白い9日目
帰りの馬車も、ギルは真っ直ぐ私の隣に座ってきた。
もう誰も見ていないのに……。ギルってば偽装デートに一生懸命になりすぎて、見せる相手がいないという事実にまだ気が付いていないのね。
指摘しようとして、やめた。
だって、もう少しだけギルと触れていたかったから。
黙っていれば、屋敷に戻るまではこうしていられる……。こんな行為に意味はないのに、私も気付いていないフリをして、行きの馬車と同じように彼に向かってこてりと体を傾けてみる。
今度は、ギルの胸元に頭がこつんとぶつかった。
「リリィ……」
行きの馬車の中よりも、うんと甘いギルの声がする。それと同時に彼の手が私の肩に伸びてきた。探るようにそっと触れ、それからきゅっと力がこめられる。
腰もドキドキしたけれど、肩はもっとドキドキさせられた。だって、抱きしめられているような感じがして…………。
――――どうしよう。私、贅沢になっちゃった。
結婚する前は、触れ合えなくていいと思っていたのに。今はこの温もりが、もっと続けばいいのにと思ってる。
今になって気付く。側にいるだけで十分なんて、何も知らないから言えたことなのだ。彼の体温も、繋いだ手のひらの感触も、私に向けられた甘い眼差しも……知ってしまえばもう、いらないなんて言えない。
今日のデートが、全て本物なら良かったのに……
帰りの馬車も、やっぱりギルは何も喋ろうとしなかった。
私も、何も言えなかった。
馬車の中でずっとギルに抱き寄せられて、屋敷に戻る頃には、私の顔はすっかり赤くなっていた。
おかげで屋敷の皆には、私たちが本物のデートをしたと思って貰えたようだ。ギルにエスコートをされながらホールに入ると、ジゼル様まで上気した頬で私たちの元に駆け寄ってきた。
「まあまあまあ! 2人で仲良くデートをしてきたのね。素晴らしいわ!」
「お義母さま、ただいま戻りました」
「お帰りなさい、リリィちゃん。ねえ、手ぐらい繋いだのかしら? 繋いだのよね? そのくらいの甲斐性は、いくらギルでもさすがにあるわよね?」
「……母さん、うるさいから黙ってくれないか」
「やだ、睨まなくてもいいじゃない。お母さん、これでも心配してたのよ? だってギルってばあんなにデートを夢想してたのに、今までろくに誘えな……むぐっ」
「ちょっ! なに余計なこと言おうとしてんだよっ!? ――リリィごめん。また後で」
苦々しい顔をしながら、ジゼル様の口を押さえるギル。
そのまま、ずるずるとジゼル様を引きずるようにして2人は広間の方へ消えてった。なんというか……仲のいい親子ね。
◆ ◇
「とても素敵なデートだったのですね、リリィ様」
夕食の後、湯あみを終えた私に、エマが満足そうな顔をしてタオルと夜着を持ってきた。火照る頬にそっと手を当てる。昼間の余韻がまだ残っている。偽装デートは馬車を降りるまでずっと甘いものだった。
「……まあね。エマのアドバイスとギルの演技力のおかげで上手くいったわ」
「わたしのアドバイスと申しますと……ギルフォード様といちゃいちゃされたのですね!」
「い、いちゃいちゃってほどじゃないの! ちょっと手を繋いだり、馬車で隣に座っただけよ……。ちゃんと、エマの言うように寄り添っておいたわ」
「それは素晴らしいですね。ギルフォード様も喜んでおられたでしょう?」
「喜んでいたかどうかは知らないけど、微笑んではいたわね」
偽装デートが上手くいって、彼も満足したのだろう。今日のギルはずっとご機嫌だった気がする。
「それは、大成功のようですね」
にっこり笑って、エマが私にタオルを差し出した。可愛いピンクのタオルはふわふわとしていて、肌触りがとても良い。恐らくこれもジゼル様が選んだタオルなのだろう、ありがたく思いながら濡れた身体を拭き、ふっと飾り気のない自分の指に目を向けた。
昼間選んだ指輪は、まだ手元にはない。
あの店で宝石と台座だけを選び、後は私たちの指のサイズに合わせて加工をして貰うことになっている。仕上がりは、早ければ一ヶ月程度だと言っていた。あの時は皆に見せる為にと指輪を選んだし、それ以上の下心なんて無かったけど……
ギルとお揃いの指輪、楽しみだわ。
「……って、ちょっとエマ。なにこの夜着は」
「なにって、ジゼル様がリリィ様にと選んで下さったものですよ?」
「お義母さまが……?」
エマに渡された夜着はギルの瞳と同じ、エメラルドグリーンの綺麗な色をしている。
それはいいんだけど……なんというか、生地が薄い。中身が薄っすらと透けて見えるんじゃ?と疑いたくなるくらい、薄い。しかも丈も短い。
そういえば昨夜のナイトドレスも薄かった。半分寝ぼけた頭でも、ぼんやりと肌寒さを感じた覚えがある。部屋が薄暗くて気が付かなかったけど……まさか昨日もこれを着ていたの!?
顔がさっと青ざめていく。
「ねえ、普通の夜着はないの?」
「クローゼットの中には、このようなタイプのものしかないですね」
「ええ~……」
へなへなと脱力してしまう。
ジゼル様……これはちょっと、偽装夫婦には行き過ぎたアイテムです!
「そんなにお嫌でしたら、わたしのでよろしければ貸しましょうか?」
「ありがとうエマ。でも、まあいいわ。今夜はここで寝るんだし、ちょっと寒いけどショールを羽織れば問題ないわよね。そして明日、もっと防御力の高いものを買いに行きましょう」
「え、今日はあちらでお休みになられないのですか?」
「そうよ。ギルと約束したもの。今日から別々で寝るって」
「リリィ様はそれでよろしいのですか?」
「そりゃ、あのベッドは惜しいけれど……仕方ないわ……」
ジゼル様が私たちの為に用意して下さった、ふかふかで最高の寝心地をした素敵なベッドが目に浮かぶ。あれが昨夜だけで役目を終えるのは、そりゃ、ものすごーく勿体ないとは思うけど……
出来ることなら、もう一度くらい堪能したいとは思うけど……
「リリィ様。そんな顔をなさるくらいなら、今日もあちらの寝室に行かれたらどうですか?」
「でも……駄目よ。ギルが嫌がるわ」
そりゃ私だって、あのベッドの上を、一度ごろごろと転がってみたかったけど……
『今夜からは私、自分の部屋で寝るわ!』
堂々とあんなことを言っておいて、のうのうと夫婦の寝室になんて行けやしないわよ。
「大丈夫です。ギルフォード様は自室でお休みになられるのでしょう? でしたら、あのお部屋でリリィ様が一人で眠るだけじゃないですか! 何も問題ないですよ」
「――――確かに、それもそうね」
そうだわ。ギルだって別々に寝たいだろうし、敢えて夫婦の寝室になんて来ないに決まっている。
ということは、あの部屋は永遠の空き部屋なのだ。
つまり!
私が独占しても問題ないってことじゃない?
やだ、エマってばかしこいっ!
「ありがとう、エマ! 私、夫婦の寝室に行ってくるわっ!」
ちなみに、夫婦の寝室は私の私室やギルの私室とそれぞれ繋がっている。
廊下に出てこのとんでもない格好を人目に晒すこともなく、目的の地に辿り着けるようになっているのだ。なんという素晴らしい部屋構造だ。
「リリィ様、頑張ってくださいね~!」
ウキウキしながら、私は隣に向かう扉に手をかけた。
◆ ◇
バタン、と扉の開く音がした。
しんと静まり返る部屋の中で、その音を確認した俺は――――頬を上気させながら、ぐっと拳を握りしめる。
思えば、今日のデートは最高だった。
ケインのアドバイスに従い、まるで恋人のようにリリィと触れ合ってみた。わざと小さな馬車を手配して、彼女の隣に座ってみる。彼女が嫌がるようならすぐに場所を変えようと思っていたのだが、予想に反して、リリィは自分から俺に身を寄せてきた。
気をよくして、腰に手を回してみたけれど怒られなかった。自分でもちょっと調子に乗りすぎたかと思っていたのだが、払いのけられたりはしなかった。
手を繋いでみたら、キュッと可愛らしく握り返してくる。
更には、贈り物をしようとしたら、お揃いの指輪を身に着けたいと言われてしまった。
ペアリングって……それ、普通は、好きな人としたいものだよな……
もしかしてリリィ、俺のこと……早くも夫として認めてくれている!?
逸る心のまま、帰りの馬車でも隣に座ってみたのだが、またもやリリィは俺にしなだれかかってきた。たまらず肩を抱き寄せてみたけれど、やはり嫌がっている様子もない。
……え、俺ら今、ラブラブ新婚夫婦っぽくないか……?
いや待て落ち着け。リリィには好きな人がいると言っていた。昨夜だって拒否されて、それが昨日の今日で簡単に覆るわけがない。だからあんまり期待しすぎてはいけない。
今日だって別々で眠ろうと言われている。デートが終わった後も、何度か顔を合わせてはさりげなく様子を伺っていたけれど、ついに一緒に寝ようという言葉は彼女の口から出てこなかった。
しかし。
今、間違いなく扉の開閉音がした。
リリィが夫婦の寝室に来てくれたのだ!
これ、今夜こそ初夜をしてもいいってことだよな?
俺に都合のいい夢じゃないよな?
頬をバチンと叩いてみる。良かった。ちゃんと痛みを感じた。これは現実の出来事だ。
早速隣の部屋に行こうとして、足を止めた。
駄目だ。もう少し精神と心音を整えて、手の震えを収めてからにしよう。今度こそ、カッコよく決められるようにしなくては。
すー。はー。すー。はー。
しばらく深呼吸を繰り返した後。意を決して、俺は夫婦の寝室に続く扉をがちゃりと開けた。