フィナーレ
「愛してるよ、リリィ。離れていても、いつも君のことを想っている。必ず戻ってくるから、ここで俺の帰りを待っていてくれ」
「ギル…………」
ギルが切ない声をあげ、私をぎゅうぎゅう抱きしめる。
これから長らく離れ離れになる恋人のような態度だが、なんてことはない。ただ視察に向かう前の挨拶を交わしているだけだ。
「……その言葉はとても嬉しいけど、そろそろ出発の時間じゃない?」
「ん……あと5分だけ」
なに、その寝起きのようなセリフ。
屋敷のホールの真ん中で、ギルが私の頬に顔をすり寄せる。ちなみに、途中で数えるのが億劫になるくらい顔中にいってきますのキスを落とされた後なので、ギルの頬も今頃ベタベタになっていると思う。
愛されていないどころか、ギルの愛は思った以上に深くて重かった。
想いが通じてからというもの、アドルフ様とジゼル様ですら呆れるほど毎日ベタベタされている。ギルと視線が合うたびに、甘く微笑まれてチュッとキスをされるし、食事の時も、ユリエルが乗り移っているのかと真面目に問いたくなるくらい、私に構いかけてくる。
とりわけティータイムの時間がすごい。お菓子よりもギルの方がよほど甘いって、どういうことなの……。
「口開けろよ。いいものやるから」
今日も嬉しそうに笑って、ギルが私の頬をつつく。恐る恐る口を開けると、大粒のチョコレートが彼の指ごと口の中に入ってきた。どうやら私にものを食べさせるのが、最近のギルのお気に入りのようだ。
「どうだ、美味いだろ?」
蕩けそうな笑顔で問われたけれど、口がふさがっているので、私は真っ赤になってちらりとギルを見上げることしか出来ないでいる。
ちなみに、これはミュミュの新作チョコだそうで、普通の味と苺味の2層仕立てになっている。さすがミュミュ、確かに甘くて美味しい。でも、そろそろ指はどけてくれてもいいと思う。
「もう一つ食べるか?」
こくこくと頷くと、ギルがこの上なく満足そうに微笑んだ。そうして、また指ごとチョコが放り込まれてしまう。
……ねえ。いったいどうなってるの?
声も視線も、態度も、なにもかもが甘くて。これがギルの本音だったのかと思うと驚くばかりである。
更に、この前ギルの部屋にうっかり入って、目にした光景に私は卒倒しそうになった。
「ちょっとギル、これはどういうことなのっ!」
なんと! 私のあのへったくそな刺繍入りのハンカチが、額縁に入れて飾られていたのだ!
ギル、それは気持ちだけありがたく受け取った後、机の引き出しにそっと仕舞っておくものなのよ……
「俺の大事な宝物だからな。いつでも愛でられるようにしておいた」
「愛でなくていいからっ! それ失敗作だし、適当に使い捨ててくれて構わないから」
「使い捨てなんかするものか。リリィが俺の為に縫ってくれたハンカチだぞ、一生大切にする」
そう言って、ギルが私の肩をキュッと抱き寄せた。
一生大切にする……
その言葉に鼻の奥がツンとする。誰に見せても馬鹿にされそうな、下手くそな刺繍なのに。こんなハンカチ、絶対に喜ばれないと思っていたのに、ギルは幸せそうに微笑んでくれるのね……。
嬉しくて目を潤ませていたら、ギルが熱い瞳を向けてきた。今の私にはもう、これが何の予兆であるのか分かっている。そっと目を伏せると、やはり温かいものが唇に触れた。
「一生、大切に飾っておくよ。リリィのハンカチ」
しかし。嬉しいけれど、それとこれとは話が別っ!
あんなものを壁に飾るのはほんと勘弁して欲しい。かくなる上は、早急に刺繍の腕を上げ、新しいのと取り換えて貰わなきゃ!
――――まあ。恥ずかしいのは額縁の中身だけじゃないけれど。
久し振りに入ったギルの部屋は、幼い頃にやらかした私の痕跡が至る所に残っていて、わりと居心地が悪かった。どうして子供の頃に描いた落書きが未だに残っているのよ……。ここの使用人、ちゃんと掃除しているのかしら?
彼の急変ぶりに、日々戸惑いを隠せない。ギル曰く、これまでは私に嫌われまいとかなり控えていたらしい。それが今では、シロップの海で溺れそうなほど甘ったるくて……あれで仕事中はキリリとしているから、不思議なものだ。
あの日も、簡単な手当てを受けた後、ギルはアドルフ様と連れ立って視察に出ていった。
「今日も愛されてるわね、リリィちゃん」
ギルと2人きりでべたべたしていたら、ジゼル様がやってきた。ぎょっとして身を離そうとする私とは逆に、ギルは迷惑そうにジゼル様を睨むだけで、私をがっちり抱えたまま離さない。
「何の用だよ、母さん」
「嫌ねえ、そんな顔しなくてもいいじゃない。溺愛も程々にしないと愛想つかされるわよ」
「新婚なんだし、いいじゃないか」
「それにしたって目に余るから、言ってるんじゃない。リリィちゃん、考え直すなら今のうちよ?」
「っ、余計なことを言わないでくれ」
ジゼル様も今ではすっかり私たちを温かく見守って下さっている。
……というか。初めからずっと、ジゼル様は私たちを応援して下さっていたのだ。
――――図らずもハンカチを渡してしまったあの後。感極まったギルにキスをされて、ぼうっとしていると、パチパチとどこからともなく拍手の音が聞こえてきた。
ぎょっとして周囲を見回すと、物陰から屋敷中の使用人がわらわらと集まってくるではないか。その中には、どこかへ消えたはずのエマとケインも混ざっていた。
「な、なんだこれは。どういうことだ、ケイン」
「私一人だと、ギルフォード様を取り逃がす可能性がありますからね。どうしてもリリィ様と話し合いをして頂きたくて、他の者にも協力を頼んでいたのです。もちろん、ジゼル様にもです」
「え、お義母さまっ!?」
先ほどまで私たちに厳しい態度を取っていたジゼル様が、くるりとこちらを向いたかとおもうと、にまにまと楽しそうに笑っている。
は、謀られた……!
背を向けていたのは、怒っていたからじゃない。にやけた顔を見られないようにしていたのだ。
「やっと本音が言えたわね。ほんと世話が焼けるわねえ、あなた達」
くすくすとジゼル様が笑う。そのたびに緑色のドレスがふわりふわりと揺れている。
そういえば、寝ている所を起こされたというわりに、ジゼル様は繊細な作りのドレスをきっちりと着こなしていた。今思えば、その時点でおかしいと思うべきだったのだ。
ああ、でも。
「…………ありがとうございます、ジゼル様」
騙されていて良かった。本当に良かった。
ジゼル様のおかげで、私たちは気持ちが通じ合えたのだ。
ギルの足は全治一ヶ月の診断が下りた。
幸い骨は折れていなかった。しかし重度の捻挫ということで、完治するまで初夜のやり直しはお預けとなった。問題ないとギルは言っていたけれど、無理は禁物だ。そもそも、眠っている間にギルの足を蹴飛ばしてしまったらと思うと怖すぎる。ちゃんと治るまで、寝室も別にしておいた方が無難だろう。
そうしてしばらく日が経ち、やっとギルの足が治った頃、今度は私に月のものが訪れた。それも今朝ようやく終わり、今夜は久し振りにギルが夫婦の寝室へやってきた。
今は彼と2人、大きな寝台の端に並んで腰かけている。
「それにしてもギルってば、私の気持ちに全然気づいていなかったのね」
オレンジ色に染まる空間が、昼間と違うことを否応なしに意識させられる。今宵の私は初夜にふさわしい夜着を身に着けていて、それがまたいっそう心許なく落ち着かない。
「リリィの方こそ、まったく分かっていなかったよな。俺の気持ち」
ギルも余裕ぶってはいるものの、普段より早口気味になっている。なんだか少しホッとした。ドキドキしているのは私だけじゃない。
お互い、顔を見合わせてくすりと笑った。
「なんだよユリエルって。男同士なのに、おかしいと思わなかったのか?」
「全く思わなかったわ。だってお似合いに見えたんだもの。それに、どんなに可愛い女の子に告白されても全然相手にしないから、私、てっきりギルは女の子に興味がないと思っていたの」
「他の女なんて相手にする訳ないだろ。リリィしか興味ないのに」
「……そんなの、知らなかったんだもの」
甘い声で囁きながら、ギルが私の肩を抱き寄せた。バスローブ姿の彼からは石鹸のいい香りがして、心臓がどくんと鳴る。
……だってあの頃のギルは、こんな風に触れたりしなかったもの。
そもそも、甘い言葉どころかデートに誘われたことすらなかった。ただの幼馴染兼友人のような態度を取られていて、気づけなかった私はきっと悪くない。
……なぜかエマもケインも、私たちの両親も。それどころかなぜか屋敷の皆も私たちの気持ちに気付いていたようだけど……みんなが異様に鋭すぎるんだわ。
「それよりリリィの方こそどうなんだ。ユリエルの事は、ほんとになんとも思ってないんだよな?」
「思ってないに決まってるでしょ」
「それじゃなぜ、あの時喫茶ルームから逃げ出そうとしたんだ?」
「それは……。あの二人、びっくりするくらいイチャイチャしてたから。その、ギルが傷つくと思って」
「……それって、俺の、為?」
こくりと頷く。
だってあの時は、ギルの好きな人はユリエルだと信じていたんだもの。
「まさか金髪も、俺の為?」
「う、うん。その方が、ギルに好かれるかと思って……」
「……馬鹿だな。そんなことをしなくても、俺リリィの黒い髪が好きなのに……。神秘的な色をしていて、艶やかで、綺麗だなってずっと思ってた」
「それも、知らなかったんだもの」
「そうだよな。本当に、思っているだけで何も言わなかった俺が悪かったんだ。知らなかっただろ? 俺がずっと、こうして触りたいと思っていたことも」
ギルの長い指が私の髪を絡め取る。感触を確かめるかのように弄びながら、ギルが私の首筋に顔を埋めた。熱い吐息が肌に触れ、背筋がぞくぞくと反応してしまう。はぁと悩まし気な溜息を漏らして、彼が名残惜しそうに私から身を離した。
「なあ、リリィ。初夜をやり直す前に、プロポーズのやり直しをさせてくれないか?」
「え?」
「あの日、本当は俺から結婚を切り出すつもりだったんだ。……リリィに先越されたけどな」
「う、うそっ!」
「今度こそ、俺の方からきちんと言わせて欲しい」
そう言って、ごそごそとガウンの袖口から小さな箱を取り出した。ぱかっと蓋を開けると、サイズの違う銀色のリングが2つ入っている。
「これは……」
「例のペアリング。あれから取りに行ったんだ。……今夜、渡そうと思って」
ギルがケースの中から小さな方のリングを取り出した。差し出されたリングをまじまじと見つめる。色々な角度からそれを眺めていると、内側に刻まれた文字にふと気が付いた。
見覚えのある数字が並んでいる。やはり結婚した日付が入っているのだと納得していると、その横にまだ文字が続いていた。これはギルと私の、名前の頭文字?
ギルから私へ。そして……
「これが俺の気持ちだ。――リリィ。どうか、俺と結婚してくれないか」
ギルが真摯な瞳を私に向けた。
想いが通じ合っているのに、それでもまだ不安が残るのだろうか。もう片方の指輪が残るケースを、ぎゅっときつく握りしめている。
「自分でも情けなかったと思う。怖がってばかりいて、そのせいでリリィを沢山不安にさせてしまった。白い結婚なんてリリィが言い出したのも、俺がはっきりした態度を取っていなかったからだよな」
ううん、悪いのはギルだけじゃない。
私だって、ずっと自分の気持ちを隠してきたんだもの。ギルとの関係が壊れてしまうのが怖くて。
私も、ギルをいっぱい不安にさせてきた。
「本当に悪かった。これからは、思っていることはなんでも伝えていきたいと思っている。その、俺の愛は少々重いかもしれないが……受け取ってもらえると嬉しい」
確かに、ギルの愛は重い。
それも少々どころじゃない気がしている。
――――――でもね。
「大丈夫よ。ギルからの愛なら、いくら重くても嬉しいだけだから。それに私の愛だって、ギルに負けず劣らず重いと思うわ!」
ギル以外の人に触れられたくないと思った。
愛されなくてもいいから、いつまでも側に居たいと思った。
ギルに好かれるならと、身体を鍛えようと思った。
髪だって、切ろうと思った。
苦手な刺繍も、頑張ろうと思った。
こんな風に思えたのは、全部全部、相手がギルだったから。
私が結ばれたいと思うのは――――いつでも。いつになっても、ギルしかいないと自信を持って言えるから。
――永遠の愛を君に。
それは、私の気持ちでもあるの。
小さなペアリングを指に嵌め、にっこり笑ってギルの大きな手を取った。
「……だからどうか、私をギルの妻にしてください」
「っ、リリィ……」
ギルが熱を帯びた瞳で私を見つめながら、ゆっくりと私の身体を寝台の上に押し倒した。唇を優しく重ね合わせて、大きな手が私の夜着の紐にぎこちなく触れる。そのまま一気に解かれるかと思いきや、ギルが紐に手を触れたままピタリと動きを止めた。
「……ちょっと待てリリィ、この夜着の紐どうなってんだ?」
「どうって……どうかしたの?」
確かこれ、着付けの最中にエマが席を外したから、待つのも面倒になって自分で結んだんだけど。えい!って。
夜着の結び目にえらく真剣な目を向けながら、ギルが唸った。
「…………ぎちぎちに固結びしてやがる…………」
私たちの白い結婚に、鮮やかな色がつくまであと少し――――




