを伝えるっていう行事だよ。ぼく、男だし、ぼくからは……」
「なんで?」
「なんで、ってそういう決まりだからだよ」
夜はベッドの上にひょいっとのぼってシーツの隅に座り、憎らしげなほど顔をしかめた。
「あーやだやだ。決まりなら何でもしたがっちゃうわけ? 美月は昔からそういうとこあったもんね。決まりとか慣習とかを律儀に守る神経質なとこ」
「夜ってこういうキャラだったんだね」
夜の意外にも横暴な言動に戸惑う。
「美月、それは人間の悪いところだよ。慣習に縛られた人間の考え方だ」
「ど、どういうこと?」
「たとえば、ダーウィンの論も読まないで人類の祖先は猿だとか思っているのと同じだよ。今は小学生でも人類の祖先は猿だって知っている。それはそうやって言われているからだ。そういうことになっているから。慣習がそうさせているから。そうやって誰かに言われたことやそうであるべきことと鵜呑みにして、確かめもしないで生きていくのは結局、人間の作り出した慣習に縛られていることと同じだよ」
「なんかむずかしいね」
「バレンタインだけじゃない。俺の存在だってそうだ。ぬいぐるみが喋るなんて誰も信じない。慣習となってしまったバレンタインの行事はなんでもないことのように行うのに、人類の祖先も猿だってなんでもないことのように言うのに、俺のことは信じようとしないんだ。それも世界中の人が言うようになったら、それも信じることが普通になるんだろうけど。でも今大事なのは美月、きみが信じるかどうかだ。まず、ぼくの存在にはダーウィンの著書のように信じるべき書物がない。慣習もない。信じるか信じないかは美月次第だ」
「じゃ、じゃあ、信じるよ」
自分のぬいぐるみに恐縮するなんて初めてだ。
「それじゃあ本題に移るけど、バレンタインは女が男にチョコをあげるものっていう確固たる書物は、今はない。好きな人に気持ちを伝える日なのなら、美月、キミがあげてもいいはずじゃないか?」
「そうだけど……」
はっきりとものを言わないぼくに夜は舌打ちをする。
「美月、好きなら躊躇すんじゃねぇよ。好きなら好きって言えよ! されることを願うんじゃなくて、することを考えろ」
「……もう、変な猫だな」
「うっさいな」
ぼくがヒナタちゃんにチョコをあげる。確かに考えてもいなかった。そうか、そういうやり方もあるんだよな。ちまたで噂の逆チョコってやつだ。あまりやっている話は聞かないし、それに少しの抵抗がある。
「急に言われても……なんなんだよ? とりあえずなんで夜がしゃべってるんだ? そこから話してよ」
すると、夜は不敵に笑い胸を張った。
「俺は押入れに入れられてからずっとすることがなかった。だから夜の使者になってかえってきたんだ」
自然と眉間に皺が寄る。
「夜? お前はうちの夜だよ。ぼくがおもちゃ屋で買った黒猫のぬいぐるみだよ」
「俺は夜から舞い降りたばかりの夜の使者なんだ。お前が、夜が好きだって言ってたから夜の大王に仕えて夜の使者にしてもらったんだ。そしたら美月と話せるようにもなるって言ってたから」
頭を傾げる。考えて理解しようとしてみたが、思考が停止してしまった。
「なんだかよく分からないけど、じゃあためしに夜の時間を長くしてよ。今日は雪が降りそうで……全然暗くなってくれないんだ。もう朝も昼もいらないよ。朝が来たら一日が目覚めちゃう。みんなが目覚めて動き出して何かを始めて、ぼくはまた一人きりだ。本当に居場所が……」
今日が続くのも怖い。
ヒナタちゃんと比留間くんの一日が長引いてしまうのはやるせない。でも、明日が来るほうがもっとずっと怖い。「はじまってしまう」のが、怖い。
「じゃあ、わかった。お前がヒナタちゃんに気持ちを伝えたら夜を一日だけ、長くしてやるよ」
「え……そんなこと出来るの?」
「出来るさ。俺をなんだと思ってるんだよ? 夜の大王に仕えた夜の使者になった男だぜ?」
「は、はぁ……」
「だからさ、今日、これからヒナタちゃんに気持ちを伝えに行こう」
ぼくはひるんだ。
「ちょっと待ってよ。ぼ、ぼく、怖いよ。ヒナタちゃんに釣り合わないし」
「…………」
電気ストーブを強にして、ぼくはベッドの上で膝を抱えた。
「もう傷つきたくないんだ。痛いのは嫌なんだ。寒いのも嫌だ。それにぼくはもう、ヒナタちゃんに嫌われるような言い方をしてるんだ。もう完全に終わったんだよ、夜」
「ほほう、美月は自信がないんだな」
夜を見上げ、大きく頷いた。
「そりゃそうだよ。だって二十二にして初恋になるんだよ? アニメのキャラクターじゃなくて、ぬいぐるみじゃなくて、生身の人間に恋してんだよ? いつ嫌われるかそればっかり不安だよ。楽しい話なんて出来ないし、ヒナタちゃんは明るいし、世界が違いすぎるっていうか……」
しんと静まり返る部屋。加湿器のファンの音だけが世界を揺らす。きのこの生えるぼくの部屋。冷たい、部屋。
「……それじゃあもし、今世界が終わったらどうすんだ? ヒナタちゃんに思いを告げないで終わるのか?」
夜は低い声でぼそりと言った。余計に沈黙が重くなる。
「美月はヒナタちゃんのどこが好きなんだ?」
「……はじめてちゃんと面と向って話せる相手が出来たんだ。ヒナタちゃんはへだたりなく接してくれる唯一の人なんだ。一緒にいると楽しいんだ」
「ならよかったじゃねぇか」
「だから怖いよ」
「なぜ怖い?」
「……嫌われるから」
夜はふっと笑ってばーかと棒読みのセリフを吐いた。
「怖いのは期待してるからだろ? 好きになって欲しいからだろ? そんなん誰だって同じだよ。だけどどうしようもないのが恋愛なんだろ? だからさ、ヒナタちゃんと会えて良かった。そう言ってあげることが一番大事なんだよ」
「でも、隆文くんより溺杉くんより運動出来ないし頭悪いし体弱いし……」
ぼくはまた視線を落とす。
「ほら、また出たよ。人間は比べるの好きだよな。俺たちは比べないよ、夜の使者のときはな、夜は夜の仕事をして、それ自体に誇りを持っていたんだ」
「夜の仕事?」
「お前んちに夜を持ってくる仕事だ」
「えっ、だって地球が自転することによって夜が来るんでしょ?」
「お前はまた慣習かよ?」
「それが効率いいんだからいいでしょ」
「それじゃあ真実はいつになっても手に入らないぞ」
「真実ってなんだよ……」
「自分で考えたり悩んだり決めたりすることさ。比べたり、誰かの言うことを鵜呑みにしたりすんなって言いたいだけだ。比べることで生まれる感情なんて高が知れてる。比較して差異を見つけて楽しむのは快楽全般にいえることだ。そうしないと分からないんだよ、人間は。比較することをしなくなるようになるためには自分を強く持たなくちゃならない。美月には自信が圧倒的に足りない」
「……もう、なんなんだよ」
夜は急に押し黙った。
ぼくも黙る。
沈黙。
そして夜は言った。
「俺は美月のことを誰よりもよく知っているつもりだ。美月はちいさい頃から泣き虫でひ弱でわがままを言わないやさしい子だった。こんな俺を毎日デパートまで見に来てくれて、お金を貯めて買いに来てくれた。俺はそのとき本当に嬉しかった。この子の子どもになるんだ、ってすげー嬉しかった。美月は純粋で穢れがなくて穏やかな少年の心を持っている。それは誰にでも持てるもんじゃない。俺を大切にしてくれたように、今度は人間を、ヒナタちゃんを愛するべきだよ、美月。人間と向き合うのは傷つく。俺のようなぬいぐるみとみたいにはうまくいかないし、悔しかったり悲しかったり苦しかったりする。でも、その分、たくさんの人に愛されるようにもなれるんだ。俺一匹じゃなくて、もっともっと多くの人に愛されることも出来るんだ。美月、俺はお前なら大丈夫だと思っている。結果は分からんが、愛して欲しいと叫ぶだけじゃなくて、ちゃんと人を愛せる人間になれると思っている。ヒナタちゃんがそのきっかけをくれたなら、その気持ちをヒナタちゃんに伝えるべきだ。待っているばかりじゃなくて、愛して欲しいと言って泣くだけじゃなくて、自分から寄り添うべきなんだと思うよ」
「夜……」
「人間はまわりに認められて自己を勝ち取って生きる意味を考えていくんだ。そのためにはまず自分が自分を認めてやることだ」
「うん」
「よし、まずここでヒナタちゃんが好きだって言ってみろ」
「え、そんな、す……いやいや、言えないって」
「なんだよ、でかい声で言え!」
「……恥ずかしいよ」
「ちゃんと言え!」
「す、好きだよ!」
なかば自棄になって言った。
「よし、じゃあさっそくこれからそのチョコとやらを買いに行こうじゃないか」
夜はニヤリと笑って身を翻し、玄関に向った。
人を好きになるのは本当に怖い。
しかもその相手に気持ちを伝える。なんてむずかしいことなんだろう。思っていることをただ言えばいいだけなのに、背骨のほうに気持ちが引っ込んでなかなか声にならない。
だってこんなに人間がいるんだ。
ぼくが好きな相手がぼくを好きになってくれるわけなんかないじゃないか。だってそうだろう?
そんなのおかしい出来事じゃないか。
ぼくなんかを好きになってくれるはずがない。
そう思ってしまう。
ぼくなんか好きになってもいいことない。
比留間くんのほうがずっとかっこいい。
ぼくは日陰で生きればいいんだ。
比留間くんみたいになれないから。
比留間くんにはなれないから。
比べないのはむずかしい。
自分の意志を示すのはもっとむずかしい。
ぼくらは何かと比べたり競ったりしながら自己を確かめている。他人とのかかわりのなかで自分の存在に意味を見出している。自分は自分、そんなふうに割り切れる兵はこの世界にどれほどいるのだろう。比べて当たり前だ。ぼくはまだ、自分に自信が持てない。
「今なんか考えてただろ」
左脇に抱えられた夜が言った。
「別に。てか、夜を持って買い物行くの恥ずかしいんだけど」
「仕方ないだろ」
「こっちから通るぞ」
「や、そっちは!」
いつもは広い国道から駅に向っていた。
小学生の頃は通学路だった裏道の一軒に大きなシェパードを飼っている家があって、そこのシェパードがその家の前を通るたびに柵のすぐ近くまで来て毎回吼えられて、泣きながら裏道から帰っていた。その家の前を通るたびに今日は吼えられませんように、と祈りながら通っていたことを思い出す。
「なんだ? こっちのが空気がいいだろ。あっちは毛が汚れる」
「毛って……」
高校に入ってから、裏道はまったく通らなくなった。どうなっているだろうとその瓦屋根の家の前からゆっくりと庭を覗いた。
「あれ、いない……」
シェパードが、というよりもいつもあった赤い屋根のシェパードの小屋がなくなっていた。小学生だったころから流れた月日を数えなおす。
「美月」
しばらく動けなかった。こころのなかに風が吹いてくる冷たさを感じた。
そっか……
そうだよな。
それが普通なんだよな。
「夜……」
「うん?」
「ヒナタちゃんもぼくも生きているんだよね」
「ああ、だからなんだ?」
「生きているってことは、いつか消えてなくなっちゃうってことだよね」
ぼうっと庭を見つめるぼくに夜が静かに語りかけた。
「なぁ、美月。美月の好きな人はちゃんと目の前にいるんだろ? 話せるんだろ? 生きてるんだろ? それなら、言えるよな?」
ぼくは姿勢を正してゆっくりと歩き始めた。
「うん」
◆◆◆
夜を左腕で抱えて駅前まで来た。駅前では臨時売店でチョコが少しだけ並べられている。バレンタインもあと五時間を切った。そろそろ店じまいだろう。売店のまわりにはOLらしき女性や女子高生などが人垣をつくっていた。
ドキドキしながら遠くからチョコを眺める。
「もっと近くいかないと見えないじゃんか」
「そんなこと言ったって、ぬいぐるみ持った男子大学生が女性のなかに割り込むってどう考えたっておかしいって」
「せっかくだから、デパートの中も見てみるか」
「うん」
ぼくと夜はお菓子の専門店がひしめくデパートの地下へ行き、ショーケースを覗いた。さすがに男性客は少なく、その場にいるだけで緊張してしまう。店員の目が気になり、なかなかショーケースに近づけない。
高そうな金文字のチョコレート店の前で止まった。そこには、おしゃれな装飾の施してある色とりどりのトリュフが並べられていた。
〈ショコラとトリュフですかね。なかにいろいろ入ってるのがすきなんです。……ほら、最近は抹茶味のボンボンショコラとかあるんですよ!〉
「お客様、何かお探しですか?」
「あ、いえ、ちょっと」
しばらく立ち止まって見つめていたのに気づいてか、客がいなくなったところで店員がショーケース越しに声をかけてきた。
「あ、あの……ショコラとかトリュフってありますか?」
「ええ、ございますよ。今季初めて入荷した期間限定商品として賞を獲得されたシェフによる創作抹茶のボンボンショコラはどうでしょう。男性にもこちら人気ですよ」
「あ、甘くないですか?」
「はい、中に抹茶も生チョコが入っているので甘いのが苦手な方にもおいしくお召し上がりいただけます。ご自宅用ですか? それならこちらの小さい一人用サイズがおすすめでございます」
「あ、いや……あの」
化粧を厚塗りにした機嫌のよさそうな店員が首をかしげる。ぼくは一度唾を飲み込んだ。
「あ、あの……と、年下の女性に贈りたいんですけど」
勇気を出してそういうと、店員の顔に華が咲いた。
「素敵ですね。そういう方、今年は結構いらっしゃいますよ」
「そ、そうなんですか」
「ええ、チョコレートの甘さのあるこちらはおすすめです。年下の女性でしたら包装の可愛いこちらの詰め合わせもおすすめですよ」
ぼくは夜を見る。夜も笑っているように見えた。
「じゃあ……これください!」
意を決して抹茶のボンボンショコラを選んだ。十二個入り。包みもベージュとブラウンに金の文字でシックな感じがする。わざとらしくなくていい。
「あ、お客様、百円足りませんね」
「え……」
そういえば夜に急かされて家を出たせいでお金をもって来なかった。
「だっせぇなぁ、そういうとこがなってないんだよなぁ」
夜が含み笑いでこちらを見つめてくる。
「もう、うっさいな」
「な……」
店員の驚いた表情をみて我に返った。そうか、夜の声はぼくにしか届かないのか。
「あ、すみません。なんでもないです」
「どうしますか?」
「い、いえ、大丈夫です。じゃあ、小さいほうください」
「はい」
店員は華やかに微笑んで特別にギフト用に包装し、渡してくれた。
チョコを買い終えると肩の力が少し抜けた。気分が良い。そういえば母さん以外の女性に何かを買ってあげたことは一度もなかった。
カフェでホットドックを食べ夜ご飯を済まし、まだチョコの甘ったるいにおいのする紙袋と夜を抱えて電車に乗る。時間は二十二時。一時間弱で神田に着く。そこから店の近くで張っているつもりだ。
電車では落ち着かず、外の景色を眺めながらうまくいくように何度もシュミレーションをする。
時間が過ぎるにつれて緊張してくる。胸が苦しくなって何度も深呼吸する。
そうだ、別に付き合ってくださいと宣言するつもりはない。あなたのことが好きなのだと言ってチョコを渡せばいい、それだけのことだ。
それだけの、ことなのに。
二十三時、バイト先のロッカー近くに着いた。
ロッカーは店の奥の別の建物にあるが、裏口と通じているために、裏口のドアを開ければすぐにロッカー室の男女ふたつのドアがある。
ぼくは裏口の近く、居酒屋隣の駐車場、脇の植木近くに腰を下ろして息を整える。
一体ここでぼくは何をしているんだ? 胸騒ぎがする。心臓の辺りが妙にざわついていて、器官が狭まるような感じがする。
「なんでこんなとこに隠れてるんだよ」
「だって、比留間くんに見つかったら恥ずかしいじゃんか」
「ふつう表口からは出てこないのか?」
「ああ、働いてる人間は裏口から出る決まりなんだ。今日はヒナタちゃんが鍵を持っているはず……」
そうだ、比留間くんとヒナタちゃんが一緒に出てくる可能性もあるのだ。そうしたらどうすればいいのだろう。一緒にホテルなんかに行ったら? もう、だめだ。悪い考えばかりが頭をよぎる。
息があがる。
苦しくて何度も深呼吸をする。
「大丈夫」
夜が低い声でつぶやく。
「な、何を根拠に」
「根拠などない。大丈夫と言ったら大丈夫なんだ」
「なんだよ、それ……」
そうこうしていると、裏口のドアの開く音がした。
「あ、開いた!」
かじかむ手を祈るように組み合わせる。前のめりになる。
「比留間くん……あれ? 一人だ」
裏口から出てきたのは比留間くん一人だった。比留間くんは険しい表情でジーンズに手を突っ込んで駅のほうに歩いていく。
「美月」
「ああ、でも……ヒナタちゃん出てくるの遅いな。いつもならすぐに……」
比留間くんより先に帰ったのだろうか。また嫌な想像ばかりが浮かんでくる。風が冷たい。胃が重い。心臓が重い。苦しい。やっぱり引き返そうか、そう思った刹那、ドアが開いた。
「あ、あれ、赤星さん?」
「ひ、ヒナタちゃん?」
ぼくは自分自身を抑えきれずに植木の陰からいつの間にか身を乗り出していたのだ。
「どうしたんですか? こんなところで。今日寒いんですから風邪、ひいちゃいますよ」
「あ、あ、う、うん」
自分の手元を見る。夜と紙袋。ぼくはとっさに夜を背中に隠す。
「森山さん、あの、えっと、あの……あのー、あの」
言葉にならない。顔さえ見れない。喉が詰まる。窒息しそうだ。顔が熱い。身体が熱い。身体に力が入らない。手が震えだす。怖い……
「赤星さん?」
誰かに好きになってもらうのは、ひどくむずかしい。
しかもそれが自分の好きな人ならなおさらだ。
でも、人を好きになら、なれる。好きだって言うことなら出来る。
自分の好きなものを好きだということは、たぶん自分を愛することでもあるんだ。
自分をまた一歩、認めることでもあるんだ。
怖い。怖くて当たり前だ。
でもだからこそ、だからこそきっと、愛おしい。
ヒナタちゃんに会えて、良かった。
「森山さん、これ……」
「何ですか? わ、ボディバのチョコだ! こんな高いもの、いいんですか?」
「ああ、うん。これ、今日中に渡したくて、あの、その……うん」
顔はまだ見れない。
「あ、ちょうどよかった。赤星さん、あの」
「も、森山さん、ぼく……ぼく」
「あ、はい。なんでしょう?」
一瞬躊躇する。だめだ、やっぱり言えない。
『大丈夫だ、いけ!』
力強い声にぼくは深く息を吸った。
「森山さんがすきです」
「……え」
ぼくはゆっくり頭を上げた。そこには苦しそうなヒナタちゃんがいた。
「赤星さん、あの、ありがとうございます」
「いえ……」
「でもわたし、さっき比留間くんに告白したんです」
「え……」
思わず顔をじっと見つめる。顔を赤くして苦しそうに笑うヒナタちゃんがいた。
「でも、ふられちゃいました」
「…………そ、そっか」
口が閉まらない。眉をしかめる目の充血したヒナタちゃんの頬には今まで気づかなかったが、確かに涙が伝った痕があった。
そっか。
そっか……
そっか
ヒナタちゃんも、 がんばったんだ…………
「あの、こんなタイミングで渡すのもどうかと思うんですけど、これ、もらってくれませんか?」
ヒナタちゃんがバッグから四角い箱を出す。
「これは……」
開けてみると、ぼくが好きだと言っていたフォンダンショコラが四つ、入っていた。
「もしかしてこれ、こないだ言ってたつくったやつ?」
「はい、つくってみました」
「でもこれは比留間くんにあげたものでしょ? 受け取れないよ」
そう言うとヒナタちゃんは驚いた顔で返した。
「え、いえ、違いますよ。もともと赤星さんにもあげようと思っていて。でも何がすきなのかよく分からなくて。店で直接好みを聞いてプレゼントしようと思ってたんです。昨日は赤星さん、急いでたみたいだったので、あの……なんかすみません」
ヒナタちゃんが深く頭を下げる。ぼくは慌てて手を振った。
「いやいや、ヒナタ……あ、森山さんが謝ることじゃないよ。ちょっと昨日はその、大人気なくてごめん。今も、森山さんの状況も考えずにいきなりごめん」
「いえ、いいんです。わたしこそ、ごめんなさい」
「や、いいんだって。本当にぼくは大丈夫だから。森山さんこそ、大丈夫?」
「いえいえ、わたしこそ……」
そういうと、ヒナタちゃんはふわりと笑った。
赤い頬と充血した目は痛々しかったが、同時にとても可愛らしかった。
「あの、こんなこと言うのもおかしな話なんですが、そのチョコ、もしよかったらいただいてもいいですか?」
ぼくは抱えていつのまにかぐしゃぐしゃになった紙袋を見た。
「あ、うん。ごめん、ぐしゃぐしゃになっちゃった。こんなんでよければ」
ヒナタちゃんがまた笑う。
「赤星さん、謝ってばっかりですね」
「あ、うん……なんかこういうの初めてで」
「わたしも男の人からチョコもらうの初めてです。買うの大変でしたよね? わたし、普段は太るので我慢してるんですけど、本当はチョコが大好きで。本当に目がないんです。あの、時間は大丈夫ですか?」
「え、うん。ぼくは別に何時でも。森山さんは?」
「あの、ここでちょっと一緒にチョコ食べていきませんか?」
ヒナタちゃんの言葉に身体が固まる。
「……や、やっぱり嫌ですか?」
「そんなわけないよ! ぼくは森山さんが好きなんだから!」
言ってしまってからはっとして顔を赤らめうつむいた。そんなぼくをヒナタちゃんも頬を赤らめてやさしく笑う。
「じゃ、ちょっと寒いですけど……」
ぼくらは日をまたぐその時間、駐車場の隅に一緒に座り込んでチョコの包みを広げた。あまったるくやさしいかおりが鼻をくすぐる。すぐ横にヒナタちゃんの顔がある。
不思議と辛くはなかった。ただ、この人を好きになって本当によかったと思った。
「夜が来てよかった」
「え、夜はいつだってちゃんと来ますよ?」
「さっきまで来ないと思ってたから。でも今日は夜が短そうだ」
そう言うと、ヒナタちゃんはまた笑った。
そして、ぼくの背に隠れている夜もくくっと笑った。
夜が短い?
人間は本当に陳腐だな。
世界に光を放つ、「朝の使者」の仕事量と、世界に影を与える、「夜の使者」の仕事量の割合も知らないで。
まあ、いいか。
約束どおり今日くらいは少しだけ、夜を長めに
してやるよ。