銀色の三夜目
水汲みで身体を鍛えよう大作戦は、あえなく失敗した。
ギルが起きるまで私はどこにも行けなくなった。早朝の鍛錬は封じられてしまったのだ。
――――でも、起きてしまえば後は別にいいわよね?
まだまだ諦めてやるものか。朝食の後、私はこっそり屋敷の裏手に行き、資材置き場に足を踏み入れた。今朝の下男に、他に力仕事がないか尋ねてみると、薪を運ばなくてはならないと言っていたからだ。
小屋の中を見回すと、隅の方に薪がいくつか束ねられた状態で置いてある。これを屋敷まで運べば、いい感じに鍛えられそうだ。
腕まくりをして薪に手を伸ばすと、突然背後から現れた人物に右の手首をすっと掴まれた。
「ぎゃっ!」
「こんなところで、何をなさっているのです?」
暗い小屋の中で背後から声を掛けられて、変な声が出る。ビックリして振り返ると、そこには深い蒼の髪した青年が立っていた。
なんだケインか。ああびっくりした。驚かさないで欲しいわ。
「あ、あらケイン。何ってちょっとね、暇だからお手伝いをしようと思っただけなのよ。ほら、こんなに沢山あるんですもの。人手はあった方がいいでしょう?」
「人手は必要ですが、その為の人員はきちんと配置しておりますので、リリィ様の手を煩わせる必要はありません」
ぐっ……。
確かにそうだけど。
「す、少しだけでいいから、お手伝いをさせてくれないかしら……」
「簡単に運べるとお思いのようですが、リリィ様では持ち上げることすら出来ないと思いますよ。そもそも、素手で薪を持つなんて危険なことは2度とお考えにならないでください。怪我でもしたら大変です」
「…………ごめんなさい」
素直に謝ると、ケインの手がようやく私から離れた。
「さあ、お戻りください」
「はい……」
しゅんと項垂れながら、ケインの後をついて小屋の外に出る。意外と広いケインの背中は、背筋がピンとしていて美しい。
――そうよ。ケインに鍛えて貰えばいいんじゃないかしら?
彼は侍従とは名ばかりの、オールマイティな使用人である。屋敷の事情にも詳しいし、ランドル家の事業にも携わっている。なおかつ剣の腕も立つので、ちょっとした護衛も兼ねている。
ギルもケインに剣を教わっていた。
私も是非お願いしたい。
「ねえねえ。ちょっと私を鍛えてくれないかしら。ケインは剣の腕が立つのでしょう?」
「お断りします。それこそ、ギルフォード様が心配されますよ」
「ギルにとっても悪いことじゃないと思うわ。私、もっと引き締まった身体になりたいの」
拳をぐっと握りしめながらケインに詰め寄るものの、彼は涼しい顔をしながら、私が詰めた距離の分だけ円を描くようにスイスイと後ろに下がっていく。
「おかしなことを仰られますね。リリィ様は今のままで十分魅力的だと思いますが?」
「こんなぷにぷにの身体じゃ駄目なのよ。このままじゃギルに愛してもらえないわ」
「本人に直接尋ねてみてください。否定の言葉が返ってくると思います」
「ギルは優しいから、本音を隠してくれるのよ」
しばらく詰め寄ってみたけれど、ケインはちっとも頷いてくれない。私から顔を逸らして、2階の窓にちらりと視線を向けている。
執務室だ。
あのお部屋では今、ギルがアドルフ様と一緒にお仕事を頑張っている。今、窓からちらっと後ろ姿が見えたわ。
私も頑張らなきゃ……!
キョロキョロと辺りを見回すと、小さな小屋の側にほうきが置いていた。それを手に取り、剣を模してえい!と打ち込みらしきことをしてみる。
「身体を引き締めたいのでしたら、その様なことをなさるよりも体幹を鍛える方が効果的だと思いますよ。まあ、リリィ様には全く必要のないことですが」
「体幹を鍛える……それよそれ! それを教えて欲しいのよ! 具体的にはどうすればいいのっ!?」
ほうきを手にしたまま右手を振り上げると、がつんと何かにぶつかる音がした。
やだ。今、何かを打ち付けた感触がしたわ……
恐る恐る振り返ると、ギルが顎を抱えてうずくまっている。どうやら私が振り回したほうきが、綺麗に当たってしまったようだ。
「っっっっ~~!!!」
「ご……ごめんなさいギルっ!」
ついさっきまで2階の執務室にいたのに、どうしてここに……。突然現れたギルに、しかしケインは驚きもせず呆れた視線を向けている。
「ギルフォード様、油断されすぎです」
「~~~っ、うるさいっ。ケイン、お前の方こそリリィと何の話をしている!」
「ギルフォード様のお話をしていただけですよ。心配されなくとも邪魔者は消えますので、後はお2人でゆっくりと続きを語り合って下さい」
「おい!」
ギルが伸ばした手を難なくかわし、ケインが屋敷の中に戻っていった。
「大丈夫? ギル」
「……ああ。こんなの、別にどうってことないから気にするな」
むっつりとした顔で顎をさすりながら、ギルが立ち上がる。目の端に涙が浮かんでいるけれど……見なかったことにしておこう。
「それよりも俺の話って?」
「あ、ええと……。たいした話じゃないのよ。ケインとは、理想の体型について語り合っていただけで」
筋肉をつけるべきだと思った私と、鍛えなくていいと主張するケイン。どこまでも平行線だったわね。
けれど彼は優秀な侍従だ。恐らくケインは、ギルがユリエルを想っているのを知っている。その彼が必要ないと言うなんて……本当なのかも……
「筋肉たっぷりな方と細身な方、恋人にするならギルはどちらがいいかしら?」
「――は?」
「ねえ。どちらが好み?」
「筋肉たっぷりはちょっと、勘弁してくれ……」
え、そうなの?
ギルが困惑の表情を浮かべている。
そういえば、ユリエルは小柄で華奢だった。
……ケインの言う通りだわ。
無理して筋肉つけなくても良かったのね。
「そもそも、恋人にするならって前提から間違っているぞ。俺はもう結婚している」
「でも、本当の夫婦じゃないでしょ?」
「今は、そうだが……」
「ギルと本当の夫婦になれる方法を、私なりに色々と考えていたの」
ギルの長い睫毛が瞬いた。
「ねえ。ギルはどうすれば好きになれると思う?」
「それは……」
宝石のように綺麗なギルの瞳をじっと見つめた。このエメラルドグリーンには今、私が映っている。でも心の中に映しているのは私じゃない……
ギルが困ったように笑った。
「人の心なんてそう簡単には変えられない。だから俺たちが本当の夫婦になるためには……少しづつ慣れていくしかないんじゃないか?」
「少しづつ慣れる……」
「ああ。焦っても仕方ないだろ?」
「そうね……」
焦っても仕方ない……か。
私、何をしていたんだろう。
いくら身体を変えてみたところで、私はユリエルじゃないのに……
彼に愛されたくて焦っていたのだ。
「……なぁ、リリィ」
「なぁに、ギル」
「抱きしめてみてもいい……?」
私はユリエルじゃないけれど、彼は私に触れようとしてくれる。少しづつゆっくりと……私に慣れようとしてくれている。
それだけで十分だと思わなくては。
「い、いいわ……」
ギルがおずおずと私に手を伸ばし、ゆっくりとその身に引き寄せる。何度も夢想した彼の腕の中は、想像よりもずっと逞しい感触と、強い彼の匂いがした。
心臓がドキドキと騒がしいけれど、それ以上に不思議と安らぐ心地がする。いつまでもこうしていたい……
――あの時と、同じだわ。
ギルに包まれて、私は初めてのデートを思い出していた。この時が永遠に続けばいいのに。あの時も私は帰りの馬車の中で、そんなことを思っていた。
「どう? 嫌じゃない?」
「……全然嫌じゃないわ。ギルは?」
「俺もだよ」
ふふっと笑みを漏らして彼が優しい声を出す。嬉しい。私を抱きしめて、ギルは嫌悪を感じなかったのだ。
ギルが私の頭に頬をすり寄せた。どこまで平気なのか、彼も試しているのだろう。しばらくそうしていると、ふと額に湿り気を感じた。
「ギル、汗かいてるの?」
「ああ。急いで来たから……って、悪い! 汗臭かったよな」
「え? 別に気にしないわよ」
「いや、この辺にしておくよ。仕事の途中だし」
ギルが私から離れた。ああ、幸せな時間が終わってしまった。がっかりしたけれど、仕事中なら仕方がない。
「そう。頑張ってね」
「ありがとう。リリィの為にも頑張るよ。……またあとで慣れさせて」
私の為に……
ギルばかりに我慢をさせている、と。
ちくりと胸が痛んだけれど。欲の深い私は、やっぱり彼の申し出を断ることが出来なかった。




