銀色の二夜目
結婚して2週間が経過した。
夕刻になるとジゼル様と共にホールに降り、ギルとお義父さまであるアドルフ様のお出迎えをするのが、私の日課となっている。
「ただいま、ジゼル。相変わらず君はとても美しいね」
「おかえりなさい、マイダーリン。今日も世界で一番貴方が素敵だわ」
ジゼル様がアドルフ様に飛びついて、頬にチュッとキスをした。アドルフ様もお返しとばかりにジゼル様を抱きしめ、口づけを落とす。沢山の使用人たちが見守る中、そのまま2人は熱烈なキスを始めてしまった。
ちなみにいつものことなので、誰も驚きはしない。アドルフ様とジゼル様はとても仲が良いのだ。
いいなぁ……
2人を羨ましく思いながら眺めていると、後ろから銀髪の青年が現れた。なおも口づけを止めようとしない両親に苦い視線を送りながら、Mというマークの入ったお洒落な紙袋を私に突き出してくる。
「おかえりなさい、ギル」
「ただいま、リリィ。……これ土産」
差し出された紙袋を受け取って、ちらりと中を覗いた。ハート形をした美味しそうなクッキーが入っている。
「え、すごい。これミュミュのクッキーじゃない」
「ああ。女に人気の菓子らしいな」
「そうなのよ。ここのお菓子とても人気で、いつもすぐに売り切れちゃうの。良く手に入ったわね」
「通りすがりに覗いてみたら、運良く売れ残っていたんだ」
「そうなのね。嬉しい、一度食べてみたかったの」
今日は特別な用事があると言い、ギルは早朝に家を出ていった。疲れているだろうに、こうしてこまめにお土産を用意してくれる、彼の心遣いにじんとくる。
…………。
――――こんなの、逆だわ。
好きになって貰えるように、頑張らなきゃいけないのは私の方なのに……今日もギルから物を貰ってしまった。
しかもミュミュのクッキーだなんて、嬉しすぎる。
どのくらい並んだのかしら、これ。涼しい顔をしているけれど、そう簡単には手に入らないはずよ。売れ残りなんてあり得ない。
これを私のために……
「ありがとうギル、大切に食べるわ」
紙袋を抱えてにこりと笑うと、ギルがゆるりと微笑んだ。
「気にせず食えよ。また買ってきてやるから」
――ああもう!
私ばっかり好きになってどうするのよ。
額へのキスは、いつのまにか毎日の習慣となっていた。
「おやすみ、リリィ」
彼の端正な顔が近づいて、額に唇が落とされる。甘い感触にうっとりするけれど、それはほんのわずかの時間だけ。
軽く触れる唇は、一晩でたったの一度きり。
これが今の彼の限界なのだ。それは十分、分かっているけど……
贅沢は慣れるのではなく加速していく。今の私はどんどん欲が深くなっている。もっとギルが欲しい。一度だけじゃなくて、何度もキスをして欲しい。額だけじゃなくて、もっと別の場所にもして欲しい。例えば頬とか……唇とか。
手を伸ばせば、簡単に届く距離に彼はいるのに。
見えない壁が、そこには、あって。
「おやすみ、ギル」
繋いだ手を、ぎゅっと握りしめてみたけれど。
今夜もそれ以上なにも起きなかった。
◆ ◇
「殿方の愛を得るにはどうすればいいのか、ですって?」
翌日。ギルに貰ったクッキーを片手にジゼル様をお茶に誘った私は、思い切って彼女に悩みを打ち明けてみた。夫であるアドルフ様の愛を一身に受けておられるジゼル様。どうすればその境地に辿り着けるのかしら?
愛されるコツがあるなら教えて欲しい。
「あ、ちなみに私じゃなくて友達の話なんです。友達の!」
「そう……お友達のお話なのね。そうよね。リリィちゃんはギルに愛されているものね」
「あは……」
笑顔がひきつる。ジゼル様がにやにやしながら、クッキーをひとつ手に取った。どうやらジゼル様もミュミュのお菓子のファンらしい。
「ほーんと、あの子ってば必死よねえ」
クッキーを見つめながら楽しそうにくすくすと笑っていらっしゃるけれど……必死なのは私の方なんです。
なんとか彼を振り向かせたいんです!
「それにしても、愛される方法ならリリィちゃんも知っているでしょう?」
「それが私にはまだまだよく分からなくて……。これは友達の話なんですが、仮に、彼女の夫に他に想う方がいたとして、どうすれば夫を振り向かせられると思いますか?」
「おかしな心配しなくても、他に想う方なんていないと思うわ」
「それがいるんです! ……いえ、もうこの際、想う方はさておきでいいんです。お義母さま。夫に愛される方法を、是非、私に伝授してください!」
私も多くは望まない。ユリエルへの想いは想いとして、それとは別に私のことも妻として愛せるようになってくれればそれでいい。実際にギルがユリエルとどうにかなることなんて、絶対にないんだから。
ジゼル様が細い眉を寄せながら、うーん、と可憐に小首をかしげている。今日も妖精のように華奢で美しい。
まさか、このレベルの美貌が必要なのかしら。
そ、それは無理……
「そうね。とりあえず、身体を使って誘惑しちゃえばいいんじゃない?」
クッキーをかじりながら、ジゼル様は蠱惑的な笑みを浮かべた。
◆ ◇
身体……か。
剥き出しの二の腕に触れてみると、ぷにぷにと柔らかな感触がした。うん、こんな身体じゃダメだわ……。鏡に映る自分の姿を見て、溜息をつく。
ジゼル様とお話をして、私は重大な事実に気が付いてしまった。そもそもギルは男が好きなのだ。こんな柔らかな身体よりも、ごつごつとした逞しい身体の方がいいに決まっている。
誘惑以前の問題だわ。ギルをその気にさせるには、もっと身体を鍛えないといけない……
翌朝、早朝に目を覚ました私は、そろりとベッドの中から抜け出した。辺りはまだ薄暗い。ベッドの中ではギルが幸せそうな顔をして眠っている。
ここは一つ、力仕事でもしてみようかしら。筋肉つきそうよね。
音を立てずにゆっくりと自分の部屋へ戻り、クローゼットを開けて、一番動きやすそうな簡素な服を選んで身に付けた。屋敷の裏手に向かうと、井戸の周囲に下男の姿が見える。桶を使って深い井戸の底から水を汲み上げているようだ。
これだわ!
「えぇ!? リリィ様が水を?」
「ええ。どうしても身体を鍛えたいの。お願い手伝わせて!」
「しょうがねぇなあ……ちょっとだけですよ?」
水汲みは重労働だ。水で満たされた桶は重いし、それを何往復もしなくてはならない。つまり筋肉もつくし身体も鍛えられるということだ。
下男には少し渋られたものの、なんとか桶を持たせて貰えることになった。
「そんな細っこい腕で、意外と力持ちじゃないですか」
「細い腕……。これを毎日繰り返していたら、もう少し太い腕になれるのかしら」
「ははっ。太い腕になっちまったら、ギルフォード様がびっくりされますよ」
けらけらと笑いながら桶を運ぶ下男の腕は、太い筋肉で盛り上がっている。
さすが日々重いものを運ぶ人は違う。力持ちと言って下男は私をおだててくれるけど、水の量は桶の半分までしか入っていないのだ。もっと頑張らなきゃ!
ちなみにこの水の大半は、アドルフ様とジゼル様の朝の湯浴みに使われるそうな。2人とも綺麗好きね。
「そろそろこの辺で終わったらどうです? もう疲れたでしょ」
「ま……まだまだ頑張れるわ……」
3度ほど往復した辺りで、早くも腕が悲鳴をあげてきた。つ、辛い……。
けれど、ここで諦めたら逞しい体は手に入らない。
「さすがに、もうお止めになった方が……」
「そ、そうね……。お言葉に甘えさせてもらうわ……」
だんだんと足取りが覚束ないものになってきた。隣を歩く下男が心配そうにこちらを見ている。水を零しても大変なので、この辺でいったん切り上げることにしよう。続きは明日、また頑張ればいいわよね。
井戸の側に、空になった桶を置いてその隣に座り込む。
ふ~っ、疲れたっ!
額から汗が滲んでいる。それをハンカチで拭いながら空を見上げた。周囲の木々がさわさわと爽やかな音を立てて揺れている。朝の冷たい空気がとても気持ちいい。
お腹、空いてきたな……
そろそろ戻って朝食にしよう。そう思って立ち上がると、ギルの侍従であるケインがやってきた。
「リリィ様、こんなところにおられましたか」
「あら、ケイン。どうしたの?」
「それはこちらのセリフですよ。早くお戻りください。ギルフォード様が面倒なことになっておられます」
――――――え?
急いで屋敷に戻ると、ホールのところにガウン姿のギルがいた。深く頭を垂れながら、正面にある階段の一番下の段に力なく座りこんでいる。
ちょっとちょっと。何があったのか知らないけれど、着替えくらいしなさいよ。
「なにしてるのよ、ギル。こんなところで」
「―――っ、リリィ!」
「きゃっ!」
ギルはガバッと顔を上げたかと思うと、私の両腕をがしっと掴んできた。
「戻ってきてくれたのか!」
「へっ?」
そ、そりゃ戻るわよ?
そろそろ朝ごはんの時間だし。
「どこを探しても君はいないし、使用人に聞けば出ていったと答えるし、」
「あの、ギル?」
「……俺と一緒に寝るのが……嫌になったのかと思った…………」
……まさか夜逃げしたとでも思われていたの?
ギルが私の腕に縋りつきながら、今にも泣きそうな顔をしている。ありえない想像にぽかんと口が開く。
ああでも。朝起きて隣に私がいなければ、そりゃびっくりするわよね。いるはずの人がいないんだもの。
心配……かけてしまったのね。ごめんなさい。
「ちょっと水……いえ、散歩をしていたの」
「散歩ならそうと言ってくれ。急にいなくなるなよ。……焦るだろ」
これ以上彼に心配させてはいけない。水汲みのことはナイショにしておこう。
しかし。
キラキラした美形の上目遣い、くるものがあるわね……
「分かったわ。これからはきちんと伝えておくから安心して」
「そうしてくれると助かる」
「ところで私、これから毎日早朝の散歩をしようと思うの!」
「はぁっ!? 散歩? 散歩なんて昼間でいいだろ。なにも早朝にしなくても……」
「早朝の方が爽やかで気持ち良いのよ」
「爽やかなんて言っていられるのは今のうちだけだ。じきに冬が来て、寒さに耐えられなくなるぞ」
早朝の労働は疲れるけれど、思ったよりも事後は爽快だった。
朝食も美味しく食べられそうだし、ギル好みの逞しい身体も手に入りそうだし……これっていいことづくめよね?
そう思っているのに、なぜかギルが必死の抵抗をしかけてくる。
やだ、実は散歩じゃないってバレたのかしら?
幼馴染って厄介ね。なんでもお見通しなんだから。
どうやらギルは水汲みに反対のようだ。妻に肉体労働をさせるなんて体裁が悪いと思っているのかも。そりゃ私も、貴族の妻としてこの行為がズレているのは認めるわ。でもギルの好みがズレているんだもの、私が筋肉を求めるのも仕方ないでしょう。
水汲み、続けたい。筋肉、手に入れたい。私は、一歩たりとも引いてやる気はない!
お互い睨み合ったまま動かない。埒が明かないと思ったのか、ギルが表情を一変させた。上目遣いのまま、宝石のように綺麗な瞳をうるうると潤ませて私を見つめてくる。
すっかり紅潮した頬に、ほんのり乱れた銀の髪。長い睫毛はばさばさと瞳に愁いを落とし、形のいい口元からは切なげな吐息が漏れている。
ちょっとやめなさいよその顔……。
それ、卑怯って言うのよ!
ギルの両手が縋りつくように、私の腕をぎゅっと掴んで引き寄せようとする。
「……っ、お願いだから、朝は俺が起きるまでどこにもいかないでくれ。目が覚めて隣にリリィがいないのは……寂しいんだ…………」
くぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!
ギルの演技力に磨きがかかりすぎている。ダメ押しのような彼の殺し文句に私が抗えるはずもなく、美形の渾身の説得に、私はあっけなく陥落するのだった。