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怪物と歌の魔法

 彼女は徐々に復職した。「もう動けます」と押し切られたのは否定しない。

 師たる男の采配で、中央での仕事を回して貰っているらしい。軽いものから体調を窺いつつ始まった仕事は、三日に一度ほど外出していく頻度に安定した。師と彼女の寡占かせん業務があるからと師を案じていた彼女だったが、復職して明るくなったので良かった。

「以前と同じ生活に戻しても問題なさそうに見えると、師匠からの言伝です。マキさんの裁量でよいと仰っていましたが」

「もうしばらく一緒に暮らそう。まだ昔のこと、整理しきれていないだろう」

 過去を書き留めてきた帳面を出したが、反応が芳しくない。

 復職と同時に、彼女は過去の話を避けるようになった。事情を問うたところ、帳面を開いて気まずそうに切り出す。

「……いたたまれないんですよ。冷静になると、気に病むことでもないなと」

 曰く、弔うべきを弔ったことを責められる理由は無い。

 涙が出ないのは体質、舞台度胸が無いのと薄情なのは性格だからと――一番苦しい精神外傷に向き合って以来、後向きだった思考は少しずつ改善していった。良い傾向ではある。

「……だが、死を悼むことと涙の有無は別だろう。薄情はただの中傷だ」

 村の人間から刺されたのだろう悪意を二重線で消す。多少は気が晴れた。

 次の訂正箇所を探そうとしたところ帳面が閉じられ、彼女が冊子を抱えた。弱った声で、窺うみたいに俺を見る。

「……もう、大丈夫ですから。そろそろやめてくれませんか…………」

 恥の基準が分からない。が、そんな顔をされると俺まで落ち着かない。

「……相良。多分それは、恥ずかしいんだと思う」

 彼女は自称するほど無感情ではない。というより、本人が無自覚でも情動自体は働いている。これは「琥珀」としての自我と自尊心を育てた時間の結実だと実感するばかりだ。


 とりあえず、晒すことに抵抗があるなら暴くのもやめよう。俺の身がもたない。

「さしあたり私が負わねばならないのは、歌えないことと、声の『魔法』を受け継げなかった責……母と兄と、座長殿周辺のことです」

 手際よく食事の後片付けをこなす彼女を手伝いながら、長いこと気になっていた疑問を投げる。

「その『魔法』とやら、俺の体感では使えていたと思うんだが、……何が駄目なんだ?」

「……マキさんにお見せしました? いつ……ああ、変声術はご存知でしたっけ」

 少し違うが話を聞くと「声を自在に変える」ような基礎技能が複数あり、その全てを修得出来なかったという意味で不完全らしい。

 母親から修得出来たものと出来なかったものを指折り挙げていく。声帯模写および変声術、人格模写は修得済み。感情伝播と情景共有は未習得だと――異論を挟んで中断させた。

「歌でこそないが、感情の伝達はされていた。この間の話だ」

 傍観の負い目を取り除いてくれたのは、俺を一切恨んでいない、彼女の心そのものだった。他人の感情が流し込まれる異常な感覚は他に知らない。一種の精神干渉とも取れる。

 けれど彼女は難しい顔だ。作業の手を一切止めずに思索を巡らせている。

「感情の伝達だけは、本当に最後まで形に出来ませんでした。……マキさんのお言葉を疑う点は申し訳ありませんが、信じられないのが本音です」

 真意こそ不明だが、彼女の母親が技術の皆伝を宣告しなかったのは事実なのだろう。俺も母親の技術に対する知見は無いので信憑性のある発言ができない。

 母親の『魔法』を知る人間――楽団の座長なら判断できると提案したが、却下された。

「どちらにせよ歌えないんですから。関係ありませんよ」

 あっさりとした物言いが真意か解らないのがもどかしい。

 歌声が出ない原因は心因性という見解と、回復の見込みはあると考えていることだけ、伝えた。



 外つ国の文学作品を読みながら、彼女は一度、北の街に戻りたいと話した。

 仔細報告、薬毒物や消耗品の補充など業務用件が溜まってきたことに加え、友人との約束を破ったままだからと落ち込んでいた。彼女がまめに筆をとる文通相手らしい。

 香が焚かれている封書かと探ったところ、彼女が本を見せて喜色を浮べた。

「翡翠殿、すごいんですよ。この言語を流暢に使いこなせる話者、マキさんと師匠以外に初めてお会いしました。異国の文化にまで造詣ぞうけいが深くてお話がとても楽しいです」

 恐らく彼女は知的好奇心に引っ張られやすい。よく考えなくとも、出会った頃の俺と彼女の関係性が、歌の練習から教養講義に変遷した辺りで察せた。

 話の限り、確かに翡翠という遊女は聡明だ。彼女の男装も知りながら口裏を合わせる辺り信頼できる友人なのだろう。楽しげに話してくれることも嬉しい限りだ。が。

「……異国の話なら、俺もできるが」

「えっ」

 食い付いた。振り向いた視線が俺を捉えて微動だにしない。

 本からこちらに関心が移ってくる過程が解りやすくて笑ってしまう。

「何処がいい。星の美しい砂上の国も、船が行き交う水の国もある。百年前に消えた、雲に届くほど高地にあった文明でも構わない」

「……それは、マキさんの作り話ではなく?」

「全て自分の目で見たものだ」長命を持て余した末の放蕩ほうとうが実を結んだ。

 彼女は見たことないほど狼狽うろたえた。本と俺を交互に見て「う、」「ああ」と単語にならない葛藤が漏れる。微笑ましく見守ろうかと考えたのも束の間、彼女は毅然とした態度で読書に戻った。

「……お話は非常に惜しいですが、半端は許せません。まだうまく読みこなせないので」

「……友人に、読み聞かせでもしてるのか?」

「朗読……劇? に近いご要望なので、そうしています。これは翡翠殿の蔵書に無かった物語ですから、初読の感動を損ないたくはありません」

 文字列が目に入る。人間関係のもつれや愛を絡めた物語だったような。

 そういえば出会った当初、恋愛系統の文学作品を借りられないか頼まれていた。母からの課題図書がこの系統だから追加課題が欲しいと――母親は、物語を教材に情操教育を行ったのか。それにしては恋愛に関する情緒が死んでいるのだが。

 情操教育の達成率をどう聞き出すか悩む最中、彼女が零した。

「翡翠殿、情景豊かで素敵な声だと褒めてくださったんです。……お世辞でも、いいので」

――やはり「魔法」は完成しているのではないか。

 彼女は自分のことに無自覚が過ぎるので自己申告が信用ならない。検証のため朗読に同席を願い出たところ、しばらく悩まれた。

「申し訳ありません。二人だけで会う約束なので……ええと、花街ならご案内させて頂きます。好みなど教えて頂ければより良くご紹介できますかと。お任せ下さい」

 張り切って請け負われた。泣いた。

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