銀色の四夜目
ギルが私に、昼間も触れてくるようになった。
朝の見送りの時に、彼が私に行ってくるよとキスをする。もちろん夕刻の出迎え時も同様だ。
といっても、ジゼル様たちのような濃厚なものではなく、頬に軽く一度だけ。それでも頬は熱くなるし、肩に触れる彼の手にはその都度ドキドキさせられる。
しばらくすると、それに抱擁が加わるようになった。こちらも軽いハグだけど、今ではすっかり恒例の行為となっている。
「スイートアリッサムが綺麗ね」
「ああ……綺麗だな」
天気のいい日には、仕事の合間に散歩に誘われることも増えた。休憩時間になるとギルが私を連れ出して、2人でランドル邸の庭園内を歩くのだ。色とりどりに咲く綺麗な花を眺めていると、時折肩を抱き寄せられて……
「っ!!」
額に、頬に、ギルの唇がひらりと舞う花びらのように幾つも落ちてくる。
今の、唇の端に近かった……
ぼうっとしながら彼を見上げる。逆光のせいで表情はよく分からないけれど……触れた唇がとても優しいのだけは分かって、たまらなくドキドキする……。
そんな毎日を繰り返しているせいか、屋敷の皆からは仲の良い夫婦だと思われている。愛されてますね、と何度も使用人たちから揶揄われるようになった。
ギルは私に、慣れようとしているだけなのに。
そして愛し合う夫婦のフリも兼ねているのだ。彼は決して、2人きりの時に私に触れようとはしない。そう、わざわざ周囲に見られるようなタイミングを見計らって、ギルは私に触れてくる。
ベッドの中では、相変わらず手を繋いで眠るだけ。
おやすみのキスも、たったの1度だけ。
本当は、2人きりになれる夜こそ抱きしめて欲しいのに。たくさん、キスをして欲しいのに。
「ねえ、ギル。寝る前に少しお試ししてみない?」
あまりにも焦れったくて。おやすみのキスを終えた後、私から身を離した彼の腕を、とっさに掴んだ。
「お試し?」
「ちょっとだけ、私を抱きしめてみて」
「……それは……、また明日の朝にな。さあ、もう寝よう、リリィ」
勇気を出して頼んでみたのに。彼は困ったように笑って、私の手を解いてしまった。
私との触れ合いは、まだまだ無理をしているのかしら。
ギャラリーがいないような時まで、わざわざ触れたくないのかも……。
◆ ◇
「わ、リリィ様が刺繍をされている!」
白いハンカチの端にちくちくと糸を通す私を見て、エマが大袈裟に驚いている。
「失礼ね。私だってたまには、刺繍くらいするのよ」
「すみません。ここ数年見ない光景だったもので、つい」
エマが驚くのも無理はない。彼女と違って不器用な私は、刺繍が大の苦手なのだ。もちろん大嫌いでもある。これは堂々と胸を張って言える。
「これを完成させて、ギルにプレゼントしてみようと思うの」
「わぁ、リリィ様が珍しくまともなことを仰ってます!」
「珍しくは余計よ」
「これで刺繍の腕がまともなら、もっと良かったんですけどねえ……」
刺しかけのハンカチを眺めて、エマが細い息を吐いた。なんとも酷い言い草だ。しかし、私の刺繍の腕前はそれの何倍も酷いと自覚しているので、何も言い返せない。
こんな私がなぜ刺繍をしているのかというと、ギルが欲しがっているものに、実は一つだけ心当たりがあったから。
あれは学園に入学して間もない頃のこと。
『――――え、ハンカチ?』
『そう。ジミーの奴、婚約者から刺繡入りのハンカチを贈られたらしくてさ。すごく自慢されたんだ』
『ふーん。刺繍入りのハンカチねえ』
『いいよなぁ……』
クラスメートの一人から刺繍入りのハンカチを自慢されたギルは、そう言ってちらりと私に物欲しげな視線を向けてきた。
これは、刺繍入りのハンカチが欲しいという事なのかしら?
彼は刺繍入りのハンカチに相当憧れているようで、その後も折に触れ、ハンカチが欲しいようなそぶりを私に見せてきた。この様子だと、幼馴染で友人のポジションである私からでも、贈れば喜んでもらえそうだ。
幸い、私たちは誕生日にプレゼントを贈り合う程度には仲が良い。ここは一つ、いつものプレゼントにかこつけて、刺繍入りのハンカチでも贈ってみようかしら……
刺繍にはまるで興味がなかったし、針と糸に触れたことすらないけれど……なんとかなるわよね。
嬉しそうに笑うギルを想像して、私は浮かれた。家に帰って早速刺繍に挑戦し、私は速攻で現実を叩きつけられてしまった。残念なことに、私の刺繍の腕は壊滅的だったのだ。落胆した私は、黒い過去としてそれを机の引き出しに封印しておいた。
『あれ、リリィ。このハンカチは君が……?』
それなのにある日、ギルが私の部屋にやって来て、引き出しの中にしまってあるハンカチに目を留めてしまったのだ。幼児の手習いよりもはるかに酷い出来である、私の刺繍を――――……
『見ないでっ!』
大声で叫んで、慌ててギルの手からハンカチを奪い取る。その日の晩、私はハンカチを暖炉にくべて燃やしておいた。
その後も、ギルは何度か刺繍入りのハンカチの話を私に振ってきた。その度に素っ気ない対応を繰り返しているうちに、彼がその話をすることはパタリとなくなった。
私にとっては忌まわしい過去なので、出来るだけ触れないようにしていたけれど……ギルが欲しいものなんて、正直これくらいしか思い浮かばないわ……。
結局、ギルは卒業までシンプルなハンカチを使い続けていた。付き合うつもりのない相手から貰っても、後が面倒だと思ったのだろう。あんなに欲しそうにしていた癖に、誰にも頼もうとしなかった。
欲しいものはない?と、あの日ベッドで私が聞いた時に彼は笑顔を凍らせていた。あれは、本当は刺繍入りのハンカチが欲しいと言いたかったのだ。
けれど相手が私だから躊躇した。持つに堪えない、酷い出来栄えのものを渡されそうで……
「あのね。さすがにこれを渡したりはしないわ。これは練習なのよ、エマ」
「練習、ですか?」
「そうよ。今まで不器用だからと逃げていたけれど、本気で練習すれば、ぎりぎり持つことを赦されるようなものが縫えるようになるかもしれないと思ったの」
「それは素晴らしい考えですね。わたしも是非、リリィ様を応援させてください!」
「ありがとう。頼もしいわ、エマ」
あの時は、たったの一日刺しただけで諦めてしまった。
今度はもっと頑張ってみよう。器用なエマに教えてもらえば、一人で頑張るよりもきっと上達するはずよ。
「痛っ!」
「リリィ様、大丈夫ですかっ!?」
ギルがゆるりと微笑む様を思い浮かべながら、私はちくちくと練習を続けていった。
◆ ◇
刺繍の練習は順調に進んでいた。
エマには、雑に数をこなすよりも、一枚の作品を丁寧に仕上げる方が上達が早いと言われた。
エマのアドバイスに従い、一針一針、じっくり時間をかけて丁寧に進めていく。さすがエマ、段々と仕上がっていく刺繍は子供の頃に縫ったものより幾分出来がいい……気がする。ひしゃげたマークはランドルの家紋のように見えなくもないし、斜めに歪んだギルの名前も一応文字として認識できる……はず。
けれど悲しいかな。世間一般の基準からすれば、まだまだ幼児の手習いの域を出ていない。それは真っ白なハンカチが、ところどころ赤く染まっていることが全てを物語っている。
……これも後で暖炉にくべなきゃね。
「少し休憩しましょう、リリィ様。いつもの紅茶をお淹れいたします!」
「ありがとう、エマ」
刺しかけのハンカチをテーブルの上に置き、ふぅと伸びをする。
それから、一番上の引き出しを開けて、一冊の本を取り出した。私の宝物。それに手を伸ばして、ぱらぱらと頁をめくってみた。
王子さまは、うつくしいお姫さまをひとめ見て、恋におちました。
お姫さまも、こわい魔物から自分を助けてくれた王子さまが、好きになりました。
『どうか、ぼくと結婚してください』
『ええ、よろこんで』
2人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ――――
「いいわねぇ……」
ポツリと呟きが漏れる。
女の子の夢よね。カッコいい王子さまが自分を好きになって、結婚してくれるなんて。私も「カッコいい王子さま」と「結婚してくれる」の部分は叶ったけれど、残念なことに真ん中の部分が抜け落ちてしまった。
表紙の絵をじっと見つめる。王冠を被った金髪の王子さまは、子供向けの絵本なだけあって可愛い顔をしている。子供の頃、ギルによく読んで貰ったな……
『そんなにこの本が気に入ったのか?』
『ええ、とっても』
『そうか。じゃあリリィにこれ、やるよ』
『えっ!? それはギルのでしょ。だめよ!』
会うたびに読んで貰っていたら、ギルから本を譲ると言われたけれど、私はそれを必死で断った。だって頂いてしまったら、もうギルが読んでくれなくなると思って……。
本自体は欲しかったから、親に頼み込み同じ絵本を密かに買ってもらっていた。だから今眺めているこれは、私が実家から持ってきたものになる。そう、ギルには内緒だけど、私もこっそり同じものを持っているのだ。
「部屋に置いてある、って言ってたわね」
幼い子供向けの本だから、ギルはもう捨てたと思っていたのに、彼は持っていてくれた。そこに深い意味はなくとも、思い出の絵本がまだ彼の手元にあるのだと思うと、じんわりと温かいものが胸にこみ上げてくる。
「金髪も綺麗だけど、ギルの銀髪の方がずっと綺麗よね」
懐かしい絵本。こうしてまじまじと眺めるのはずいぶん久しぶりだ。くすっと笑いながら絵本を眺めていると、とあることに気が付いた。
この王子さま……ユリエルに似ている……