黒のカウント4
薄暗いホールに、ジゼル様の凛とした声が響く。
「聞こえなかったかしら? そんな態度しか取れないのなら、リリィちゃんと今すぐ別れてあげなさい」
緑色のドレスに身を包むジゼル様は妖精のように美しいのに、その可憐な見た目にそぐわない冷ややかな視線を、床にうずくまる息子に容赦なく向けている。
…………ギルと、別れる?
この結婚生活を終わらせてしまいなさいと、ジゼル様はそう仰っているの……?
ドクドクと強い鼓動が耳を打つ。ジゼル様の発言に、ギルは何と答えるのだろか……。
不安に駆られながらギルに目を遣ると、彼もジゼル様の発言に戸惑っているようで、眉を寄せながらごくりと喉を鳴らしている。
「……なに言ってんだよ母さん。まだ結婚して三月も経っていないのに、別れるなんて……。そんな、祝ってくれた皆にも申し訳ないだろう」
同意の言葉が出なくてホッとしたものの、ジゼル様は変わらず冷たい目でギルを見下ろしている。まさか本気で、私たちを別れさせるつもりなのかしら……。
慌てて私も言葉を重ねた。
「そ、そうです! 私の両親も私たちの結婚をとても喜んでくれていましたし、そんな、悲しませるようなことは出来ません」
そうよ。父も母もあんなに喜んでくれたのに、それを裏切って実家に戻るなんて出来ないわ……。
ううん両親だけじゃない。ユリエルもキャサリン様も、式にわざわざ駆けつけてお祝いをしてくれたのだ。他にも沢山の方々から祝って頂いたのに……別れるだなんて。
「……リリィちゃん。勘違いしちゃいけないわ」
ジゼル様がにっこりと私に笑いかけた。その笑みは柔らかいものではなく凄味を帯びていて、肩がきゅっと竦んでしまう。
「ご両親はあなたの結婚をとても喜んだと思うわ。でもね、それは幸せになってくれると思うから喜んだのであって、辛い思いをしているのなら、一日でも早く別れてあげた方が却って喜ぶものなのよ」
ジゼル様の言葉に、ギルがぐっと喉を詰まらせた。
「…………っ、それは、そうかも知れないが……」
全身から嫌な汗が噴き出てきそうになる。ジゼル様は一向に引き下がる気配がなく、それどころか増してくる威圧感にギルが怯みかけている。
ジゼル様……。ついさっきまで、私を応援してくれたのに、どうして。
……ううん、どうしてじゃないわ。ジゼル様が急に態度を変えたのは。
私が、諦めてしまったからだ。
「だが、俺と別れてもリリィは幸せになれないだろう? 初婚と違って、再婚となるといい縁談も望めないだろうし……」
ギルの言うように、わが国での貴族の結婚は、女性は処女性が重視されている。離別された女は傷ものとみなされる為、次の嫁ぎ先となると父親のような年齢の方の後妻に収まるケースが多い。幸せになれる確率は低いだろう。
「あら、リリィちゃんなら心配しなくても大丈夫よ。だってあなたたち、白い結婚なのでしょう?」
「っ、どうしてそれを――――!」
事も無げにジゼル様が言い放つ。その内容は、私たちがずっと隠してきたもので……動揺して思わず本音を叫んでしまい、ハッとして慌てて口に手を当てた。
しまった!
内緒にしていたのに、うっかり肯定しちゃったわ……
ジゼル様がくすりと笑った。
「気付かれていないとでも思っていたの? ギルの様子を見ていれば、そのくらい簡単に分かるわよ。式の翌朝、寝室を覗いたらあなたの深いため息が聞こえてきて、すぐにピンときたわ。この甲斐性なし」
「ぐっ……」
「それに使用人たちからも聞いているのよ。初夜が行われた形跡がないとね」
そういえば、初夜で花嫁は血を流すと母から聞いたことがある。偽装の為にデートを頑張ってみたけれど、それよりもシーツに痕跡を残すことの方が大事だったのね。
しまった、ナイフで腕でも切りつけておけばよかったわ……!
「ギル、あなたはリリィちゃんの顔も見たくないくらい嫌なのでしょう?」
「そ、そういう訳では……」
「リリィちゃん、あなたはギルの事をもう見限っているのでしょう?」
「え、それは……」
確かに、もういいとは言ったけど。
夫の愛を得るのは、諦めるとも言ったけれど。
「不幸な結婚をずるずると長引かせても、リリィちゃんの為にならないわ。さあ。あなたたち今すぐ離縁なさい」
「ジゼル様…………」
唇がわなわなと震えてくる。まさかこのまま本当に、ギルと別れることになっちゃうの?
ジゼル様は腕を組みながら、私たちをじっと見据えている。その瞳には強い意志が宿っていて、意見を曲げる気がないのが分かる。
ずっと避けられていて。ちっともギルに会えなくて。
さっきも、手当てをしようとしたら拒否されて。
ギルは私のことが受け入れられなくて。
本当の夫婦になんて、どう頑張ってもなれなくて。
……でも嫌なの。
ギルと別れるなんて嫌。
辛いままでもいいから、彼の妻でありたいの。
お願いジゼル様、私をここにいさせて……!
じっと祈るように見つめるものの、ジゼル様の表情はぴくりとも変わらない。泣きそうになってくしゃりと顔を歪めたら、彼女がため息をついて踵を返した。
「……荷物をまとめておきなさい。朝食の後、あなたを実家に送り届けるわ」
「や、やだっ!」
「リリィちゃん、あなたの幸せを願っているわ」
話はもう済んだとばかりに背を向け、この場を去ろうとするジゼル様。その華奢な腕を、とっさに掴んだ。だめ。このままだと本当に、ギルと離縁させられてしまう!
「待ってくれ!!」
後ろからギルの叫び声がして。振り向くと、彼が苦痛に顔をしかめながらも、怪我をしていない方の足に体重をかけて身を起こそうとしている。
「ギルっ! 駄目よ、じっとしてなくちゃ!」
「じっとしていたら、リリィが出ていってしまうだろっ!」
慌ててジゼル様の腕を離し、ギルの元へと駆け寄った。私の制止を振り切って、ギルがよろよろと立ち上がる。ジゼル様の後ろ姿に、強い視線を向けながら。
「リリィが好きなんだ。ずっとずっと好きだったんだ。リリィとの結婚は、俺にとって子どもの頃からの夢だったんだ! 離縁なんてしたくない。頼むから、リリィを連れて行かないでくれ!」
「……………………ギル?」
びっくりしてギルをまじまじと見つめる。今なにか、おかしなセリフが聞こえた気がする。そして今、ギルが強固な意志を持ってジゼル様に立ち向かっている、ように私の目には見えている。
え? これも演技なの?
でも、白い結婚だということはもうバレているんだし、これ以上、仲の良い夫婦のフリなんて、しても意味ないと思うけど……。
――――私との結婚が、子どもの頃からの夢だった?
まさか。まさかまさかまさか。あり得ないわ、だってギルにはユリエルが!
「……ちょっと待って。もう演技なんてしなくていいから、正直に答えて。ねえ、ギルが好きなのは、私じゃなくてユリエルなのでしょう?」
「はぁ? どうしてユリエルが出てくるんだ。あいつは男だぞ」
「そうだけど、可愛い顔してるじゃない」
「いくら可愛くても男は男だろ。論外に決まってる」
「………………うそ」
声が震える。私が今の今まで信じていたものは、一体なんだったのか。
「でも、私見たのよっ? デビュタントの翌々日に、あなたユリエルとキスしてたでしょう」
「はぁっ!? ユリエルにキスなんてする訳ないだろっ! どうしてそんな誤解をしてるんだ……。まあ、ヤツがリリィにちょっかいかけようとしたから、威嚇はしておいたが」
「いっ、威嚇って何よ! ユリエルにちょっかいかけられた覚えなんてないわよ。……え、じゃあ、本当に、ユリエルとはなんでもないの……?」
「ああ。誓って何もない」
ギルが私の手を取り、甲に口づける。それからゆっくりと顔を上げ、恐ろしく真剣な眼差しを私に向けた。
「俺が愛しているのは。昔からリリィ、――君だけだ」
真っ直ぐ、射貫くように見つめられ、どくんと胸が鳴る。聞こえてきた言葉が、未だに信じられなくて。けれどエメラルドグリーンの瞳にはしっかりと熱がこめられていて、そういえばこんな顔を何度も向けられていたなと思い出す。
……え、じゃあギルはほんとに私のこと……
「まあ、リリィは俺と別れたいかもしれないが」
「そっ、そんなことないっ!」
じわじわと熱いものが込み上げてくる。私の中でずっと秘められていた想いが、口から溢れ出た。
「私も好き。ギルが好きなの。ずっとずっと好きだったの! ギルと別れて他の人と結婚なんて、私だって絶対に嫌よ……」
「……………………リリィ?」
ジゼル様は相変わらず背を向けたまま、私たちの方を見てくれない。代わりに、ギルがぽかんと口を開けながら、穴の空くほど私を見つめている。
「え、何言って、……は? 俺が好き……?」
「うん、好き……」
真っ赤な顔でこくりと頷くと、ギルの顔もみるまに赤く染まっていった。
「嘘だろ…………」
呆然と呟いて、ギルが口元を手で覆う。私を助けようとした時にすりむいたのだろうか、甲に血が滲んでいた。
「きゃっ、大変! 怪我をしているわ」
「ん?」
とっさに、握りしめていた布地でギルの手を拭う。
「かすり傷だろこんなの。リリィのハンカチが汚れるぞ」
「そんなの気にしなくていいわよ。大したものじゃないから」
「でも、これ刺繍が入っているんじゃないのか?」
「え? 刺繍?」
私の手から、ギルがひょいと布地を取り上げた。端と端を両手で摘まみ、ひらひらと広げたそれは銀色の糸でガタガタに縫われた私の力作であるハンカチ…………
「いっ、いや――――っ!!!!!」
しまった! せっかくエマから取り返したのに、ギルに見られちゃった!!
慌てて奪い返そうとしたけれど、ひらりと躱されてしまった。涙ぐむ私を放置して、ギルがハンカチをジロジロと眺めまわしている。
「もしかしてこれ、俺に?」
「ええと! それはそういうものじゃなくて、その……」
「俺の名前が縫ってある」
そう言ってギルが、なにかを期待するように私をじっと見つめている。
「……うん……。ギルにプレゼントしようと思って、練習していたの……」
「これを、俺に」
かみしめるようにギルが呟く。もう一度ハンカチに目を落とした彼を、恐る恐る窺った。我ながら不器用にも程がある刺繍に、彼が呆れるんじゃないかとか、困っているかもしれないとか、嫌な顔をされたらどうしようとか、ありとあらゆる不安が駆け抜けたその時。
「嬉しい……」
これまで、何をあげてもゆるりと笑っていたギルが。
ハンカチを握りしめながら、ぽろりと涙をこぼしていた。




