銀色の九夜目
2階にある喫茶ルームの入り口にて、私は立ち竦んでしまっていた。
だってユリエルとキャサリン様がいる……。
一体どういうことなの。
まさか、ユリエルはギルとの約束を破って、キャサリン様とここに来ているの?
2人は相変わらず仲が良いようで、ユリエルは生クリームたっぷりのショートケーキをキャサリン様に手ずから食べさせてもらっている。
ユリエルったら、でれでれしすぎだわ……
キャサリン様も、微笑みながらユリエルの口元を見つめちゃってるし……
「おい、リリィ?」
背後から戸惑うギルの声がする。私の後ろにいるギルにはユリエルたちの様子が見えていないのだろう。ユリエルたちのテーブルは入り口から右手にそれ、少し奥まった位置にある。
ユリエルとキャサリン様は、4人掛けのテーブルなのに正面ではなく隣に座り合っていた。それぞれが恋人の方を向き、お互いを見つめ合いながら、キャサリン様はフォークを使って片手で器用にケーキを切り分け、ユリエルの口元に楽しそうにそれを運んでいる。
キャサリン様のしなやかな左手はひざの上に置かれていて、その上からユリエルの手が覆いかぶさっていた。そして重ねた彼女の手の甲を、時折、指の腹で愛おし気に撫でている。
二人とも、甘い。甘すぎるわ……!
見ているこっちが恥ずかしくなってきた。さすが本物のカップルは違う。偽装デートを成功させるには、イチャイチャすればいいと以前エマから教わったけど……ギルも頑張って仲の良い恋人を装ってくれたけど……これはレベルが違い過ぎるわ……
くらりと眩暈がしそうになる。
とんとん、と促すようにギルに背中を叩かれて、はっとした。
待って。
ギルに、この光景を見せてもいいのかしら……?
好きな人のこんな姿、誰だって見たくないはずよ。そりゃ2人は婚約者同士なのだし、私たちが目撃していないだけで普段からこんな風にいちゃついているのは知っているわ。けれど、なんとなくそうだろうと感づいているのと、目の当たりにするのでは話が違う。受ける衝撃が、天と地ほども違う!
「入らないのか?」
しかも隣のテーブルなのだ。席、どうするのよ。ユリエル達の全貌が見渡せる方の席にするのか、見えないけれど真後ろでいちゃつかれる方の席に座ってもらうのか。うん、どちらも地獄だわ。
それにたとえ視線は逸らせたとしても、声まではふさげない。なにせ隣だ。嫌でも甘い様子は伝わってきてしまう。至近距離でハードにイチャつく彼らを前に、ギルは果たして平静でいられるのだろうか……。
少なくとも、さっきまで見せてくれた笑顔は――――失われてしまうでしょうね。
ぎゅうぎゅうと胸が苦しくなってきた。辛くなるのはギルだけじゃない。ユリエルたちを見て失意に沈むギルの姿を、私だって目にしたくない。
キャサリン様の指先に、白い生クリームが付着した。それに目を留めたユリエルが、クリームにまみれた指に舌を近づけて、美味しそうに舐めとっている…………
こんな人前で……信じられないっ!!!
「~~~っっっ! もう限界よっ、これ以上見ていられないわ!!!」
「は?」
「行きましょ」
くるりと踵を返し、喫茶ルームから背を向けた。
無理だ。あんなところにギルは連れて行けない。私だって行きたくない。
ギルも私も傷つくだけだわ!
「え、どうしてだよ。あんなに楽しみにしていたのに」
「もういい。もういいの」
「なにを急に……って、ああ、ユリエルたちも来ていたのか」
「っ!!! 似ているけど全くの他人よ!」
まずい。ギルがユリエルに気づいてしまった。これ以上余計なものを見せまいと、慌ててギルの手を掴んで強引に引っ張った。大丈夫かしら。一瞬だし、ちらっとしか見えなかったわよね……。
「ちょっと待てよリリィ、本当にどうしたんだ」
「ごめんなさいギル、今日はお菓子を食べる気分じゃなくなってしまったの。本当に申し訳ないけれど、別の場所に行きましょ!」
店員にも謝罪をし、ギルの手を引いたまま店の外へ出る。
……ふぅ。ここまでくればもう安心ね。
「…………ギル?」
そう思って掴んでいた手を離したら、今度はギルが私の手を掴んだ。
◆ ◇
「ギル、待って!」
私の制止の言葉も聞かず、ギルが私の手を掴みながらずんずんと先を歩いていく。さっきと真逆の状況に陥っている。
ギルはどこに向かっているのだろうか。指輪を注文した宝飾店なら方向が逆になる。この道は、ついさっきまで私たちが歩いてきた道で……まさか。
強引に連れられた先には、予想通りランドル家の馬車が置いてあった。
「おい、馬車を出してくれ」
椅子の上で居眠りをしている御者の肩を掴み、やや乱暴にギルが起こした。彼にしては珍しく声が荒くて、御者が驚いたようにパチパチと目を瞬かせている。
「え、もう帰っちゃうの?」
「ああ」
「でも、指輪は……」
「…………」
返答はない。ギルはむっつりと黙り込んだまま、私を馬車の中に押し込んだ。そしてなぜか行きと違って私の隣に座り込んでくる。訳が分からない。
戸惑う私を置いたまま、カタカタと馬車が帰路につき始めた。どうやらギルは本気で、指輪を受け取りもせず帰るつもりらしい。
「あの、ギル?」
「…………」
隣からはひたすら重苦しい空気が漂っている。ちらりと隣に視線を向けると、ギルは肩を落として深く項垂れていた。必死で床を睨み付けている彼が、なんだか泣いているように見えて、慰めの言葉を掛けたいのに上手く言葉が出てこない。
「……ユリエルだったのか」
絞り出すような彼の声にずきりと胸が痛んだ。
「に、似ていたわね」
「全然気づかなかった。……そうか、あいつだったのか」
「…………」
だめだ、誤魔化しきれてない。
「だからあんなに帰りたがったのか。……そうだよな。見たくないよな、好きな奴のあんな姿」
「え……ええ、そうよね。普通は、見たくないわよね」
顔を上げたギルが、私と視線を合わせて苦しそうに眉を寄せている。さっきまでゆるりと笑っていた彼は、もうどこにもいなかった。エメラルドグリーンの瞳には、苛立ちと悲しみと――――いっぱいの切なさが滲んでいる。
これは……間違いない。ギルも2人がいちゃつくところを、しっかりと見てしまったのね。
「金髪ってそういうことだったのか」
「え?」
そういうことって……どういうこと?
言ってる意味がイマイチよく分からないけれど、ギルがショックを受けているというのは伝わってくる。こんなにも辛そうなギルの顔、初めて見た。
「そういえばリリィが昔から好きだった絵本。あれに出てくる王子、よく見るとユリエルにそっくりだよな」
「そ、そうね……」
ギルもやっぱり、そのことに気づいていたのね。
だから、未だにあの絵本を大事にしていたのだ。
「デビュタントで褒められて、嬉しかったのか?」
…………デビュタント???
話がいきなり飛んだ気がするけれど……混乱しているのかしら……
ギルが今にも泣きそうな顔をしている。
なによ。私だって泣きたいわよ。
ギルが、こんなに取り乱すほどユリエルの事が好きだったなんて。
「俺も綺麗だと言えばよかったのか? 可愛いって……もっとはっきり、言っておけばよかったのかっ!?」
「え、と、」
そんなこと私に聞かれても知らないわよ、ユリエルじゃないんだから!
「本当はいくらでも思っていたのに、言えなかった俺が悪かったのか……」
「きゃっ」
ギルが私の肩を勢いよく掴んだ。
「なあ、リリィ……」
なんて切ない声をあげるの。
ギルのもう片方の手が、私の頬に触れてきた。驚いてとっさに背を逸らしたけれど、こつんと背中に固い感触が走る。ゆったりしているとはいえ、ここは馬車の中だ。逃げられない程度には狭い。
顔を上げると、目の前には懇願するような彼の瞳があって。相変わらず宝石のように綺麗なエメラルドグリーンをしているとぼんやり思っているうちに、唇に、不意に柔らかいものが触れた。
――――嘘。…………ギルに、キスをされている。
どうして。
どうして。
疑問はちっとも言葉にならない。だってギルが私を塞いで離さない。
触れた唇から彼の苛立ちが伝わってくる。ぐりぐりと強く押し付けられていて、それはいつも優しいギルらしくない、感情をぶつけるような荒いキスだった。
どうしてこんなことになっているのか、思い当たるのはユリエルしかいなくって。彼がさっきの事を忘れたくておかしくなっているのだと思うと、私の目尻から自然と涙が溢れていた。
唇にキスをして欲しかった。
……でもユリエルを想いながらされたいわけじゃない。
こんなキスは、私の欲しかったキスじゃない。
抗議しようと開きかけた口の中に、なにかが侵入しようとしてくる……
やだ。
こんなのは……嫌っ!
「んんっ!」
思い切り腕に力を入れて、ギルを突き飛ばした。
私に抵抗されて、ギルが一瞬だけ顔をしかめたけれど。泣いている私を見て冷静になったのか、顔色をみるみる青くさせながら呆然と私を見つめている。
「いつか本当の夫婦になれたらと、期待していたが」
カタカタと馬車の揺れる音がする。傷つけられたのは私の方なのに、ギルの方が悲しそうに見えるのは何故なのか。
「……無理なものは無理だったのか」
ポツリと呟いて、ギルは力なく笑った。