大江健三郎の世界
大江健三郎さんが亡くなって、You Tubeで大江さんの追悼企画の動画を見たら泣いてる自分がいた。それが大江さんとの唯の僕のお別れだったんだナー。
大江さんの小説読み始めたの僕が高校生の時だ。われらの時代って作品を本屋で買って読んで衝撃を受けた。それからまた本屋で、個人的な体験って作品を買って読んで、衝撃を受けて。
近くの市立図書館で、大江健三郎の全集が揃っていたから借りたりした。エッセイも素晴らしかった。
多分僕は初期、中期、後期あらかた通読してる。なろうの文芸評論家は大江さんの小説にはあまり興味が無いらしく、インテリに行ったって一行書いてあっただけだけど、そのインテリが面白いんじゃないかって僕は大江さんを支持したいんだけど。
大江さんは基本的に頭が良過ぎるんだよね。昔僕がある宗教団体の勉強会で、一家の理気知は決まっていて、もの凄い天才がいる家庭は必ず知恵遅れの子供がいるよって聞いた事がある。だから光さんって言う知的障害の子供がいるんだよね大江さんの家庭は。
そこまで頭良いか!?それでも、飼育って作品で芥川賞を取って、サルトルに傾倒した新進気鋭の小説家って名目で文壇に華々しくデビューしたんだけど、、、、、、
朝日か読売か忘れたけど、一流の新聞紙上なのに、江藤淳が亡くなって、大江さんが、江藤淳の事を、おかしいと思いますって書いていて、びっくりした事がある。
まあ話しは戻るけど、You Tubeで涙して、とにかく僕も生きたんだよ、その要所要所に大江さんの小説があっただけだ。
僕が、大江の小説で好きな所、印象に残っている文章を引用すると、例えば、個人的な体験、のバートと卑弥子の会話。人間には核戦争で世界消滅を望んでいる黒い心を持った人達がいると思うのよ。北欧のレミングと言う動物は集団自殺する事があるらしいけど、バードそうゆう事を考えた事は無い?
黒い心を持ったレミング風な人間?それなら早急に国連に頼むしか無いね。みたいな文章は他の作家には書けネ。
大江が高校生の時に詩を書いて、国語教師を震撼させたって言うのは伝説的なエピソード。
僕の高校の担任が女性だったけど、やはり大江さんのファンで(人生であまり僕は大江さんの小説を読んでいる人に会った事が無かった)その先生に、大江の割と後期の作品の、燃え上がる緑の木、って言うのを一緒に読まない?って提案されたりした事があった。
大江さんは小澤征爾さんと親交があったけど、小澤さんの甥のオザケンに言及した事は何故か一度も無かったし、オザケンにしても読書家の筈なのに大江さんの小説には一度も、やはり言及した事が無い、、、、、、
大江のエッセイで武満徹の事が書いてあった。それは武満徹が毎年年始に大江に出す手紙に、自分がいかに音楽を作る才能が無いかって事が書かれていたって、大江が書いてた。
大江さんは詩が好きらしく、その中で特にW、H、オーデンが好きみたいでエッセイや小説にも引用してた。オーデンは政治的なモチーフを自身の詩に取り込んだ作家で、大江も初期の頃は、政治的な事をガンガン自分の小説に取り入れた、、、、、、オーデンに影響を受けたのかもしれない。
大江は昔は読書で、本で、今僕は小林秀雄の本居宣長を読んでいるって言ってたけど、段々変わって洋書を読むスタイルに変わっていった。
大学の頃は、サルトルを原書で耽溺して卒論もサルトル。初期の飼育もサルトルに影響を受けていて、エッセイでサ、自分はサルトルを読んでた19歳頃から今までで自分の人生は出来上がっていると思っていたって書いて、続けて、いやそれは間違っていた、って老年になってから思ったらしい。そうじゃなくて子供の頃から続いていたんだって思い直したって書いてた。だから、芥川賞を取った飼育も、サルトルを読み始めた頃から人生は作られたって若気の至りみたいなもので押し通したんだろー!
大江の文学上の一番の問題点はアクシデントは、段々文体が難解になってきたって言うのは有名な話。初期の頃は、驚くよーなキラキラした文章を書いたが、段々キラキラが無くなってきて私は読むのを止めてしまったんだケドって大江の奥さんの、ゆかりさんが言ってたって書いてた。
大江さん自身は、キラキラした驚くよーな表現の初期は、それは所詮、マッチ棒で作る家が上手かったに過ぎないって言ってたんだけどネ。
石原慎太郎が、大江は、日本から見て日本は、
アメリカの周縁だと言っている、何て馬鹿な奴なんだって言って、大江は、しかし僕は、それを聞いて面白いと思ったって言ってた。戦わない日本と言うのが良いって言ってる。
セブンティーンの続編の、政治少年死すって作品が右翼団体に脅迫されて、お蔵入りになってしまった。
爆笑問題のラジオでゲストが大橋巨泉で、
大橋が、大江さんが雨の中、国会議事堂の前を歩くだけで意味があるんだって言って、太田が、それは、おかしいよ!小説家は小説を書くものでしょ!?って大江さんの事で議論している、、、、、、
大江がどこかの本で、村上春樹と吉本ばななの事、凄く売れているから、村上ばななラインって呼んでいるって言ってた。
実際、大江の小説は、セールス的には、村上吉本には及ばないから。大江の最初の短編集の死者の奢り、の発行部数は2万部だったらしい。
大江さんは凄く面白い人だったらしく、テレビ徹子の部屋に大江さんが出て、大江さんは、3男だけど、兄弟の中で、大江さんだけ英才教育をお母さんに受けたらしく、それで大江さんの姉か誰かが、大江さんのお母さんに、何で健三郎さんだけ英才教育をするんですか?って質問したらしく、その時にお母さんが、あの子は耳が大きゅうですからナーって言ったって言うんですよって大江さんが番組で話すと、裏方の男のスタッフが笑い声を上げる。
タモリもラジオで大江さんの事話してた。酒場か何処かで、店に大江さんが入ってきて、カウンターのママに、大江さんが「包はいますか?」って尋ねて、ママが、ちょっとお待ち下さい、とか言って、別のボーイに、何何ちゃん、来てる?って小声で聴いて、ママが大江さんに「そのよーな物は届いていませが、、、、、、」って言うと大江さんが「いや何何会社の包ですが」って言って店中の人が大笑いしてたってタモリが楽しそーに喋ってた。
大江さんは、何処かの本で、障害者は、人に迷惑をかけてもいーから、どんどん外へ出ればいーと思うって言ってた。
またエッセイで、浅沼稲次郎刺殺事件の山口二矢は、留置場で首を吊って自殺した事に触れ、大江は、自分はあのよーには生きれないって考えてて、そーゆー極限状態にはなれないって考えてて、それが長男が障害を持って産まれてきて、間接的に仮想極限状態に落とし込まれるか、また押し上げられるかして、そーゆー事は言ってられなくなったって書いてる。
江藤淳は大江の初期作品のダイナミズムに注目した。しかし段々大江の小説を批判するよーになって、、、、、、大江の中期の、万延元年のフットボールって作品は、書かなくても良かったって酷評してる。
大江の義兄の映画監督の伊丹十三はエッセイか何かで、大江のエピソードを載せてた、大江君は、真面目な男で、他の文学青年は、太宰治の小説の、「なあんてね」って言葉遣いを真似て書いたりしていて、大江は、もーそーゆー事は止めようよ、新しい文体を作って行こうよって言ったらしい。
大江さんは老年、小説を書く生活を読書、それもスピノザだけを読む生活にしようと思って、実際そーして、そーゆーそれによって得た思想を病床にいる武満徹に話すと、武満徹につまらないって言われて、また大江は小説を書く生活に戻ろうとした。そうやって出来た作品が、宙返りって作品だった、、、、、、
その作品、宙返りって言うのは大江の昔から一貫している天皇陛下の人間宣言も含んでいるんだけど!
初期の、われらの時代の文庫本のあとがきも多分伝説になってる。その中で、大江は、ある難破船の船長が、今自分は自分を全く信用しているって航海日誌に書いていたって言うシックジョークを聞いた事があるが、個人的には僕は、この船長が好きだって書いてた。頭の良い文章だよねって僕は思った。
僕はそー思っても大江自身は、前述したよーに、それら含めて、マッチ棒で作る家が上手かっただけだってクールに言っているんだけど、、、、、、
大江が子供の頃、第二次世界大戦に日本が負けて、天皇は神様じゃなくて人間だ、アメリカ人は、悪魔じゃなくて友達だって考え方になって、愛媛の山奥に米軍のカーキ色のジープが入ってくるのを見て、私は涙を流していたのでしたって書いてる。
大江は椎名誠と東海林さだおの対談で、手塚治虫の事に触れ、手塚治虫は天才だけど、あまり人を観察しなかった人ですね。人間の描き方が観念的なんですよ、って言ってた。
また大江と椎名は、こんな事喋ってた。椎名が、大江さんの不満足って小説が好きなんですよって言って、大江が、あれは若い作家が真似しやすい感じでって言って、椎名が、正直真似しましたって言ってた。
他にも、読書の話題で、大江は、東大の教授の渡辺一夫に言われて、外国の作家を一人ずつ3年読みなさいって言われた事を実行していたらしく、その事を椎名に話して、椎名が僕も日本の作家を一人ずつ読んでいるんですよって言ったら、大江が興味を示して、何年位やられた?って質問して、椎名が1年ずつですって答えて、前述したよーに、大江が、僕は3年ずつやっているんですよ、とか言うと、東海林が、3年やらなくちゃ駄目なんだよ、って椎名に言うと、大江が、いや日本の作家は、一日一冊読めるから1年で良いんですって答えてた。
新しい人よ目覚めよって言う連作小説で、よくウィリアムブレイクって詩人を大江は引用した。その小説内で引用された詩を僕のおぼろげな記憶で紹介しよう。少年の詩って題の詩、作者はウィリアムブレイク。まず大江は、この詩は更に自立した性格の少年として登場するって書いて、引用してた。(誰一人として自分以上に他人を尊敬しない、自分には思想があるからそれ以上に求めるのは無理なのだ、だからお父さんどうして自分以上にあなたを愛せよう? 道端にいる鳩位には愛せるかもしれないが、これを聞いた司祭は激昂して少年を悪魔として叫断する、少年は焼かれ、泣いている親達の涙は虚しく、このような事が今でもアルビオンの丘で行なわれているのか?)
新しい人よ目覚めよ、ではこんな事も書かれてた。障害者の為の活動家のFさんと言う人が、出てきて、沖縄の人で大酒家だったが、大江の家に来て、大江が勧めるビールを強く断り、ウィスキーだけ少量飲んで、大江の子供が通りかかる度に、そのFさんは、ビクッとした様子を示し、Fさんが大江の妻のゆかりさんに、あなたの息子さんは、それ程強い障害とは思えない。沖縄だったら普通学級に入れるだろうって言って、ゆかりさんは、いや私達は私達が生きている間は自分達で守ろうと思っていますって答えると、Fさんは、いや奥さん、そうゆう考え方は敗北主義だから駄目ですよって言う、、、、、、何かあったら、このパンフレットを見せて(Fさんが活動している障害者の為のパンフレット)全て解決、それ以外は皆敗北主義ですよって続けた。
ここで私事になるのだが、僕が大江健三郎の事書いてみようと思って書き始めたら部屋の外で爆発音がして、僕は宗教的な事も勉強しているから、これは書くの止めろって事かな?って思い、いやそうじゃ無い、世の中の人の様に感じられた大人おじさん達、お前気にいらねーけど、それ書いてみろって言われたよーな気がした、で少しずつ毎日書き進めた、(そして)精神科に入院して、最初の頃、夢で醜い猫に飛びかかられて自転車が来て猫が車輪とクラッシュして目が覚めて、幻覚で夢の続きで車輪に首を挟まれた猫が凄い形相で現実の僕を睨んでいる。僕はびっくりして、そしたら大人おじさんの一人が刃物みたいなので猫の首をぶった切った、その光景を見ていた僕の心境は、おじさんってとても怖いな、こうゆう大人達にかかれば僕を殺すなんて簡単なんだろーなって思った事があった、何が言いたいかって言うと、その大江健三郎の文章書こうとしたら起こった爆発音と猫の首切り(どっちも大人達)は繋がっているなーって思ったんだよネ、、、、、、
あーゆー大人達おじさん達に対抗出来るのは、勝てないにしても微かに対抗出来るのは長男の兄さんみたいな人だけなんだろーって思った。やはり長男のお父さんとか。そんな気がしたんだ。
個人的な体験の文庫本のあとがきも素晴らしい。個人的な体験は、自分に障害者が産まれた事をモチーフにした大江文学の転換的な最初の作品なのだが、あとがきで、この小説は最後に希望を持たせたかった。自分の子供も含めて祈りのよーなものもあった。この小説に出てくる子供の行き道は、決してオプティミズムにだけ捉えられるものでは無いがって書いてる。
大江のエッセイで、仕方が無いやろう、と言う文章がある。昔、大岡信と谷川俊太郎が一般公募か何かの詩を編集して本を作ろうとした。しかし下読みのさばく人員の予算が足りない。その時、谷川が「大岡、仕方が無いやろう」と言って二人でやったものだよってエッセイで書かれ、
続けて、僕の子供や他の家庭の障害を持った子供も、皆、仕方が無いやろうと決意した人達であるよーに思うのだって書かれ、文章の最後に、この文章を書いてる時息子が発作を起こし僕は文章を書くのを中断して息子の介抱をした。息子もこの苦渋に満ちた辛い世界に生まれたきたのか、発作が治まってしばらくすると上気に満ちた赤い顔で息子は微笑している。そこにも、仕方が無いやろうと言う積極的な果実は見られるよーに思うのだって文章は結ばれている、、、、、、
大江は、紫綬褒章を辞退している。僕は天皇様の賞は貰わないよーにしてるって言ってた。その言動は穏和な大江さんが、鋭いモノを見せる瞬間のよーな気がした。その鋭さは初期の小説で明らかだ。
われらの時代って言う初期の作品、「それは全く勃起するな、やりたくならせるよ」「やりたくなったらユダヤ人の娘を強姦するんだ。やった後では銃剣の先で胸を一突きするのが仕上げだ」って言う小説内の会話!
また、同作品の、「君の民学同をペテンだとは思わないよ」「ペテンだよ。全学連も民学同もペテンをやる。ペテンが三重にこんがらがってくる。そして寂しい気持ちになると君のようなペテン破りに会いたくなる、、、、、、」等だ、、、、、、
大江さんのドキュメンタリー番組で、燃え上がる緑の木と言う作品を脱稿してrejoice喜べ!と最後書いて、大江は、僕の人生のプランは、最後の時が来たら、rejoice喜べ!と自分に言ってやろうと思っているんですよ、って語ってた。余談だが番組では大江さんは、rejoyceとイギリスの詩人の綴りを間違って書いていたのだが。
大江の本で、息子の光さんが通っている東京世田谷区にある烏山福祉作業所が出てきて、それで大江がその作業所に寄った時、女性のグループが「立派過ぎるわ、あまりに立派過ぎるわねー」って会話しているのが聞こえた。大江は帰りのバスの中で、その会話が気になっていた、最初は、子供を作業所に通わせる父兄の下見位に思っていたが、そうしたら作業所を作るのを反対している人達、障害者を汚いものに見ている人達がいるらしいって話を聞く、あの父兄達は、子供を通わせるための下見じゃなく、作業所建設反対の運動をしている人達じゃないかって気付いて行く、、、、、、そうだとしたらさっきの会話は剥き出しの意味を持ってくる!!って本では書かれている。
割と初期の、セブンティーンって作品に出てくる新東宝って言う渾名の生徒の大江の描写も、凄い。小便をもよおしたんじゃ無いかってよー軽犯罪法に触れるからねー。これには皆んな笑ってしまう。笑いに吊り込まれて女生徒が尋ねる。平安時代におまわりさんがいたの新東宝さん?あら純情ねあなたー、人気者が答える。じゃあ本当の事を言うよ、音が聞こえるのをごまかしたんだ、何だかカマキリ虫が鳴いてるようでござんすねー、そして拭いたんだよ。まあこの人痴漢よ、女生徒が教室を飛び出してしまう。人気者は拍手喝采を受ける、人気者はそれを手で抑える真似をするが、それはアメリカのクイズ番組の司会者を模倣したものなのだ上機嫌だ。(凄い文章だと思う、、、、、、、)
こういう素晴らしい文章も大江は、唯マッチ棒で作る家が上手いだけだってクールな視点で自作(特に初期作品)を分析している。小説が段々書いて行く度に難解になる。
その難解になった最初の作品が、万延元年のフットボールだっただけだ。そしてこの作品を盟友の江藤淳が酷評した。
大江は、若い頃は、つまり初期作品の頃は、深夜から朝方にかけて、小説を書いていたらしい。結婚しても最初の頃はその執筆スタイルは続けて、深夜になって書き始めると家族の事は頭から消して集中して書いていたらしい。
それが光さんが生まれて大江家の中心が光さんになってくると、執筆の場所を書斎から居間に移し、朝からつまり午前中に書くよーになったらしい、、、、、、
初期はともかく後期になってくると書いた作品を全部書き直したり仕出したらしい。その改稿を毎日八時間位やって(それがまた辛いって聞いた事がある)昼から読書を始めて、夜、酒を時間をかけて飲んで。
それでも大江さんは若い頃は大変だったらしい。江藤淳が大江の事を書いてる文章で知ったのだが、下宿の部屋で壁に押し潰される妄想に襲われ、ずっと一人で大声で喋っていなければならない時期もあったらしい。
初期作品われらの時代を書いてる時は、ろくに食事をせずにウィスキーと睡眠薬で暮らしていて、おかしな幻想にとらえられたりしてって書いてる。
渡辺一夫のルネサンス断章と言う本を大江は高校生の時に読んで、同級生だった伊丹十三に、この学者は日本で一番偉い学者だと思うんだって伝えて、伊丹が、その学者は東京大学で教えていられるって言って、大江は東京大学に行こうと決心する、、、、、、