白い7日目
手早く朝食を終え、自分の部屋に戻った私は、クローゼットの扉を開けて途方に暮れた。
「どうしよう……どうすればいいの……」
18年も側にいたけれど、デートなんてこれが初めてだ。
ギルと一緒に街に出かけたこともあるけれど、それは2人きりじゃない。そんな甘いお誘いは、一度も受けたことがない。彼と私の関係は、いつもただの幼馴染で友人で。どんな時でも、決してその枠を超えることはなかった。
試験が近付くと図書室にこもって勉強し、解らないところを教え合いっこするだとか。お昼休みに一緒にランチをするだとか。2人でくだらないお喋りをしながらティータイムを楽しむ、その程度の付き合いだったのだ。
「どうされたのですか? リリィ様」
「いえちょっと。急遽、ギルと街に出かけることになっちゃって……」
頭を抱えた私に、エマがキラキラと目を輝かせた。
「わぁ、初デートですね! リリィ様、おめでとうございますっ」
「デートじゃないわ、偽装デートよ。それよりもエマ。私はどんな格好をすればいいかしら?」
「ふっふっふ。このわたくしにお任せ下さい!」
エマがドンと頼もしく胸を叩く。
するすると身支度を整えられ、鏡に映る自分の姿に絶句した。
「さすがエマ……私が私じゃないようだわ」
黒の髪はハーフアップで編みこまれ、高い位置でまとめ上げたところに蝶の髪飾りが挿してある。ドレスの色はワインレッド。肌の白い私には、この色がよく似あうとエマがこれを推してきた。
顔にも薄付きながら化粧が施されている。唇に乗せられた紅の色がドレスとお揃いで、可愛くも大人びた雰囲気に仕上っている。
すごい。これが私? 別人みたい。
エマの腕前にほれぼれすると共に、妙に納得してしまった。そうか。偽装デートとは、先ず自分を偽るところから始まるものなのね……
「とってもお綺麗です! きっとギルフォード様もお喜びになられますよ」
エマの言葉にちくんと胸が痛んだ。鏡に映る自分は、普段と比べてぐんと華やかに見える。
―――でも。別にギルは喜ばないと思うけど。
だって、偽装とはいえデートと言って、浮かれているのは私の方だけで……。こんなの、ギルにとってはただの『お出かけ』なんだもの。
仲の良い夫婦だとみんなに思わせる為だけの。
「ねえ、エマ」
「なんでしょう、リリィ様」
「偽装デートって、具体的には何をすればいいのかしら?」
「……はい?」
恥ずかしながらこの年になるまで、私は偽装どころか普通のデートすら経験したことがないのだ。世の中の偽カップルたちは、一体街でどんなことをしてるのかしら?
「偽装デートとは私も未経験なので分かりかねますが……そうですね。具体的にと言われたら……」
「言われたら?」
身を乗り出した私に、くふっと、エマが愉しそうに笑った。
◆ ◇
街へと続く道はきちんと整備されているようで、カタカタとリズム良く馬車が揺れている。外は快晴。ぽかぽかと暖かく、お出掛けにピッタリの良い気候となっている。
こじんまりとした馬車の中にいるのは、私とギルの2人だけ。仲良く隣り合わせで座りながら、只今偽装デートの真っ最中。いえ、まだ目的地についてもいないんだけど、エマ曰く、屋敷を出た時からデートは始まっているそうな。
小さな窓からは青い空と、もくもくと浮かぶ白い雲が見えている。今朝食べたパンのようにふわふわとした雲を見て、明日はラズベリーのジャムを塗ろうと心に誓った。
「いい天気だ。やっぱり起きてきて正解だったな」
「そうね。美味しそうな雲が浮かんでいるわ」
「さっき食べたばかりなのに、もう腹が減っているのか? しょうがないな……ちょっと早いけど、到着したら昼にしようか。いい店があるんだ。案内するよ」
「いえ、後でいいわ。今はちょっと……胸がいっぱいで食べられそうにないと思うの……」
ギルの声が、未だかつてないほどの近い距離から聞こえてくる。このくらいの大きさの馬車だと、普通は向かい合わせになって座るものなのだ。それなのに敢えて隣に座るとどうなるかというと……
ギルが近い。近すぎる。
体温を感じる距離の近さに、どうでもいいことを考えていないと脳がショートしてしまいそうになる。屋敷を出る前にエマから聞いておいた偽装デートの心得を、もう一度心の中で復唱した。
『何をすればいいのかなんて決まってます。ギルフォード様と、いちゃいちゃすればいいのです!』
エマ曰く、偽装デートというものは、みんなに仲の良さを見せつけるのが大事なのだそうだ。だから物理的に距離を詰めるといいと言われてしまった。
『そんなこと言っても、何をどうすればいいの?』
『基本的には、ギルフォード様にお任せしていればいいと思いますよ』
『応用的には?』
『そうですね……手を繋がれたら握り返してみるとか。ギルフォード様の行為に対して、リリィ様からも寄り添うようにしてみると良いですね』
ふむふむ。ギルが近づいてきたら、それに応える感じね。
でも、ギルが私と手なんて繋ごうとするかしら?
『大丈夫ですよ。ギルフォード様からお誘いになられたのでしょう?』
そうだった。偽装デートはギルからの申し出なんだった。
ということは多少なりとも、愛のある夫婦のようなフリをしてくれるのかしら……?
半信半疑でいたけれど、結論から言うとエマの予想通りの展開となっている。ギルは馬車に乗り込むと、迷いもなく私の隣に座り込んできたのだ。一瞬ぎょっとしたけれど、エマの言葉を思い返してふむふむと納得する。どうやらギルも偽装デートを頑張るつもりのようだ。
そういえば、さっきホールで私を褒めてくれたっけ……
『お待たせ、ギル』
『着替えてきたのか、リリィ。その……』
『……そのドレス似合ってる。綺麗だな』
妙な間が空いた上に途中で顔を伏せられてしまったけれど、それでもみんなの見ている前で仲良し夫婦を演じてくれたのだ。私が見た目を偽っているように、ギルも心を偽ってくれている。
私も頑張らなくちゃ!
えっと、私からも寄り添うんだっけ……?
首をこてりと傾けて、隣に座るギルに物理的に寄り添ってみる。そっと身体を傾けると、私の頭がギルの肩にこつんとぶつかった。彼の身体がピクリと跳ねた気がするけれど……こんな感じでいいのかしら?
「……どうしたんだよ、リリィ。具合でも悪いのか?」
ひゃあ、耳元っ!
どうしよう、ギルの声がますます近くなってしまった。
これはちょっと心臓が……心臓の具合がよろしくないかもしれない……
「顔も赤いし、なんだか苦しそうだぞ。馬車酔いしたんじゃないか? 少し止めて休憩にするか」
「うっ、ううん、平気!」
「そんなこと言って、本当は辛いんだろ? だってさっきから、その、俺の肩に……」
ギルが言いにくそうに口ごもる。
え、もしかして勘違いさせちゃった?
私はただ、偽装デートを装っているだけなんだけど……
「こ、これは違うの! 具合が悪いんじゃなくて、これは……こうした方がデートっぽいかなと思ったの……」
「……っ、そうだな……」
上擦ったようなギルの声がして、それきり馬車の中には沈黙が訪れた。どうやら私の意図は彼に通じたようだ。分かってくれたみたいでホッとする。
ぎゃっ!
安堵したのも束の間、ギルの肩に頭を預けてカチコチに固まる私の腰に、ギルの手がそっと触れてきた。
ちょっと待ってよギル、この手はなに!?
こうした方が、よりデートっぽく見えるだろう……ってことかしら……
了解。ギルの意図は理解した。したけれど、愛し合う恋人同士のような彼の仕草に、心臓がバクバクと音を立ててしまっている。
困るわ。このままだと心臓の音がギルに気づかれちゃう。けれどここで払いのけると偽装デートが台無しだ。エマのアドバイス通り、じっと大人しく寄り添っておかないと。
お喋りでもして気を紛らわせようかと思ったけれど、上手く言葉が出てこなくて諦めた。ギルと一緒にいて、こんなことは初めてだ。だって、こんなに密着すること自体が初めてなんだもの……。
ギルも雰囲気づくりのためなのか、何も喋ろうとしない。普段の私たちとは明らかに違う空気に、まるで本物の恋人同士のような錯覚をしてしまいそうになる。
彼の指先から熱を感じる。触れられている場所に意識が集中してしまう。静かな馬車の中で、私の鼓動だけがひたすら耳を震わせている。
初めての偽装デートだけど、案外上手く行くものね。
これは誰が、どこからどう見ても、仲良し新婚夫婦だわ……!
馬車の中にギャラリーがいないことに気が付いたのは、目的地に到着した後だった。