黒のカウント1
あれからお互い無言のまま、馬車に揺られて屋敷に戻った。
屋敷の皆も異変を感じていたようで、出迎えてくれた使用人は私たちを見て表情を曇らせた後、気まずそうに笑っていた。
屋敷に戻った後、ギルは部屋に籠ったまま、食事の時間が来ても外に出ようとしなかった。
こんなことは初めてだ。すっかり遅くなった昼食も、夕食の時も、ギルは食堂はおろか廊下にすら姿を現さない。食事も喉を通らないほど、ユリエルの事で思い悩んでいるのかしら……。
今夜は、夫婦の寝室に彼は来ないかもしれない。
……ううん、きっと来ないわ。
ギルは今ユリエルの事でとても傷ついている。しばらく一人でいたいはず。
それなのに夜が来て。湯浴みを終えて、今日も隣へと続く部屋の扉を私は開けてしまうのだ。静寂に包まれた部屋の中、オレンジ色の光に照らされているのは私しかいないのに。2人掛けのソファにも、大きな寝台にも、やっぱり彼はいない。
広すぎるベッドの上で一人、仰向けになって寝転んだ。予想していた通り、ギルはいつまで経ってもやってこなかった。立派な細工の天蓋を眺めながら、今の自分を顧みて笑う。あんなことがあったのに、それでもいつもの日常を期待して私はここに来てしまったのだ。
――――無理なものは無理……か。
最初から分かっていたことじゃない。好きでもない女性に触れたくないと、初めからギルは言っていたじゃない。それなのに私は何を期待していたの……。
初心に戻るだけだわ。
彼と私は幼馴染で友人なのだ。
彼と特別な関係になれなくてもいい。側に居られるだけでいい。友達として仲良くやっていけたら、それで十分だわ。
――――そう、私はギルと。好きな人と白い結婚をしたのよ。
◆ ◇
形だけの夫婦でいい。
そう新たに決意したのに、翌朝になってもギルは私の前に姿を現そうとしなかった。
次の日も。そのまた次の日も……同じ屋敷で暮らしているはずなのに、なぜかギルの姿を見かけない。
夫婦の寝室にはもちろんのこと、屋敷の中ですれ違うことすらない。食事の時間もずらされているのか、食堂で顔を合わせることもなかった。
視察に出かける日も、私が起きた頃には既に出発した後で、挨拶どころか姿すらも見かけない。帰りも遅く、どうやら私が眠った後に帰宅しているようだった。
なんて徹底しているの。
ギルは明らかに私を避けている。もしかしたら私にあんなことをして気まずいと思っているのかも。心配しなくても、ちゃんとなかったことにしてあげるのに……。ギルは意外と繊細なのよね。私と違って。
そう、ギルは昔からよく分からないことで簡単に落ち込むところがある。まあ、適当に慰めていたら、いつもすぐに元気になってくれたけど。
ギルに会いたい。会って話がしたい。私相手じゃ無理だと言うのなら、フリすらしなくていいと彼に伝えたい。そう思って一度ギルの帰りを待ってみたけれど、私の姿を見た途端、「こんな時間まで、起きて待とうとするんじゃない!」と叫びながら彼は慌てて自室に駆けこんでしまった。
無理強いするつもりなんてないのに。
だから姿を見せてよ。
せめて今まで通り、仲の良い幼馴染として共に過ごして欲しいのに。
…………それすらも、もう。諦めるしかないのかしら。
「リリィちゃん、ちょっといいかしら」
すれ違いの日々がしばらく続いていたある日、ジゼル様が私の部屋にやってきた。
扉を開けると、ジゼル様の侍女が美味しそうなマフィンの入ったバスケットを携えている。どうやらお茶のお誘いのようだ。時計を見ると、丁度ティータイムの時間となっていた。
あまり気乗りはしないけれど、ジゼル様の誘いを無下には出来ない。2人を丁重に部屋に招き入れ、エマにお気に入りの紅茶を淹れさせた。
湯気の立ち昇るカップからは、私の好きな青々とした香りが漂ってくる。
「うん、いい香りだわ」
すれ違いの毎日が続いていたにも関わらず、茶葉は切らされることなく私に届けられていた。主にケイン経由で。こういうところ律儀よねギルも……。
お茶を一口飲み、ジゼル様から頂いたマフィンを口に放り込む。優しい焼き色をしたマフィンからはバニラの甘い香りがした。
「どう? このマフィン美味しいでしょ」
もぐもぐとマフィンを食べる私を見て、ジゼル様が満足そうに微笑んでいる。
「リリィちゃんはこういうのが好きだと思って、今日は朝から特別に用意させたのよ。ミュミュのお菓子も美味しいけれど、うちのシェフが作ったものも負けてないでしょ?」
「私の為に、これを?」
「なにがあったのか知らないけれど、気分が優れない時は美味しいものを食べるのが一番よ」
「お義母さま……」
ジゼル様、私を心配して下さったのね……。
ギルとすれ違うようになってから、私も部屋に籠りがちになっていた。屋敷の中で彼と出くわして、また逃げられたらと思うと気が重かったからだ。ジゼル様たちの前では普段通りを装っていたけれど、様子がおかしいことに気づかれていたのね。
私の為に用意して下さったマフィンは、しっとりしていてふわふわで、めちゃくちゃ美味しかった。
「……とても美味しいです」
「でしょ。彼ね、昔は宮廷のお抱えシェフだったのよ」
「えっ! そのような方がなぜここに……」
「あの人に結婚を申し込まれた時、私言ってやったの。毎日美味しいものを食べさせてくれるならいいわって」
そう言って、ジゼル様が悪戯っぽく片目をつぶった。
アドルフ様ってば、よっぽどジゼル様に惚れ込んでいたのね。……羨ましい。
「ところでリリィちゃん。お友達はその後どうなったのかしら?」
「へっ、お友達?」
「ほら。夫の愛を得たいと言っていたでしょう?」
「あ~……、お友達ですね……。あの子は、ええと、そのう……」
ジゼル様の目をまともに見れなくて、視線が下に落ちる。ティーカップの中で揺れているオレンジ色の水面に映る私は、なんとも情けない顔をしていた。
「……夫の愛は得られませんでした。彼には忘れられない人がいて、どう頑張ってもその方には敵わなかったんです」
「あらあら……こじれているのね」
本当になにをやっているのかしら……とブツブツ呟きながらジゼル様がマフィンにかじりつく。本当、私ってば何をやっていたんだろう。今思えば何もかもが空回っていた。私が良かれと思ってしたことで、ギルに喜んでもらえたものなんて何一つなかった。
「お義母さま、折角アドバイスを頂いたのに活かせなくてすみません。私、もう諦めます!」
「んっぐ!」
「わわ、大丈夫ですかっ!?」
口の中に入れたマフィンをジゼル様が慌てて飲み込んだ。むせ返るジゼル様の背中をトントンと叩いて、紅茶がなみなみ入ったカップを渡す。
それを受け取って、ぐいっと一気に飲み干した後、ふぅと息を吐いたジゼル様が私にぴしりと人差し指を突きつけてきた。
「リリィちゃん、諦めちゃダメよ!」
「でも……」
「いいこと? 夫の愛を得たいのなら、夫の愛を信じなくてはいけないのよ?」
「夫の愛を、信じる?」
「そう。信じなくては得られるものも得られないわ。分かるかしら?」
「……でも……」
ないものを、どうやって信じるというの……
そもそも避けられているのに。
「諦めるのはまだ早いわ。そもそも、想いをちゃんと伝えているのかしら?」
「…………」
伝えたいのよ私も。いい友達でいましょうと彼に言いたいの。
でもギルが顔を合わせてくれないのだ。どうしろというのだ。
「諦めるなんて、やれることを全部やってからよ。心配しなくても大丈夫、あなたたちは結婚しているのですもの。想いさえ伝えてしまえばきっと上手くいくわ―――――って、お友達に伝えてくれるかしら?」
やれることを全部やってから……か。
私には、まだまだやれることが残されているというの?
「分かりました。お義母さまのおっしゃる事、少し考えておきます――――と、恐らく彼女も言うと思います」
「頑張るのよ、リリィちゃん」
銀色の髪を揺らしてにっこり笑うジゼル様は、あの人に似ていて……
懐かしい彼の笑顔に、もう一度会いたいと私は思った。




