黒のカウント2
ギル視点です。
水色の壁紙には、女の子の絵が描いてある。
俺の宝物であるこの絵は、リリィが俺の為に描いてくれたものだ。夕刻になると、せっかく遊びに来た彼女が帰ってしまうことが悲しくて、しょげていると自分の絵を描いて俺を慰めてくれたのだ。
『ほら、これでさみしくないでしょ』
ちなみにこの絵は2代目だ。初代の絵は、描いてもらったその日のうちに、何も知らない使用人の手によって綺麗に消されてしまった。大事に残しておきたかったのに、夕食を終えて部屋に戻ると彼女の痕跡はもうどこにも残されていなくて、幼い俺は膝をついてぼろぼろと泣いていた。
それ以降、壁に描かれたものは絶対に消すなと使用人には言い聞かせておいたけれど、残念ながら宝物がこれ以上増えることはなかった。俺の部屋を訪れた彼女の両親が、壁に落書きをしてはいけないと彼女をこっぴどく叱っていたからだ。
小さな机の白い脚には大きな傷跡がある。幼い彼女が転んだ時に、手にしていたおもちゃをぶつけてついたものだ。あの頃からリリィはそそっかしくて、お転婆で…………無邪気で飾らない女の子だったな……。傷跡に指を添わせながら、当時にしみじみと想いを馳せる。
机の上には、一冊の絵本が小さなイーゼルで飾るように立てかけてある。幼い彼女の、一番のお気に入りだった絵本だ。これを俺が読んでやると、彼女はいつも嬉しそうにしてくれた。蕩けるような笑顔の彼女は胸がキュンと鳴るほど可愛くて、それを見るたびに俺は温かな気持ちになれたのだ。それはとても幸せな時間だった。いつまでもずっと、続けばいいと俺は思っていた。
「いつまでもじめじめなさらないでください。カビが生えますよ」
リリィとの想い出に浸っていたのに、いつの間にかケインが俺の部屋に入り込んでいた。窓の外はいつの間にか暗くなっている。こいつ、俺を食堂まで引きずり出す気だな……。食欲なんて、どん底まで落ちているのだから放っておいてくれ。
「ふん。カビでもキノコでも、好きにすればいいさ」
「カビが生えたら、この壁紙は全部新しいものに取り換えさせて頂きますが、それでも宜しいのですか?」
「それは駄目だ! 壁紙を変えることだけは絶対に許さない」
「ギルフォード様……。リリィ様のことがそんなにお好きでしたら、避けている場合ではないと思いますよ」
ケインに痛いところを突かれて、ぐっと言葉に詰まる。
そう。リリィを泣かせたあの日から、俺はずっと彼女を避け続けている。食事の時間もずらしているし、もちろん夫婦の寝室にも立ち入ってない。視察がある日は彼女が起きてくる前に屋敷を発っているし、そうでない日は執務室に早朝から籠り切っている。
ケインには可哀想な子を見るような目で見られている。何度も話をしろと言われて、それが正しいのだと俺だって一応理解はしている。本当はすぐにでも顔を合わせて謝罪するべきだ。けれど、リリィの口から決定的な言葉を聞くのが怖くてずるずると引き伸ばしてしまっている。
あんなことをしでかしてしまったのだ。
リリィに、嫌われてしまったかもしれない。
俺の顔なんて、2度と見たくないと思われているかもしれない。
……いや、思われているだろうな。
無理矢理は駄目って言われていたのにな。
可哀想に、リリィは怯えていたのに……俺はすっかり頭に血が上っていて、途中で止めてやれなかった。
――――あの日のことを、赦せないと言われてしまったら。
リリィと顔を合わせて、彼女と話をしたとして。俺との結婚を解消して、この家から出ていきたいと言われてしまったら…………俺はもうどうしていいか分からない…………
「キスよりも、むしろこの態度の方が問題かと」
「いいや、キスの方がはるかに重大で問題だ! どうせリリィは俺なんかに会いたくないさ…………って、え? ど、どうしてケインがそれを知っているんだ! まさかお前覗いていたのか?」
「覗くわけないじゃないですか。そんな事をしなくとも大方の予想はつきますよ。どうしようもなく沈んでいるかと思えば、時折思い出したようににやけていますから」
「……っ! にやけてなどいない!」
リリィの唇、柔らかくて甘かったな……とか思っていたのは事実だが……
顔に出してはいないはずだぞ。たぶん。
「隠し通せていると思っているのはギルフォード様お一人だけです。そもそも仮初とはいえ一応夫婦なのですし、キスぐらいで思い悩む必要はないのでは?」
「泣かせたんだよ! リリィを……」
そうだ。リリィは俺にキスをされて泣いていた。
俺とのキスは泣くほど嫌だったのだ。
はは、ダブルでショックだ。リリィの好きな奴がユリエルだったと分かっただけでも衝撃を受けたのに。
そう、リリィの好きな相手とやらは、ユリエルだった。はっきりそうと聞いてはいないが、まず間違いないだろう。直前まであんなにはしゃいでいたのに、奴らの姿を見た途端、リリィは震えながら店を飛び出していったのだ。あいつら周囲がドン引くレベルでいちゃついていたからな。彼女にとっては見るに堪えなかったのだろう。
……そうか。ユリエルだったのか。
そりゃ、叶わねーわ。あいつはキャサリン嬢に夢中だし、キャサリン嬢もユリエルのことをめちゃくちゃ気に入っている。あの2人は崩せない。いくらリリィがユリエルを好きでも、諦めるしかないだろう。
ユリエル……
あいつ、リリィのお気に入りだった絵本に出てくる王子さまと、似てるんだよな。そうか、リリィは金髪碧眼が好みだったのか……。俺は銀髪だし、瞳だって全然色が違う。
「…………髪を金に染めるか」
「は?」
「そうすれば、少しはリリィの気がひけるかもしれない」
「何バカな事を仰ってるんですか。そんなことで女性の心は動きませんよ」
「じゃあどうしろって言うんだ! 贈り物もした! 恋人のように触れ合ってもみた! それでもリリィは俺よりも……他の男のことが忘れられないんだ……。もうこれに賭けるしかない。俺は決めた、これから髪染めの溶液を買いに行く」
「お待ちください。こんな時間からどこに行くおつもりですか」
そういえば窓の外は暗かった。
もう店も閉まっているな。仕方ない、買い出しはまた明日にするか。
「それよりも、リリィ様に愛の言葉を囁いていましたか?」
「愛の、言葉……?」
「そうです。贈り物を黙って渡していては、好意は正しく伝わりませんよ。触れ合いも、まさか無言でベタベタしていた訳ではないですよね?」
「それは…………言ってないが……」
咎めるようなケインの視線に、居たたまれず目を逸らす。
確かに、はっきりと言葉にした事はないが……
でも、俺の好意は正しく伝わっているはずだぞ。そもそも、結婚を持ち掛けてきた時にリリィに言われたからな。俺の気持ちは分かっていると。とっくに気づいていたと彼女は言っていた。
「い、いや。言ってはいないが、リリィは俺の気持ちを知っているんだ」
「ギルフォード様の気持ちをお分かりになられている? それは本当に、果たして正確に理解されていると言えるのですか?」
「そ、そのはずだが……」
「そんなあやふやなもので濁さずに、一度くらいはっきりと言葉にされてはいかがですか」
「そしてはっきりと拒絶をされるのか。……もういい。俺はこれ以上傷つきたくない」
呆れたように溜息をつくケインの背中をぐいと押し、俺は口うるさい侍従を部屋から追い出した。
◆ ◇
翌朝、まだ薄暗い中、俺はもぞもぞと起きて出掛ける支度をした。
今日は視察の予定が入っている。本来、父と連れ立って行くことになっているのだが、リリィと拗れてからは一足先に屋敷を出て、現地で集合させてもらっている。
朝食は道中で適当にとることにしよう。時間はたっぷりあるのだ。そういえば近くに人気のパン屋があったはず。リリィにも何か土産に買ってきてやろう。……ちゃんと渡せるかどうかは謎だが。
部屋の隅には、いずれリリィに渡すつもりの土産が積まれている。パンは他のものと違い放置すると腐らせてしまうから、ケインに後で託すことにしよう。また嫌味なことを言われるだろうが、背に腹は代えられない。
「さ、行くか」
コートを羽織り、廊下に出た。隣の部屋にちらりと目を遣って、誰も出てくる気配がないのを安堵しつつも、どこか寂しいものも感じてしまう。
リリィは未だに夫婦の寝室で眠っているようだった。あんなことがあったのに、どうしてなのか……その意図なんて知りたくもない。俺にとっていいことであるはずがない。
2階の手すりからホールを覗くと、そこにはケインの姿があった。
こんな時間にどうしてここにいるんだ。
眉をひそめながら階段を降りていく。一番下まで降りると、ケインが俺の側までやってきた。こいつ、一体なんのつもりだ。
「ケイン。お前はついてこなくていい。まだ早い、もう少し寝てろ」
「それは私の言葉です。ギルフォード様、もっとゆっくりお休みになられてください」
「どうせベッドにいても、ろくに眠れないから一緒だ」
「それでも横になるだけで違います。ここのところ、朝は早いし夜だって遅い。無茶をして倒れても知りませんよ」
ちっとも引こうとしないケインに、どんどん苛立ちが募ってくる。
もういい。こいつに関わっている暇はない。ケインの脇を無言で通り抜けようとしたら、俺の肩をケインが掴んで引き留めようとした。はずみで、くらりと身体が揺れる。
ふらついた俺の身体をケインが支えた。
「……ほら。だから言ったじゃないですか」
「…っ」
ケインはいつも正しいことを言っている。そんなことくらい俺だって分かっている。リリィを避けるために俺が無理をしていることも、それに対してケインが心配していることにも、とっくに俺は気付いていた。このままではいけないことにも。
珍しく優しいケインの声色に、張りつめていたものが溶けそうになる。
「分かっているけど、どうしようもないんだ。ケイン……」
「ギルフォード様……」
リリィに会いたい。けれど……それ以上に怖い。
ケインの肩越しに、2階の部屋からリリィが出てくるのが見えた。窓の外はまだまだ薄暗い。彼女が起きてくるような時間ではないのに、ここにいるなんて。
……ついに幻覚まで見るようになってしまったのか、俺は。はは、重症だな。
自嘲しながらリリィの姿をぼんやり眺めていると、侍女となにやら騒ぎながら階段の方へとやってくる。リリィは幻覚の中でも元気いっぱいで、懐かしい彼女の姿を食い入るように見てしまう。
「っておい!」
考えるよりも先に身体が動いてた。俺は慌ててケインを押しのけて、彼女の元へと足を滑らせた。