少女の周りのひとたち
母は美しい人だ。美しく微笑んだままやらかす人だ。
思えば母は家事を苦手としていたのだろう。厨で火柱を立て、村の女性が悲鳴を上げて転がり込むのがしょっちゅうだった。そのたび愉快そうに来客をもてなし決して余裕を崩さなかったから、私はますます母のことを疑わなかった。
母は常に楽しそうだった。笑いながら私の口に匙を突っ込むので、舌が痺れる灰色の汁は食物なのだと信じていた。致し方ないが厳しい場所だとは思っていた。たびたび食事を吐く兄が、私の手を引いて家事一式を覚えだすのに時間はかからなかった。
炊事洗濯を熟せるようになった私達を、母は素直にたくさん褒めた。家事は得意な方がやればいい。母が私達を虐げることは一切無く、いつも感謝を伝えてくれた。
母は奔放な人だったが、言動には他者への礼節が在った。
「尊い場所をお貸しいただき、有難うございました」
本殿に供物を置き、一輪の菫を添えて手を合わせる。
歌の練習場所を聞いた母は、社に御座す神へ感謝と礼儀を尽くすよう教えてくれた。初めと終わりに挨拶をして家に戻ると、帰路の暗がりが不思議と怖くなくなった。
だから私にとって、母の言葉は大切だった――意図が読めなかったとしても。
「おかえり相良。件の男の名前、ちゃあんと聞いてくれたか?」
森のほとりまで迎えに来てくれた母はにこにこしていた。待ちきれず弾む声で問われれば、暮れ方は身体が冷えると諌める言葉も萎んでしまう。
長い黒髪と金の瞳。私とほぼ同じ容姿の母が、私より余程きらきらした眼でこちらを見つめる。観念して答えを差し出した。
「マキ、というお名前でした」
「ん? 女か」
「男性だそうです」
「ふむ……まあいい。そうか。ふふ、そうかそうか」
意図を尋ねると、母がうたうように笑う。
「変な話じゃないさ。お前の友人になれるくらいだから、きっと面白い男だろう? なんだか嬉しくて、どこの馬の骨だか知りたくなってしまったんだよ」
友人かどうかは、微妙だ。
実態を目の当たりにしたらどう思うだろう。悲しい顔をするだろうか。
「人見知りのお前が、歌を聴かせても構わないとまで警戒を解いたんだ。他所からどんな話を聞くより信頼できるさ」
――母は何時も、私の心を読んでいる。
あの人が怖くなかったと言うと嘘だ。動機の分からない人というのは、普通、怖い。どうも彼はあの社に用があるわけでも、私に用があるわけでもない。歌っていると音もなく現れ、品定めでもする視線でこちらを観察していた。
彼の出現に気づくたび喉が詰まって歌が潰れた。私は単純に怯えていた。彼はそんな未熟者の醜態に言及するでもなく、みっともなく隠れた子どもを無機質に眺めていた。
『こんにち、は』
意を決して、喉を引き絞ったことがあった。裏返りかけて音にならなかった声を、あの人は難なく聞き取ったらしい。
迷いなく私の隠れる大木へ向き合い、ごく淡々と、
『ああ。こんにちは』
挨拶をしたら、挨拶が返ってきた。
質問をすれば答えてくれる。
そういう、普通のひとだった。
そんな簡単なことを理解するまで、かなり時間が掛かってしまったけれど。
だから以前ほど怖くはない。観客がいれば舞台度胸を付ける訓練になる気もして、あの人の前で歌い続けている。友人ではないにせよ。
「母さん、身体が冷えます。話なら家でしますから」
母は病持ちだ。病名は教えてくれないが、お医者様に定期的に診てもらっている。
夕暮れの冷え込みは堪えるはずだ。同じように冷える朝方、小さく咳き込んでいたのを聞いた。
「今日のお薬は飲みましたか」
「こらこら。俺は子どもじゃないぞ、まったく……しっかりしてくれるのは嬉しいんだがな。ここまでくると考えものだ」
そろそろ、帰りの遅い母を心配して――
「いた、母さん!」
前掛け姿の兄は恐らく、夕飯の支度途中で家を飛び出してきたに違いない。時おり双子の兄の行動を予知する錯覚がして、幼心に不思議だと思う。
厚手の羽織を母に着せかけ、兄が白い頬を膨らませる。
「外に出るならあったかくしてねって、あんなに言ったのに!」
「ああ、和泉。ありがとうな。僕はつくづく幸せ者だ」
母の指を温める私を、兄がぎゅっと抱き締めた。私と瓜二つな身体は熱源と同じにぽかぽかしていて、自分の身体も冷たくなっていたことを思い知らされる。
「ただいま、兄さん」
「おかえり、相良」
兄の愛嬌は母譲りだろう。くるくる変わる表情はどれも魅力的だけれど、笑った顔がいちばん好きだ。周囲まで暖めてしまえる優しい雰囲気は、兄にぴったりだと思うから。
「料理当番、私も手伝います」
「俺の日だからいいよ。相良は母さんとお話してて」
「兄さんだって、たいてい私の当番は手伝ってくれてますよ。おんなじです」
「? ……当番分けたのに、あんまり変わらないね」
「二人でやった方が早いですよ」
鏡写しの顔を見合わせて、私の表情も、兄のようにほどける心地がした。
■
少女の提案は、いつも開口一番に発される。
「握手を失礼したいのです」
「そうか。構わない」
白い餅のような手が、俺の手を握った。
握手というより、ふかふかしたものに包まれた手が上下に振り回されている、と表した方が正確だろう。
「どうした」
少女がちらと俺を見た。笑みの一つも伴わない素面は特に不機嫌でも何でもなく、通常通りの顔である。愛想はない。
「友情とはこういったものらしいと、本で」
俺の名前を訊ねた母親が、俺と少女との関係を友情と評したらしい。
検証として一般的な物差しでの「友情」を試しているのだと――淡々とした説明の最中にも、俺の掌のふた周りも小さな白い餅が指の間をするすると這う。指と指を深く絡ませ握りこむ。
女がするなら恋人の真似事だが、少女の手つきは無機質な実験のそれだ。
「間違ってはいない。が、不適だろう」
真剣に苦悩しながら、少女が俺を見上げる。
「俺とお前は友人じゃあない」
「奇遇ですね。私もそう考えていました」
意見の一致は喜ばしいことだ。