銀色の七夜目
ギル視点です。
オレンジ色に染まる閉じられた空間で、俺は彼女の額に今宵2度目のキスをした。
禁は、一度でも破れば自戒としての効果はなくなる。彼女を無理矢理襲ってしまわないようにと、予め引いておいたラインを、たった今俺は越えてしまったのだ。
長い髪が、確かにそこにあるのを手のひらで感じ取りながら、何度も柔らかな頬に唇を押し付ける。もう潮時かも知れない。箍が外れたように彼女に口づける中、どこかで冷静な俺がそんなことを考えていた。
◆ ◇
とっくに限界は超えていた。もう何度もこうしたいのを我慢してきた。彼女を今すぐにでも俺のものにしてしまいたい。それを必死で抑えてきたのは、彼女に逃げられたくないからだ。
リリィには他に好きな奴がいる。そいつ以外に触れられたくないからと、彼女は俺に白い結婚を持ち掛けてきた。だから、いずれは本物の夫婦になりたいという俺の希望を認めて貰えたとはいえ、そう簡単に俺のことが受け入れられないのも分かっている。
最初は手を繋ぐだけで満たされた。この調子でゆったりと関係を進めていけたらいいと思っていた。それが額にキスまで許されて、俺は幸せを噛み締めていたはずなのに。次第に物足りなくなってきた。もっと彼女に触れたい。だって俺のすぐ側で、リリィが寝息を立てている……
柔らかそうな唇を見ていると、触れたくてたまらなくなってくる。
本当は朝まで抱きしめて眠りたい。でもそんな事をすれば抱きしめるだけで済まなくなるのは目に見えている。彼女の同意が得られるまで手を出すわけにはいかない。今の俺に許されているのは、額へのキスと手を繋ぐことだけ。それを自分に課すことで、ギリギリのところで理性を保っていた。
それなのに。
『ちょっとだけ、私を抱きしめてみて』
全く理解していないリリィは気軽にあんなことを言う。ちょっとだけで終わらせる自信なんてどこにもないというのに。昼間の俺があの程度で済んでいるのは、2人きりじゃないからだ。
一晩中同じベッドで眠る毎日は、想像よりも遥かに甘くて辛かった。取り返しがつかないことになる前に、寝室を別にしなければ。頭ではそう思うのに、繋いだ手の温もりをどうしても手放すことができなくて……。
『おやすみのキスはしてくれないの?』
だからあの時、リリィから甘い声でねだられて、俺の中で何かが弾けてしまった。振り向いた彼女が真っ赤な顔をしていたのもいけない。寝る前のキスは額にたったの一度だけ。そう約束していたのに、気付けば夢中で彼女に口づけていた。
額から、柔らかな頬へと唇を滑らせる。今朝食べた白いパンよりもはるかにふわふわとした頬の感触に、脳が焼き切れそうになる。そのまま唇を奪おうとしかけて、ハッとした。
リリィの瞳がきつく閉じられている。
それは記憶にある彼女と同じで、胸に鋭い痛みが走る。そう、あれは結婚式での誓いのキス。今、目の前にいる彼女は、あの時のリリィと全く同じ顔をしている――――……
ふっとリリィの肩に視線をやると、身を竦ませているのが分かった。
まだ、駄目なのか。
やはり俺では、駄目なのか。
ずいぶん距離を詰めたつもりでいた。けれど実際は、何一つ変わっていないという事か。
いっそ、このまま奪ってしまおうか。けれどそんなことをして、拒否されたら余計に辛くなるだけだ。リリィの涙も見たくない。彼女には、やはり笑っていて欲しい。
苛立ちも、こもる熱をも押し殺し、理性をかき集めて俺はリリィから身を離した。暴走したことに対して謝罪をし、彼女に背を向け布団の端に入る。
手は、繋ぐことが出来なかった。
これ以上触れてしまえば、止められないと思ったからだ。この時の俺に出来たのは、ただ後ろを向いて眠ることだけだった。それも全然、上手くはいかなかったけれど。
その日から、夜はもうずっと彼女に背を向けている。俺は今の自分が当てにならないという事を正しく理解していた。2人きりの部屋では、俺を止める奴はいないのだ。リリィを守るためには、出来るだけ彼女から距離を取らなくては……。
彼女を視界に入れてはいけない。甘い匂いを、柔らかなぬくもりを、感じ取ってはいけないのだ。
限界だと分かっているのに、寝室は別にしてやれなかった。
それさえも失くしてしまえば、リリィは永遠に手に入らないような気がしたからだ。彼女の気配をなるべく感じないように気を紛らわせながら、今夜もじっと背中を丸めて横になっている。
夜に比べると、昼間はまだ自制が効く。周囲には常に使用人が控えているからだ。他人の目があると思うとそれだけで歯止めがきかせられるので、俺も安心して彼女に触れることが出来る。
窓の外を見つめるリリィを背後から抱きしめた。俺の腕の中でリリィが身を固くしている。払いのけられずに済むのは周囲の視線があるからだ。俺は卑怯だ。皆の前で普通の結婚をしていると思わせたいリリィの思惑を盾に、こうして好きなように触れている。
「ギル……?」
戸惑うリリィの声に、気付いていないフリをした。困惑させていると分かっているのに、甘い誘惑に抗えない。夜に我慢をしている分、反動は昼にやってくる。彼女を思うがままに抱きしめて、あちこちキスをしてしまう。俺の中にあるなけなしの理性が、辛うじて唇に触れることだけは阻止してる。
「リリィは俺よりも、あのコマドリの方が気になるのか?」
窓には、俺に抱きしめられているリリィの姿が映っていた。外が暗いので、彼女の表情まではっきりと分かってしまう。窓の外をじっと見つめながら、切なげに眉を寄せる彼女の姿に、胸が締め付けられそうになる。
リリィ。君は俺の腕の中で、一体何を考えているんだ。
まさか、好きな男とやらでも思い浮かべているのか……?
絶対に叶わない相手だと言っていたけれど、そんなにそいつが好きなのか?
俺がこんなに、側にいるのに。
困らせていると分かっているのに、腕を解放してやれない。
自己嫌悪に陥りながらも、今度は耳朶にキスをした。触れる度に、彼女がびくりと肩を震わせる。
――――早く。早く俺に慣れてくれよ、リリィ。
俺に触れられて、彼女が笑ってくれる日が来ればいいのに。
◆ ◇
「その指、どうしたんだ?」
悶々とした日々が続いたある日のこと、リリィの指先に黒い斑点のようなものがあるのを見つけてしまった。何か鋭いもので刺したのだろうか。気になって指摘すると、リリィが慌てて指を後ろに隠してしまった。
「なんでもないわ。ちょっと机の角にぶつけただけよ」
「痣というよりも刺し傷に見えたんだが……」
「目の錯覚じゃないかしら。それより、何の用なの?」
怪しい態度だ。幼馴染としての勘が何かあると告げている。けれどそれ以上深く追求することも出来ず、当初の要件を彼女に伝えた。
「次の週末、街に行かないか? 例のペアリングが完成したと店から連絡があったんだ。ついでに、リリィの好きな菓子店でお茶にしよう」
「私の好きな菓子店って……もしかして、ミュミュの?」
「ああ」
「うそっ! あそこの喫茶ルームなんて、すごく人気で予約が半年先まで埋まってるという噂なのよ? 明日いきなり行ったって、入れやしないわ」
「それが予約してあるんだ」
「えっ……」
ミュミュという菓子店は、学生時代に知った。
級友のユリエルに教えてもらったのだ。キャサリン嬢という婚約者がいるだけあって、あいつは女の喜ぶ店についてやたらと詳しい。ちなみにリリィとの初デートで使ったレストランも、ユリエルからの情報だ。この手のことに疎い俺としては、非常に頼もしい友人である。
あれは今からきっかり半年前のこと。ユリエルがキャサリン嬢を誘うために喫茶ルームの予約を取ると言うので、俺もあいつに倣い、リリィに内緒でこっそり予約を取ったのだ。これを使って上手くデートに誘えないだろうか……などといった夢を見て。
「実はユリエルに誘われて、一緒に予約を取ったんだ。だから大丈夫だ」
「そう…………ユリエルと」
お土産としてクッキーを渡した時、リリィは俺に蕩けるような笑顔を向けてくれたのだ。彼女が心底喜んでいる時の顔が引き出せて、早朝から列に並んだ苦労もすべて吹っ飛んだ。
だから、ミュミュの喫茶ルームでお茶が出来ると言えば、手放しで喜んでくれるに違いない。そう確信していたのに、なぜかリリィは浮かない顔をしている。
「リリィ?」
「――――あ、いいえ。それならいいの。ありがとうギル、楽しみにしているわ」
そう言ってにっこり笑ってくれたけど、その笑顔が貼り付けただけのものだという事を俺は知っている……。
なにやら不穏なものを感じ取る。甘い菓子を食べに行くのだ。体型でも気にしているだけ……だよな。強引にそう思うことにして、俺はその嫌な予感に蓋をした。




