黒のカウント3
薄暗い部屋の中で、私はもぞもぞとベッドの中から這い出した。
屋敷の中はしんと静まり返っている。普段の私なら、まだ夢の中にいるような時刻だ。しかし、気持ちが高ぶっているせいか、不思議と眠気は感じない。
……諦めるのはまだ早い、か。
そうね。ジゼル様の言う通りだわ。
たったの一度ギルに逃げられただけで諦めるなんて、確かに早すぎよね。
ジゼル様の言葉を一晩ゆっくり考えて、決心した。ギルをとっ捕まえてやる。そしてきちんと話し合いをするのだ。愛はともかく、幼馴染としての情ならまだ残されていると信じたい。
部屋の扉は薄く開かれていて、そこからエマが廊下の様子を伺っている。ここは夫婦の寝室ではなく私の私室だ。物音を立ててギルに気づかれないようにと、昨夜は自分の部屋で眠った。隣の様子が直接聞こえてこないので、彼の動向が読みづらい点はマイナスだけど、こちらの動きがバレにくいのは利点である。
「どう?」
「まだ動きはありません」
今日は視察に出かける日だ。という事は、ギルは私が起きてくる前にこそこそ屋敷を出るはずだ。そのタイミングを狙おう。
といっても、部屋を出た直後に声を掛けたら、また自室に駆けこまれてしまうだけだろう。だから敢えてホールまでギルを泳がせて、そこで迎え撃つことにする。
大丈夫、きっと上手くいく。何も考えずに突撃して失敗した前回とは違い、今回は頼もしい味方がいるのだ。ギルの侍従であるケイン。彼がホールで待機をし、ギルが降りてきたら足止めをしてくれることになっている。
ケインは剣術のみならず、体術の心得もあるのだ。逃げられそうになっても、彼なら力づくでギルを押さえてくれるだろう。
ふふん、バッチリよ!
「リリィ様、ギルフォード様が部屋を出られました!」
「ありがとう、エマ。すぐに行くわ」
この作戦を実行するにあたり、エマも今日は使用人の部屋ではなく私の部屋に詰めてもらっている。昨夜は遠慮するエマを無理やりベッドに押し込んで、一緒に眠りについたっけ。おやすみ前のガールズトーク、楽しかったわね……ってぼんやりしている場合じゃないわ。
「あ、その前にリリィ様」
部屋を出ようとしたところでエマに声を掛けられた。振り返ると、エマがにっこり笑って顔の横に白いハンカチをひらひらと揺らしている。
ガタガタに縫われた模様がなんとも痛々しいわね……ってそれ! 私の渾身の失敗作じゃない!!!
「リリィ様。この機会に、ギルフォード様にこれを渡してしまいましょう!」
「は!?」
ギルにその失敗作を渡す?
冗談じゃないわ!
取り返そうと手を伸ばしたら、エマにひらりと躱されてしまった。
「ギルフォード様と、これからお話されるのでしょう? ついでにこのハンカチを渡して、リリィ様の気持ちをお伝えしちゃいましょう」
「なに言ってるのよエマ。わざわざ伝えなくても、ギルは私の気持ちなんて知っているわ」
「そう思っているのは、リリィ様だけですっ!」
――――まさか。
『いつかは、リリィと本当の夫婦になれたらいいなと思ってる』
私の気持ちに気づいていないなら、あんなことギルが言い出すわけないじゃない。
「それともはっきりギルフォード様に申し上げたのですか? リリィ様のお気持ちを」
「そりゃ、口にしたことはないけれど……してもしなくても結果は変わらないわ。私の気持ちをはっきり伝えたところで、はっきりと拒絶されて終わるだけよ」
「…………」
エマがじっとりとした目で私を見ている。
な、なによその目……。
ギルは私の気持ちを知っている。その上で、無理なものは無理だと彼は言ったのだ。だから気持ちを伝えるよりも、誤魔化す方が関係を修復しやすいと思うのだけど……。
「ああっ、もう我慢できません! このハンカチ、ギルフォード様に渡してきます!」
「ちょっ、待ちなさいよエマっ!」
エマが私の制止を振り切って、廊下にさっと飛び出した。
私も後を追いかける。2階の手すりからちらりとホールに目を遣ると、階段付近でギルとケインがなにやら喋っているのが見えた。私の依頼通り、ケインがギルを足止めしているようだ。
……まずいわ。
このままだとエマが、あの世にも恐ろしいハンカチをギルに渡してしまう!
階段を降りようとしたエマに、両手を伸ばして飛びついた。
ふふん。はさみと違ってハンカチは、どこに触れても怪我をしないのだ。全力で奪いに行くわよ、エマ!!!
「返してっ!」
「あ!」
伸ばした手がハンカチの端に触れた。エマから強引にハンカチを奪い取ろうとして、勢いよく掴んで腕を振りあげると、その反動で体がぐらりとよろけてしまった。
「きゃっ!」
「リ、リリィ様……っ!」
驚いたエマがハンカチから手を放す。やった、ハンカチは無事奪取した。けれど踏み抜こうとした足場がそこになくて、片足が空を切る。
やだ、落ちる……!
ふわりと浮遊感を感じて、思わずギュッと目をつぶった。
「リリィっっ!!!」
――――次の瞬間。どん、と何かにぶつかる衝撃がしたけれど。
それは覚悟していたものよりも、ずっと優しい感触で。恐る恐る目を開けたら、私はギルにしっかりと抱き留められていた。
「ギル…………」
私の顔を覗き込みながら、ギルがめちゃくちゃ心配そうな顔をしている。
「大丈夫かっ!? どこか、痛いところはないか……?」
「私は大丈夫だわ。ギルが受け止めてくれたもの」
「そうか、それなら良かった……。頼むから気を付けてくれよ、めちゃくちゃ焦ったんだからな」
「心配かけてごめんなさい……」
「まぁ、間に合ったからいいけど」
そう言って満足そうに微笑んで、ギルが私の頭を優しく撫でた。
嬉しくて、涙が出てきそうになる。ギルの笑顔と温かな手の感触が、元の私たちにやっと戻れたような、そんな気がして。
「それよりもギル……ギルの方こそ大丈夫なの?」
ギルに受け止めて貰えたおかげで、どこにも痛みは感じない。それより私の下敷きになったギルこそ大丈夫なのかと不安になってきた。慌ててギルの身体から離れようとして、投げ出された彼の長い足に私の足がこつんとぶつかった。
「俺は大丈……っぐぅ!」
「やっ、やだ! ごめんなさいっ!」
「…………………………いや、平気、だ」
嘘。ものすごく顔をしかめているじゃない!
ギルの足に目を遣ると、足首が真っ赤になって腫れあがっていた。これは酷い。
「全然大丈夫じゃないわ! ギルの足、腫れてる……」
「こんなの、ちょっとひねっただけだろ。すぐ治るさ」
「早く冷やさないと。ちょっと待ってて、タオルを湿らせて持ってくるわ」
「いや、そこまでして貰わなくとも……っつう!」
立ち上がろうとしかけて、ギルが再び顔をしかめた。ふらつく身体を支えながら、もう一度ゆっくりとギルをホールの床に座らせる。
「駄目よ、今はじっとしていないと」
「……すまない、リリィ」
「いいえ、元はと言えば私が悪かったのよ。ギルがこうなったのは私のせいだわ。だから私が手当てをするわね。……ギルとはゆっくり話したいこともあるし」
「っ!」
使用人たちもまだ眠っているような時間だ。
エマとケインも、気を利かせたのか、いつの間にかどこかへ消えちゃってるし。ここは一つ、怪我の原因を作った私が頑張らないと!
「いやいやいや、リリィは何もしなくていい。もう部屋に戻るんだ」
「むっ。なによ、そんなに私に手当されたくないの?」
「そんなことは言ってない!」
「それじゃ私に任せてよ。ついでにお話をしましょう」
「やっ、やめてくれ! ……まだ覚悟が出来ていないんだ」
ギルがなぜか大慌てで私の手当てを嫌がっている。
覚悟ってなによ。そんなに私が信用できないの?
「覚悟なんていらないわ! ただちょっと患部を冷やすだけよ。慎重にするから大丈夫。――あ、ちなみに話っていうのは、あなたとの結婚を」
「だから覚悟が出来てないって言ってるだろっ!」
…………そんなに嫌なの? 私の手当て。
ホールがシンと静まり返る。お互いしばらく沈黙しながら見つめ合っていると、どこからかコツコツと軽やかなヒールの音が聞こえてきた。
「これは一体なんの騒ぎなの?」
「お義母さまっ!」
広間の方からジゼル様がこちらに向かってやってきた。緑色の薄い布地をいくつも重ね合わせたドレスを着ていて、裾が歩く度にゆらゆらと可憐に揺れている。
「ギル、あなた何を大きな声で騒いでいるのよ。リリィちゃんが手当してくれるというのだから、やってもらえばいいじゃない」
「母さんは関係ないだろ……」
「大ありだわ。せっかく気持ちよく眠っていたのに、あなたの大声のせいで起こされちゃったのよ? さあさあ、変な意地など張ってないで、リリィちゃんに手当をしてもらいなさいな。ついでに、夫婦でゆっくり語り合うといいわ」
「っ、だからいらないと言ってるだろ! リリィもさっさと部屋に戻れよ」
「まあ……なんて態度なの」
ジゼル様がキッとギルを睨み付けるも、ギルの様子は変わらない。私を受け入れるどころか、気まずそうに目を逸らされてしまった。
どうして? どうしてそんなに嫌がるの?
本当は私と、顔も合わせたくなかった?
さっきは、昔の私たちに戻れたと思ったのに。
あれは私の気のせいだったのね。
無理なものは無理、……か。
――――もう、私たちは元に戻れない。
そう、そういうことなのね……
「……いいんです、お義母さま。もう戻ります」
「リリィちゃん……」
ジゼル様が、帰ろうとする私の腕に手をかけて、引き留めようとした。その手を、やんわりとはがして首をゆるゆる左右に振る。
「もういいんです」
ごめんなさいジゼル様。応援して下さったのに、やっぱり私じゃダメでした……。
ジゼル様が私に何か言いたげな顔をした。慰めの言葉を掛けようにも、掛ける言葉が見つからないといったところだろうか。ぐっと言葉を詰まらせて、それから温度の消えた瞳でギルをじろりと見下ろした。
「――見損なったわ、ギル。もういいわ。そんなにリリィちゃんが気に入らないのなら、……彼女を今すぐ実家に帰しておやりなさい」




