白い10日目
夫婦の寝室に足を踏み入れて、私はくるりと辺りを見回した。
部屋の中はしんと静まり返っていた。分かっていた事なのに、一抹の淋しさが胸をよぎる。
サイドテーブルから漏れるオレンジ色の明かりが、薄暗い部屋の中を頼りなく照らしている。窓は厚いカーテンで閉じられていて、外の気配は感じない。なにもかも、昨日と全く同じ光景だ。
それなのに広々とした部屋からも、その真ん中に置かれた豪奢なベッドからも、どこか空虚なものを感じてしまうのは気のせいか。
ギルが、いないだけなのに。
まあ、いても困るんだけど……
服装は頼りないし。この部屋には来ないって、今朝宣言したばかりだし。なによりこれから、ベッドの上を転がる予定なのだ。何重にも鉢合わせると気まずい。
ベッドの縁に忍び寄り、まっさらなシーツを撫でた。さて、今夜はじっくりと堪能させてもらおう。
ドキドキと逸る心のまま、両手を広げてベッドに飛び込んだ。ぼふっと心地よい音がして、身体が掛布に沈みこむ。
最高だ。今日もふかふかの感触がする。
「はぁ、やっぱりいいわねこのベッド」
寝台の上で静かに横たわり、しばし心地よさを堪能する。それから顔を上げ、念のためキョロキョロと左右を確認しておいた。よし、私しかいない。
にやりと笑いながら、ベッドの上をころころと転がってみる。こんなはしたない姿、お母様に見られたらきっとお説教ものよね。でも――――
ああっ、爽快だわっ……!
その時、突然ガチャリとドアノブの開く音がした。反射的にそちらを向くと、そこにはガウンを羽織った銀髪の美青年が呆けた様子で立ち尽くしている。
…………え? ギル?
え……………………
「……っ! きゃ、きゃああああああああっ!!!!」
待って待って待って。
ど、どうしてギルが、こ、こ、こ、こんなところにいるのよ~~~~~っ!!!
◆ ◇
ギルを見て、驚いた私は転がり続けたままベッドの端をも通り抜け、床にごちんと鈍い音を立てて崩れ落ちた。
う、痛い……
腰をさすりあげながら、ゆるゆると半身を起こす。
「だ、大丈夫かっ!?」
ギルがはっと意識を取り戻し、私に駆け寄ってきた。手を差し伸べられて、顔を上げるとエメラルドグリーンの瞳が心配そうに私を見ている。
温かそうなその手をおずおずと取りかけて……今の自分の恰好を思い出して真っ赤になってしまった。慌ててショールの前を手繰り寄せ、ギュッと胸元を隠すように両手で閉じる。
大丈夫。今日もこの部屋は薄暗い。なにも見えない……はずよね?
「へ、へーきよ」
「かなり派手に転がり落ちたな……。怪我してないか、誰か呼んで診てもらおうか」
「やだ! 大丈夫だから、それだけは絶対にやめてっ!」
立ち上がりそうになったギルの、ガウンの裾をしっかりと掴んで引き留めた。冗談じゃない。この心許ないナイトドレス姿を晒すのも、事の経緯を語るのも、どちらも恥ずかしいから絶対に嫌っ!
「それよりも、どうしてギルがここにいるのよ」
「どうしてって、ドアの音がしたからてっきりその……。そ、そんなこと言うリリィだってここにいるだろ」
「ぐっ……そ、そうだけど」
「俺の方こそ聞きたい。リリィは、どうしてこの部屋に来たんだ?」
「それは……そのう……」
「リリィは俺と初夜をするつもりで、それでそんな恰好でここに来たんじゃないのか……?」
ギルの追及に言葉が詰まる。真っ直ぐに見つめられ、たまらず視線を逸らした。ギルはなにか勘違いをしている。私は初夜なんて考えてもいなかった。でも……
――――そうよね。そう思われても仕方ないわよね。
「…………ごめんなさい」
自分の部屋で眠ると言ったのに。それなのにこんな恰好で夫婦の寝室にいるなんて……まるで何かを期待しているみたいに受け取られても仕方ない。
ギルの視線が痛い。白い結婚のはずじゃなかったのか。俺に嘘をついたのか。そんな風に疑われ、蔑みの目で見られているかと思うと、顔が上げられない。
ごめんなさい。そんなつもりはなかったの。
ただ、ベッドの上を転がりたかっただけなの……。
「な、泣きそうな顔するなよ。別に責めてるわけじゃないんだ……。リリィが、心の整理がまだつかないと言うのなら、俺はいつまでも待つから」
「ギル……」
待つって、何を?
よく分からないけれど、しょんぼりした私を慰めるつもりらしい、ギルが私の頭をゆるりと撫でた。
思いのほか優しい声と手つきにホッとする。ギルは、こんな状況でも怒っていないのね……。
彼の優しさにじわりと涙が滲みそうになった。そう、昔からギルは優しい。なんだかんだと私の心配をしてくれる。いつも、いつも。
「きゃっ、ギルっ!?」
「取り合えず場所を移そうか。いつまでも床の上にいたら身体が冷えるぞ」
「わ、私自分で歩けるわよっ?」
「いいから」
身体がふわりと宙に浮く。細身なのにどこにこんな力があるのか、ギルが私を宝物のように丁寧に抱え上げ、ゆっくりとベッドの上におろした。
「……ありがとう」
「どういたしまして。さあ寝ようか、リリィ」
「ええ。――――え?」
驚きに次ぐ驚きだ。
まさか一緒に寝るつもりなの?
戸惑いの声をあげると、ギルの瞳が不安そうに揺れた。
「何もしないよ。それとも俺が一緒だと、嫌か?」
「嫌じゃないわ……」
「そっか。良かった」
嫌なのはむしろ、ギルの方でしょう?
今朝、私はあなたに抱き着いてしまったのよ。それで嫌な思いをしたのでしょう?
なのにギルから一緒に寝ようだなんて……どうして。
嫌どころか、私は嬉しいだけなのに。
ベッドの中に潜り込む。緩む口元を隠すように、ずるずると毛布の中に顔を埋めた。目だけ外に出して、きょろりと周囲を窺う。
ギルは私の方を見て、穏やかに微笑んでいた。
「このベッド、ふかふかで気持ちいいわよね」
「ああ。最初見た時はどうかと思ったが、意外と悪くないな」
「ギルも素敵だと思う?」
「思った思った。マットは弾力があるし、毛布なんてすごく滑らかで肌触りがいいしな」
ギルもなのね。私もそう思っていたの。
顔を見合わせて、くすりと笑いあう。
「あの、約束破ってごめんなさい。私、このベッドがすっかり気に入ってしまったの」
「じゃあ、毎日ここで寝るか?」
「いいの?」
「俺と一緒に」
…………え?
呼吸が止まる。ギルをじっと見つめた。宝石のような瞳は真っ直ぐに私を映していて、ふざけているようにはとても思えない。彼の真意が掴めなくて、ぱちぱちと瞬きをしていると、ギルが困ったように眉を下げた。
「俺もこのベッドが気に入ったんだ」
「――――あ、そういうこと……」
納得して息を吐いた私に、もう一度彼が強い視線を向けてきた。
「それに今すぐは無理でも。いつかは、リリィと本当の夫婦になれたらいいなと思ってる」
――――え?
どくん、と胸が弾けた。
それは……それはつまりギルが。今はまだ無理だけど。いずれは私を愛せたらいいと……そう思って、くれているってこと?
「そのつもりでいてもいい? リリィ」
「ギル……」
もしかしてギルは、私の想いに気がついてるの?
そうかもしれない。エマにだって見抜かれていたのだ。幼い頃から側にいる彼にこそ、知られていてもおかしくない。
じゃあ。じゃあギルは。
優しい彼は、私の気持ちを知って……この結婚を承諾してくれたというの?
ユリエルが好きなのに。
あんなに、女の人との結婚を嫌がっていたのに。
私のために。
初夜でのギルを思い出す。震えながらも私に本当の夫婦になろうと申し出てくれた。あの時すでに、彼は覚悟を決めていたのだ。
「いいけど……無理矢理は駄目よ?」
「分かってる」
今日のデートは夢のようだった。
馬車から降りながら、私は名残惜しい気持ちでいっぱいになっていた。
この結婚が、白くなければ良かったのに。
でもそんなことは叶わない憧れだ。そう諦めていたのに……諦めなくていいの……?
じわじわと身体の内から喜びが沸き起こる。ギルの優しさが、手が届きそうになった彼との未来が、叫び出したいくらい嬉しくて、たまらなくて。
けれど同時に申し訳ないとも思う。
これでは、ギルの気持ちを犠牲にしてしまう……。
彼に無理をさせてはいけない。震えるほど心が拒否反応を示しているのに、初夜なんてとんでもない話だ。ギルが自然な感情として、私を抱きたいと思う日が来るまで……
ちゃんと、待たなきゃ。
「本当はその方がいいのよね。ギルとその……普通の夫婦になれる方が。お父さまもお母さまも、私たちの結婚をとても喜んでくれているし」
「喜びっぷりなら、うちの両親も負けてないぞ。特に母さんなんて、俺たちの婚約が決まった時から毎日がお祭りのようにはしゃいでいるからな」
「そうね。みんなすごいわよね。こんなに祝福されるとは思わなかったわ」
ふふっと笑みが零れた。
ギルに愛される日が、いつか……やってくるといいな。
「なあ、リリィ。何もしないけどさ」
「うん」
「手を、繋いでもいいか?」
私の目の前に、大きな手のひらがすっと差し出される。
馬車の中で肩を抱き寄せられながら、もっと触れていたいと想った……ギルの手。
こくりと頷いて自分の手をそれに重ねた。ギルが笑みを深める。右手に感じる温かい彼の感触に、私の頬が自然と緩んだ。
嘘みたい。
あんなに望んだギルの手が、今は私と繋がっている……。
「おやすみ、リリィ」
結婚二日目の夜。
私は、ギルの優しさを右手にしっかりと感じたまま、満たされた心地で眠りについた。