銀色の一夜目
その日より、私たちは同じベッドで寝るようになった。
とはいえ、ただ手を繋いで眠っているだけだ。ギルは何もしてこない。私相手に、まだまだそれ以上のことをする気にはなれないのだろう。
ギルと2度目の朝を迎えた日、私は急いで普通の夜着を買いつけた。生地にはきちんと厚みがあり、裾は足首まで隠してくれる優れものだ。もちろん袖の長さも十分あるし、胸元もしっかり詰まっている。その日の夜、新しい夜着で現れた私を見て、ギルはほっとしたように胸を撫で下ろしていた。
つまりはそういうことなのだ。
一方のギルは、初夜の時と変わらずガウン姿のままで、夫婦の寝室にやってくる。朝方になると前合わせの部分が少しはだけていて、目のやり場に困るから控えて欲しいんだけど……
一度思い切って伝えてみたけれど、嬉しそうに笑って「分かった」と言ったきり、現状は変わっていない。真っ赤な顔になる私を見てニヤニヤしてるから、多分面白がられているんだと思う。
「寝ようか」
ベッドの上から、ギルが私に向かって握手を求めるようなポーズを取った。手を繋ごうというサイン。ガウンの袖口から、細身に見える彼の意外にがっしりとした腕が露わになっていて、ドキリとする。
この腕に抱きしめられたい……
今はまだ、無理だと分かっているけれど。
「おやすみ、リリィ」
「おやすみなさい、ギル」
手を繋いで隣で眠る。それだけでも、ギルは頑張ってくれている。
『今すぐは無理でも。いつかは、リリィと本当の夫婦になれたらいいなと思ってる』
そんな日が本当に来るのかしら。
どうすればギルは、私の事を好きになってくれるの……?
◆ ◇
「ギルフォード様に愛される方法、ですか?」
こぽこぽと心地よい音がして、金色の液体が白いカップに注がれた。
15時のティータイム。青々とした繊細な茶葉の香りを楽しみながら、小首をかしげるエマに深く頷いた。
ランドル領は海に面している。港もあるので、各地から珍しいものが集まってくる。
今飲んでいる紅茶もその中の一つだ。遠方の地にある高い山の上で栽培されているもので、非常に手に入りにくい品種らしい。中でも、春に摘まれる茶葉だけを使用して作られたこの紅茶は、私の一番のお気に入りだ。
初めて飲んだ時には、その香りの高さに感動した。歓喜に身を震わせていると、ギルが毎日でも飲めるようにと大量に取り寄せてくれたのだ。
「ええ。どうすれば好きになって貰えるかしら、エマ」
「もう既に好かれていると思いますけど……この紅茶、相当上質なものですよね」
「好かれているのは知ってるわ。ギルとは幼馴染で友人だもの。でも、そういう好きじゃないのよね……」
ゆらゆらとカップを傾ける。
私、本当に贅沢になってしまった。
最初の夜は、手を繋ぐだけで満足していたのに。
今ではそれが物足りないなんて……。
結婚前の私からすれば、今の私は夢のような毎日を送ってる。手だけとはいえギルに触れられる。おやすみの挨拶を交し合いながら、同じベッドで眠ってる。白い結婚をギルに提案した時は、ここまで望んでいなかった。友達の延長が私たちの限界なのだと思ってた。
こんなの、以前とは比べ物にならないくらい幸せで、満たされている筈なのに……
逆だわ。
今の方がはるかに渇望している。
「ジゼル様が用意して下さった、例のナイトドレスを着るのはどうでしょう」
ぷふっと紅茶を吹き出した。
ちょっとエマ、真面目な顔しておかしなことを言わないで!
「それとも、もっと過激なものをご用意いたしましょうか?」
「なに言ってるの、却下よ却下。それは逆効果だと思うわ、エマ」
そもそも、ギルは女性との触れ合いに抵抗がある人なのよ?
強引にことを進めるのは良くないわ。いきなり色仕掛けをするなんて、下手したらトラウマにでもなっちゃって、一生愛してもらえなさそう。
それよりも。
そういう気分になって貰えるように、まずは好かれる努力をしなくちゃ。
「では、なにか贈り物をしてみては?」
「贈り物、ねえ……」
ハンカチで口元を拭いながら思案する。
贈り物はいいかもしれない。ギルから色々頂いてるし、私からもお返しをしたいと思ってる。でも問題は、何をあげたら喜んでくれるのかが分からないということだ。だってギルは、何をあげても喜ぶ人だから。
小さな頃、その辺に生えている花を渡したことがある。
その時ですら、ギルはゆるりと笑ってた。今思えばただのゴミなのに、彼は心からの笑みを浮かべていたのだ。
ギルは優しいから、品物よりも気持ちの方が嬉しい人間なのだろう。でもそれは、品物そのものに喜んでくれているわけじゃないのよね。
綺麗なお花は……私が好きなだけだし。甘いお菓子は……これも私が好きなだけだし。可愛い髪留めは……なんて。ギルは男が好きなだけで、女装趣味はないのよね。
うんうんと唸っていると、エマが私の顔を覗き込んできた。
「そんなに悩まれるのでしたら、ギルフォード様に直接お聞きになられては?」
「えっ、ギルに聞くの!?」
「そうです。私よりも、ご本人に聞かれた方が確実だと思います!」
確かにそうね……
「分かったわ。ありがとうエマ、ギルが戻ってきたら早速聞いてみるわ」
「あ! 聞かれるならお戻りになられた頃よりも、おやすみになられる前がいいと思います!」
「え、どうして?」
「人間、お腹が空いている時よりも、リラックスされている時の方が本音を語ってくれるものですよ」
「なるほど。ありがとうエマっ! 私、寝る前にさり気なく聞いてみるわ」
「リリィ様、頑張ってくださいね~!」
◆ ◇
夫婦の寝室には、一輪の花が飾られている。
サイドテーブルの上で揺れる赤い薔薇は、昨日ギルが買ってきてくれたものだ。切りたての花は花瓶の中でみずみずしく咲いている。
「真紅の薔薇だなんて、愛されてますね!」とエマ始め屋敷の皆にはからかわれてしまったけれど、それは違う。皆は知らないだけなのだ。薔薇の花言葉は一本だと「一目惚れ」という意味になる。
物心つく頃には既に知り合いだった私たちにとって、これほど無理のある言葉はない。この贈り物に、特に深い意味など込められていないのが現実だ。
「それ、気に入ってくれたのか?」
じっとギルからの贈り物を見つめていると、扉の開く音と共に優しい彼の声がした。
「ええ。とても綺麗ね。いつも色々ありがとう」
ギルは視察に出かける日は、いつもちょっとしたお土産を私に買ってきてくれる。この薔薇もそう。忙しい中、屋敷にいる私のことを気にかけてくれるのだ。
私がお礼を言うと、ギルの顔がゆるりと綻んだ。私の一番好きな彼の顔。大人になって、すっかりカッコよく成長を遂げたギルだけど、昔から変わらないこの笑みだけはなぜか可愛く見えてしまう。
少しだけギルとおしゃべりをして、それから2人でベッドにもぐりこんだ。毛布の中で私の手の甲に彼の指先が触れる。つんつん、と軽くつつかれて。握りしめていた手を慌ててほどいて彼の手のひらを受け入れた。繋いだ手は今日も大きくて、温かい。
「あ、そうだわ。今日はちょっと、ギルに聞きたい事があるの」
「なんだ?」
「ねえギル。ギルは、何か欲しいものってある?」
「え…………」
私の質問に、なぜかギルの笑顔が固まった。
これは怪しい……。
「……特にない」
「あるのね?」
「ないって言ってるだろ」
ギルが拗ねたように私から顔を逸らした。
ふふん。そんな風に誤魔化しても無駄よ。何年そばにいると思ってるのよ。ギルのことなんて、何でもお見通しなんだから。
繋いだ手をぎゅっと強く握る。
「教えてよ。私に用意できるものなら、なんでもギルにあげたいの。ギルにはいつもよくして貰っているから、お礼がしたいわ」
「礼なんて、別に……」
「ギルは何が欲しいの?」
「……っ」
ギルが何も言わない。きっと彼は、本当は欲しいものがあるのだ。だけど私を困らせると思って、告げるのを躊躇っている。いつもそう。ギルは優しいから、私のことばかり考えている。
「お礼がしたいなら、リリィ。おやすみのキスをしてもいいか?」
「――――え?」
想定外の返答に困惑する。これは絶対にギルが望んでいるものじゃない。だってこんなの、お礼じゃなくて私へのご褒美になってしまう……
「あ、もちろん唇じゃなくて額に。軽く一回だけでいい」
慌てたように付け足す彼の言葉に、ちくんと胸が痛んだ。彼は明らかに無理をしている。以前の私なら、これは確実に拒否をしていたところだ。
でも、今の私にとって、この提案はたまらなく魅惑的で……
いけないと思いつつも誘惑に抗えず、こくりと頷いてしまった。
「ありがとう、リリィ」
ギルが私の肩に手を添えた。結局、贈り物をするどころか、私の方が頂いてしまった。ギルは本音を告げて私を困らせるより、嘘をついて喜ばせる方を選んだのだ。悪い私は、それを知ってて気づかないフリをした。
ゆっくりと近づいてくるギルに、胸の内からじわりと罪悪感が沸いてくる。
――ああ、でも。
額に触れる柔らかな彼の感触は、蕩けてしまいそうなほど甘かった。