白い2日目
「やぁ、リリィ!」
軽やかなボーイソプラノの声がして、足を止めた。
「聞いたよ。ギルと、とうとう婚約したんだって? おめでとう!」
ユリエルだ。
午前の授業を終え、彼も食堂に向かおうとしているのだろう。にこにこと人懐こい笑顔を浮かべて、私に駆け寄ってきた。
「早いわね。その通りなんだけど、決まったのは昨日なのよ。もしかしてギルに聞いたの?」
「いや、女の子達がそう騒いでたよ。ギルに告白したけど、リリィと婚約したと言って断られたってさ」
「そう、今日も告白されていたのね」
「相変わらずもてる奴だよね。羨ましいよ」
卒業までもう間がない。
最後の記念として告白する子も多いのだろう。そういえば、最近やたら告白されるとギルが愚痴を零してた。昼休みも呼び出しが多く、ゆっくりランチも出来ないってぼやいてたっけ。
美形も大変ね。
「婚約おめでとうございます、リリィさん」
ユリエルの後ろから涼やかな声がした。コツコツと軽い靴音を響かせながら現れた令嬢は、彼の婚約者であるキャサリン様だ。
柔らかなカーブを描くプラチナブロンドの髪に、神秘的なアメジストの瞳。気高くも美しいキャサリン様から優美な笑みを向けられて、ほうっと見惚れてしまう。
「ありがとうございます、キャサリン様」
「結婚式が楽しみだわ。もちろん呼んで下さるのよね?」
「ええ、是非いらしてください」
ユリエルがキャサリン様の腰にさり気なく手を回した。
「僕たちの結婚式も楽しみだよね、キャシー」
「まあ、ユリエル様ったら。今はリリィさんのお話をしていますのよ」
「いやあ、つい想像しちゃってさ。キャシーのウエディングドレス姿、綺麗だろうなあ」
ユリエルがでれでれと鼻の下を伸ばしている。
とてもじゃないけれど、ギルには見せられない姿だわ。
こんなユリエルだけど、当初はキャサリン様に気後れして、アプローチが出来ずにいたらしい。
気持ちは分かる。なにせ彼女は公爵家のご令嬢、それも現国王の姪なのだ。しがない子爵家の令息であるユリエルとは、かなりの身分差婚となる。
それだけでも腰が引けると言うのに、この美貌だ。小柄で童顔なユリエルが隣に並ぶと、可哀想なことに恋人というよりも、まるで姉と弟のように見えてしまうのだ。
ちなみに背丈は、キャサリン様の方がほんの少しだけ高い。
そんな2人がなぜ婚約に至ったかというと、なんとキャサリン様の方もユリエルに一目惚れをしたようで、かなり強引に公爵様にお願いをしたという。
もちろん最初は反対された。しかし、キャサリン様を溺愛している公爵様は、半ば脅しともいえる彼女の「お願い」にあっさりと膝を屈してしまったのだ。
「ところであの……2人ともちっとも驚かれていませんね。その、私とギルが、婚約したってこと」
「ええ。だってわたくし、いずれはこうなると思っていましたもの。むしろ遅すぎるくらいね」
「はあ……」
キャサリン様、その自信に満ちたお顔はなんなのですか?
高貴な方の考えることはよく分からない。
「いや僕は驚いたよ。あのギルがリリィに結婚を申し込むなんて、想像もつかないや。是非とも現場を覗いてみたかったな」
「あ、あはは……」
ユリエルはユリエルでおかしな勘違いをしている。結婚を申し込んだのは、ギルではなく私の方なのだ。
まあ、男性側の方が申し込むのが一般的なので、ユリエルが誤解するのも無理はない。詳しい経緯を話せないので、ひきつった笑いで誤魔化しておく。
ひとしきり和やかな雰囲気になった後、一転して、キャサリン様が淑女らしからぬどす黒い声を響かせた。
「ところでユリエル様。羨ましいってなんですの? 貴方には、このわたくしがいるでしょう?」
ひえっ!!
「や……やだなぁキャシー。そういう意味じゃないよ」
「じゃあ、どんな意味だっていうのかしら?」
キャサリン様の笑顔が怖い。笑っているのに笑ってない。
ぶるぶると震えて後ずさるユリエルに、キャサリン様が静かに詰め寄っていく。
「ユリエル様。ちょっと、こちらへいらっしゃい。じっくりとお話をした方が良いみたいね」
「お、落ち着いてキャシー。落ち着こう」
「まあ。わたくしはこの上なく落ち着いていますのよ? ユリエル様はランドル子爵令息を羨んでいますのね。それは、沢山のご令嬢たちから熱い視線を受け取りたいと、そういう事ですのよね」
「いや違う。そういう事じゃなくて、そのう……」
「言い訳は向こうの空き部屋でたっぷりと聞いて差し上げますわ。それではリリィさん、ごきげんよう」
ユリエルが私に縋るような視線を向ける。
さっと目を逸らした。ごめんなさい。私では、キャサリン様には太刀打ちできません……
おほほほ……と優雅な笑い声をあげながら、キャサリン様はユリエルを連行していった。
◆ ◇
「帰ろうか、リリィ」
学園での一日が終わり、ギルがにこやかな顔をして私の元へとやってきた。婚約をしたという事で、今日からランドル家の馬車で一緒に登下校をすることになったのだ。
狭い密室の中でギルと2人きり。それが許されるのは、私たちが婚約者同士となったからだ。
ただの幼馴染だった頃とは、もう違う。カタカタと揺られながら、くすぐったい気持ちで目の前のギルを見た。
「なんだか慣れないわ」
「そうだな。リリィと同じ馬車に乗っているなんて、不思議な感じだな」
はは、と照れくさそうに笑われて、ドキリとしてしまう。
……さっきからなんとなく感じていたことだけど、ギルの機嫌がとてもいい。今朝はむっつりと黙っていたのに、今はずっとにこにこしている。
「聞いたわよ。今日も告白されたのね」
「ああ。もちろん断ったからな?」
「それも聞いたわ」
「リリィと婚約したと言うと、みんなすぐに納得してくれたよ」
そう言って、ギルがゆるりと顔を綻ばせた。
あ……これ。心底嬉しい時の顔だわ……。
「すごく嬉しそうね、ギル」
「まあな……。単純だって言われるかもしれないけどさ。こんな風に、リリィとの仲を公言できるってのは、いいものだな」
「そう……それは良かったわね」
――なるほど。いい断り文句ができて喜んでいるのね。
私との結婚が役に立って良かったわね、ギル。
「……あのさ、リリィ」
「なあに?」
「結婚の条件についてだけど……」
ギルが言いにくそうに首筋を掻いた。
うろうろと視線を彷徨わせている。なんだろう。私たちの結婚が白いものであることを、念押ししたいのかしら?
「形だけの結婚ってやつね。ええ、覆す気はないわ」
「そ、そうか……」
私の返答に、ギルがため息をついた。
なあに? こんなにはっきりと言ってあげたのに、まだ心配なのかしら?
「今まで通り友人として仲良くやっていきましょうね、ギル」
さっきの笑顔がまた見たいのに。
言葉を尽くしてみたけれど、ギルは浮かない顔をした。
◆ ◇
婚約から結婚と、それからトントン拍子に事が進行していった。
ギルの親も私の親も、よっぽど私たちに片付いて欲しかったようだ。式は卒業からたったの2ヶ月後に決められた。なんて急な。気が変わらない内にとでも思われているのかも。
急に決まった結婚の準備で、私もギルもとても忙しくなってしまった。お互いまともに顔も合わせられないまま、式の日がどんどん近づいてくる。果たしてこのまま本当に結婚してしまっていいのだろうか、などと自答する暇もなく、式の当日がやってきた。これぞまさしく、両親たちの狙い通りと言えるだろう。
憧れていたギルとの結婚式。なのになぜか、ふわふわと夢の中を歩いているように感じる。厳かな神父の言葉も、華やかなウエディングドレスにも、どこか現実味が感じられないまま、あれよあれよという間に式は進行していった。
誓いの口づけを受けた時、初めて胸に痛みを感じた。
そして、この愛のない形だけの結婚が、現実なのだと実感した。
「2人ともおめでとう!」
「ありがとう。来てくれたのね、ユリエル」
ユリエルもキャサリン様と一緒に参列し、私たちを祝福してくれた。
「ずっと結婚したいって言ってたもんな。叶って良かったな!」
ユリエルが晴れやかな笑顔を浮かべながら、ギルの肩をぽんぽんと叩いている。
結婚したいって、それ相手は私じゃなくて、あなたのことだと思うけど。ギルの気持ちを知っている癖に、ユリエルもつくづく残酷なこと言うわよね。
「いつまでも仲良くしろよ、ギル。僕とキャシーみたいにさ!」
そう言って、ユリエルがキャサリン様の腕を取った。キャサリン様も「まあ」と呟き、満更ではない様子で頬を赤らめている。
あの後、どうやらすぐに仲直りしたようだ。私たちの目の前で、新郎新婦顔負けで2人はイチャイチャし始めてしまった。
ちょっとやめなさいよユリエル。ギルが見ているじゃない!
……可哀想に。
仲睦まじい2人の姿を見て、ギルは悔しそうにぐっとのどを詰まらせていた。