銀色の五夜目
白い壁には鮮やかな緑のツタが這っている。
窓辺には赤のゼラニウムが美しい。木製の扉を開けると、ちりん、と可愛い音がした。
ここは女性に人気の雑貨屋だ。とある目的のものを買うために、今日はエマを連れて街までやってきた。レンガ色の棚には美容関連の品も多く置いてあり、他の客同様エマも熱心に見回っている。
その様子を横目で見ながら、私は金色のラベルが貼られている瓶を一つ手に取った。
焦ってない。
焦ってないけど……ふっと、その考えが頭をよぎってしまったのよね……
もしかして、ギルがユリエルを好きになったのは。
絵本に出てくる王子さまに、そっくりだからじゃないかしら…………
「髪の色を変える、のですか?」
「そうよ、エマ。ちょっと金髪にしてみようと思って。ほら、お願いするわ」
街での買い物を終え、自分の部屋に戻った私は、先ほど購入したばかりの品物をエマに手渡した。
この瓶の中には、髪の色を変える溶液が入っている。どんな髪色の人も、ラベルに貼られた通りの色に変えられるという魔法のような液体だ。効果は凄いのだが持続時間が短く、3日程度で元の色に戻ってしまうのが難点である。その為、ちょっとした気分転換やパーティでの変装などなど、一時的な変化を楽しむ為に主に用いられている。
「金髪ですか。そうですね、たまには気分転換に髪の色を変えてみるのもいいと思います。……ですが、なぜにハサミまで……」
「ついでに襟足までバッサリ切っちゃおうと思って。絵本に出てくる王子さまみたいなショートヘア、似合うかしら?」
「似合うもなにも、男の子みたいになっちゃいますよ?」
「それでいいのよ! 思い切って、チョキっといっちゃって」
私と違って器用なエマは、髪も綺麗に切ってくれるはず。
浴室に備え付けてある縦長の鏡には、黒い髪の女が映っている。パッとしない、地味な色。華やかな銀髪の彼とは大違いのこの髪が、私は昔から好きになれなかったのだ。黒の髪も良いと思うとギルが言ってくれたから、今までそのままにしていたけど…………結局、彼が好きになったのは金髪の少年だった。
この髪を王子さまのような金髪ショートにしてみたら、ギルも少しは反応してくれるかな……
短髪にするには勇気がいる。貴族の女性はみな美しく髪を伸ばしているし、ドレスに合わせて豪奢に結い上げているものだ。一度切ってしまえば伸びるまで時間もかかるし、その間は当然髪も結えない。
けれどギルの好みに合わせる為なら、私はなんでもやってやる。それなのに、エマがハサミを片手にいつまでも思案し続けている。
「駄目です! わたしにはできませんっ!」
「やるのよエマ!」
「無理です! こんなに綺麗な髪を切るだなんて、ギルフォード様がショックを受けてしまいます!」
「彼はきっと喜んでくれるわよ。もういいわ自分でやる、貸してっ!」
「――――あっ!」
エマからハサミを奪い取ろうとしたものの、それをされるとマズイと思ったエマが、ハサミを握りしめたまま扉に向かって後ずさる。ハサミは凶器だ。危険なものだと分かっているだけに、私も思い切って彼女から取り上げることが出来ない。
まずいわね。こっそり切ってしまえばよかったわ。
ざっくり自分で切って、最後に整えるところだけエマにお願いすれば良かった。
エマがハサミを手にしたまま、浴室を出て廊下に続く扉を開けた。私もエマの後を追う。待って!!!
「リリィさま、服! 服をきちんと着てください!」
「きゃ! ……って普通に着ているじゃない!」
とっさに反応したけれど、首の周りにタオルを巻いているだけで、それ以外はいつも通りの服装だったことを思い出す。
しまった、逃げられちゃった!
結局そのまま、エマにハサミを隠されてしまうのだった。
◆ ◇
「あれ、……リリィ?」
夫婦の寝室に入って来るなり、ギルが私を見て怪訝な顔をした。あれ?と首を傾げつつ、にっこり笑いかけてみたけれど、笑い返してくれるどころかギルはわなわなと肩を震わせている。
「どう、似合うかしら?」
「な……なんだその髪は……」
なにって、ギル好みの金髪ショートヘアなのよ?
そう、今の私は絵本に出てくる王子さまのような金色のふんわりとした短髪姿になっている。頑なだったエマをどうにかこうにか説き伏せて、ついに髪を切った――――のではなく、ただのかつらなんだけど。
エマは、そこだけは絶対に折れてくれなかったのよね。
それでは他の者に頼もうと、屋敷で働く使用人たちに片っ端から声を掛けてみたけれど、紛失中だとか、修理中だとか、はたまた逃亡中だとか、誤摩化してばかりでちっとも貸してくれない。
しまいには普通のハサミはおろか園芸用の両手ばさみですら厳重に隠されてしまうなんて……私をなんだと思っているのかしら……。
仕方がないので新しいハサミを買いに行こうとしたら、エマがこのかつらを持ってきたのだ。
『そんなに王子さまと同じ髪型にされたいのでしたら、これを被ってギルフォード様の前に現れてみてください。絶っ対に喜んでもらえないと思いますからっ!』
金髪ショートになった私は、ちょっぴり少年のように見えた。これはいけるかもしれない。
そこそこ自信はあったのに、ギルは喜ぶどころか眉をひそめ、唇を引き結びながら私の元へとやってくる。むしろ怒っているようにさえ見える。え……どういうことなの……。
露骨に不機嫌そうなギルが、私の髪、の上から被っているかつらに長い指をそっと差し込んだ。
「なにも切ることないだろっ! 色だってこんな……キラキラな色に変えて…………」
彼が短くなった髪の毛の感触を確かめるかのように、手櫛で梳こうとする。掬い上げるように、下から上に……
あ、駄目っ。
この金髪、ピンで軽く留めているだけだから、そんな風に触ると!
「ちょ、ちょっとギル、やめて」
「って、え? …………かつら?」
……簡単に落ちちゃうのよね。
「ええ、かつらよ」
「…………」
ギルが床に落ちた金のかつらを無言で見つめている。
「……なんだ、かつらか……」
「かつらでごめんなさい。切ろうとしたらエマに全力で反対されてしまったの」
「いや、かつらで良かった……」
かつらの中に押し込めていた黒い髪が、はらりと肩に落ちてきた。ギルがそれを見て、安堵の吐息をついている。さっきから薄々感づいていたけれど、どうやら彼は私の金髪ショートを快く思っていないようだ。
……どうしてよ。
王子さまと同じ髪なのに。ユリエルはいいのに、どうして私はダメなのよ。
「騒いで悪かったな。……もう寝るか」
ふいと顔を逸らされた。ひどく脱力したような彼の声が胸を軋ませる。
ああ、そういうことか。
いくら髪型を変えても、私はユリエルじゃない。
ユリエルじゃなければ金の髪でも意味がない。
ギルは、絵本に出てくる王子さまに似ているからユリエルを好きになったわけじゃない。ユリエルに似ているから、あの絵本を大事にしているだけで……
馬鹿みたい。金髪になりさえすれば愛されると思っていたなんて。
身体から熱が引いていく私のそばで、ギルがもそもそとベッドの中に潜り込んでいく。向けられた広い背中が私を拒絶しているように見えて、更に心が沈んだ。
って!!
「え、おやすみのキスはしてくれないの?」
「え?」
「――――あ」
反射的に口にした。思ったよりも甘ったるい声が出ていて驚いた。虚をつかれたようなギルの声に、しまったと思ったけれど言った言葉は取り消せない。
自分からキスをねだってしまった……。ギルがくるりとこちらを向き、真っ赤になる私をまじまじと見つめながら、性急に身を乗り出してくる。
「口づけをしてほしいのか?」
「え、と……ギルが嫌なら、無理にとは言わないわ……」
「俺はしたい」
その言葉と同時に、ギルの手が私の頬へと伸びてきた。骨張った指が耳の下に差し込まれ、どくりと胸が鳴る。いつもは肩に手を置くのに……どうして。
いつもと何かが違ってる。ギルから妙な色気が漂っている。やたらと熱っぽい彼の瞳から、逃げるように目を逸らすと、額に温かな感触がした。
一夜のうちには一度のキス。それが私たちの暗黙の了解だったはずなのに、離れていく熱を寂しく感じる暇もなく、再び額に柔らかなものが落ちてきた。思わず目を見張る。
もう片方の彼の手は、私の黒い髪に触れている。後頭部から肩、背中へと、なぞるようにギルの大きな手が私の髪を伝っていく。
続けて3度、額にキスをされた後、今度は彼の唇が頬にやってきた。初めは軽く触れていたそれが、徐々に強く激しくなっていく。
何。今、何が起きてるの?
今の状況を理解しようと努めてみるけれど、彼の立てるリップ音が頭に響いて、上手く思考がまとまらない……
「リリィ……」
零れるような吐息と共に、彼の甘い声色がして。形の良いギルの唇が、私の唇にゆっくりと向かってくる……
思わずギュッと目を閉じた。まさかこれから、私たちは口づけを交わすのだろうか。期待と同時に、大きな戸惑いを感じてしまう。だってわけが分からないんだもの。どうしていきなり、こんな展開になってるの……?
だらだらと心に汗をかきながら身を竦ませていたけれど、いつまで経っても思うような感触はやってこなかった。それどころか頬に添えられていた手がすっと離れていく。
あれ、と思って目を開けると、私を真っ直ぐに見据えたまま、ギルがひどく辛そうな顔をしていた。
「…………ごめん。もう、寝ようか」
絞り出すような声でそう言って、ギルが私から離れてベッドの端に潜り込んだ。
まるで、初夜の時のように背を向けて……。
「う、うん……」
おやすみのキスはしてくれたけど。
その夜、ギルは私と手を繋ごうとしなかった。