黒喰い
夢を見た。
巨大なショッピングモールの中にいる僕は、エレベーターの階数表示を見上げていた。僕の隣には斧を持った長身の男がいて、着ているスーツは、所々破れており、色白な素肌が見えていた。肩は小刻みに震えている。
「こんなところで死んでたまるかっ!!」
男は扉を睨み付け、叫んだ。
僕達を襲う何か。姿形は、人間と酷似した化け物だった気がするが……。詳しい特徴は思い出せない。
「……死にたく…ない…」
男の本音。
僕だって、死にたくはない。
「…………」
一つ、思い出したことがある。確か五階の通路を真っ直ぐ行って右奥。その部屋に僕が泊まっていた記憶。
そうだ。僕は、勘違いをしていた。
ここは、ショッピングモールではなく、巨大なホテルだ。
僕のような貧乏人はたぶん一生に一度。泊まれるかどうかの高級ホテル。
エレベーターは、僕達がいる一階に向かって真っ直ぐ降りてくる。良く分からないが、ひどく嫌な感じがした。寒気がする。このエレベーターに化け物が乗ってくる確証はない。正直、逃げ惑う人が上階から出口のある一階に降りてくる可能性の方がはるかに高いだろう。
「出口……」
そもそも何で僕やこの男は出口から外に出ないで、まだ化け物がいるかもしれない危険なホテルの中にいるんだろう。
出口は……。
ホテルの出入口は今、人間の死体が重なりあっていた。外の景色がほとんど見えず、薄暗い。黒煙と火の粉が風で運ばれていく。一目で外の方が危険だと分かった。獣のような叫び声が聞こえる。
今、外に出るのは非常に危険。この状況では、上を目指すのが正解だろう。屋上から救助ヘリで逃げることの方が、生存率は高いはず。
「あの……一緒に…逃げましょう……どうしました?」
隣の男は急にガタガタと震えだし、失禁した。この男には悪いが、コイツと一緒にいると自分も死ぬイメージが浮かぶ。
だから僕は走って、階段から上を目指すことを決めた。
一度だけ男に呼び止められたが、無視した。階段を駆け上がり始めてすぐに、男の人間とは思えない断末魔が聞こえた。
怖くて怖くて、振り返る余裕はない。
なるべく静かに。そして速く。階段を上がっていく。もうすぐ五階だ。
僕の足は無意識に止まり、五階の非常階段の扉を開けると、自分が泊まっていた部屋を目指していた。
屋上からの脱出が目的のはずなのに。
そのことは頭では分かっていたが、体は言うことを聞かない。
ホテルの自室に滑り込むように入り、内側から鍵を閉めた。
「……………」
部屋の中は荒らされた様子などなく、平和そのもの。
開けられたカバンからは、丸まったパジャマが見えた。木製のテーブルにあったペットボトルのお茶を飲み干し、カーテンの隙間から下界の様子を見てみた。
大通りを足を引き摺りながら逃げる若い女性がいる。何度も後ろを振り返っている。女性のすぐ後ろまで異形の化物が迫っていた。
「っ!?」
一瞬、立ち止まった女性が僕を見た。
真っ直ぐ。
その目からは、僕に対する憎しみを感じた。助けろとでも言いたいのか。
僕は、慌ててカーテンを閉めた。カーテンの生地が薄い為、それでも下の様子が何となく分かった。女性に馬乗りになった化け物は、女性の体を定規で切るように縦に割った。
どうしてそんなことが出来るのか分からない。
しゃがみ込み、気配を消し。完全に僕の存在が分からないようにする。
初めて恐怖が襲ってきた。部屋の中が安全という保証はないが、外よりは遥かにマシだと感じた。
カバンの中を漁るとお菓子の袋が出てきた。部屋に設置されている小さな冷蔵庫は空。洗面所に行き、蛇口をひねったが水は一滴も出てこない。他も一緒。先ほど、何も考えないで飲み干したお茶。自分で自分を殴りたいほどの後悔が襲ってきた。
水を確保出来なければ、いくら部屋の中が安全だと言っても長くはいられない。
僕は菓子の袋を破ると、鷲掴みにして口に放り込んだ。その後すぐ、外通路の安全を確認後、部屋を出て、エレベーターを目指した。
どういうワケか、今度はエレベーターの方が階段より安全だと分かった。
五階で止まり、扉が開く。少し緊張したが、中は無人で安全だった。
僕は急いで屋上を目指した。
「なんでだよっ!! クソッ」
屋上を目指したかったが、最上階が五階止まりとなっており、エレベーターで屋上を目指すことは不可能だった。
だとしたら、また階段を使うか?
いや、階段の方が危ない気がする。化け物がヨダレを滴ながら待ち伏せしているイメージが頭をよぎる。
仕方ないので、一階を押した。時間が経過した今、僕のような逃げてきた宿泊客が一階で待機しているかもしれない。
とにかく今は、なるべく一人でいたくなかった。
一階の扉が開くと、そこは無人で。なぜか襲われたはずのスーツ姿の男の亡骸や血の痕跡が全くなかった。けれど男が持っていた斧だけは赤い高級絨毯に落ちており、僕は護身用にそれを拾い上げた。斧は思いの外、軽くてビックリした。
「っ!!?」
突然、背後に気配を感じ振り返る。そこにはヨダレを滴ながら迫る化け物がいた。油断しているのか、飛びかかってくる気配がない。
このチャンスを逃したら、僕に待つのは確実な死。殺られる前に殺る。
僕は、軽い斧を化け物の広い胸に振り下ろし、倒れた化け物に何度も何度も何度も何度も斧を振り下ろした。
「はぁ…ぁ…はぁ……」
血に混じる汗。
飛び散った化け物の血で真っ赤に染まった。動かなくなった化け物を見下ろし、次に僕はもう一度、出口を見た。
あれは……タクシー?
ホテルの中を指差す男女も見える。スマホ片手に僕を見て、何かを早口で話している。
「…?」
ゆっくり立ちあがり、周囲を見渡す。するとどこに隠れていたのか。たくさんの人がいて、みんな僕を見ていた。
「もう大丈夫です。倒しましたから……。だから、ね? だから…みんなで逃げましょう」
なぜか僕が近づくと逃げていく。
僕を指差し、怒鳴り散らす中年親父。泣き叫ぶ女性と母親に抱っこされて逃げていく子供。
「なんで……あんまりだ……僕は、化け物を倒して……みんなを助けたのに…」
ほら、あの。
化け物……。
化け…………?
僕が倒したはずの化け物は、いつの間にか最初に斧を持っていた男に変わっていた。
「は? いや……なんで…」
白い男の顔。見覚えがある。……そう。この男は、荷物運びだ。僕を五階の部屋まで案内してくれた。
なんで今まで忘れていた?
「違います! 僕は、違います! 違うって!! 化け物がいただろ? みんな、殺されて……だから僕は、その前に………殺しただけ……だから僕は悪くない……悪いのは、化け物なんだから」
磨かれた大理石の床。
そこに写る自分。その顔が、化け物のように歪んで見えた。
「大丈夫……大丈夫……。これは、全部悪い夢なんだから……」