2.心安まる春の陽射しは
ポカポカとした日差しと日向の匂いにまるで昼寝をしているようだと少女は思った。あの頃と同じように安心出来る。いつまでもこの微睡みの中に身を沈めていたい、できることならば永遠に。
ウトウトとそんな考えに思考を巡らせていた少女はその意識を急速に浮上させる。
おかしい。自分はあの冷たい街で大好きだった男の手に掛けられて死んだはずだったのに。
この暖かな心地はなんだ?死とはこんなにも暖かいものだったのか?
否、それは断じて違うと何かが応える。
死とは暗く冷たいものだ。何かが訴える。
少女、ノアは自分の現状に違和感を感じバッと勢いよく起き上がった。
その瞬間肩からお腹にかけて鋭い痛みが走り、同時に目眩も起こしたことでふらりとよろめき元の体勢に逆戻りする。
痛みを感じる。痛い、何処も彼処も悲鳴をあげている。ならばこれは夢ではない。ではこの状況は何だ。
ぐるぐると思考が頭の中を駆け巡る。
分からない……解らない……判らない……。
なにも、ワカラナイ。
混乱した頭で考え過ぎたからか、疲れていたからか、ノアは再び眠りに落ちていった。
数人の足音でノアの意識は現実に戻された。今までの習慣というものか、少しの物音でもノアの意識は覚醒してしまう。
しかしノアは、あまりにも近くで聞こえた足音に、こんなにも近づかれるまで気が付かないとは失態だと自身を叱咤した。
「あれ?姉さん起きた?」
聞こえるはずのない声が耳に入る。
聞けるはずのない声が鼓膜を揺らす。
ずっと求めていた声に心臓が脈打った。
ギギギと言う音が聞こえそうなほど歪な動き方をしてノアは声の主を見る。
「れ…どがー……?」
出した声は掠れていて、随分使ってなかったのかハッキリした音にはならなかった。
たったそれだけの音を発しただけなのに喉は痛み、ヒューヒューと乾いた風が通り抜ける。
それすら気にならないほどノアは困惑していた。上手く纏まらない感情が頭の回転を鈍らす。
何故?彼は、私の唯一の肉親は、大切な大切な弟は、あの時目の前で死んだのではなかったのか。伸ばした手は僅かに届かず、絶望した瞳とかち合った瞬間、ノアの心は大切なものを失った。
自分の見ている光景が信じられず、ノアは緩慢な動作で弟であるレドガーに手を伸ばす。
あの時届かなかったこの手がまた届かないかもしれないという恐怖がノアを惑わせる。
「うん、レドガーだよ。姉さん、おはよう。頭打ってたみたいだけど大丈夫かい?」
恐る恐る近づいてきた手をレドガーはキュッと両手で握りしめ微笑んだ。
たったそれだけの事なのにノアは涙が溢れそうになった。暖かい、体温を感じる手をまだ完全に力を入れることが出来ない手で握り返す。
よかった。とノアは一つ息を零した。生きている。ここにいる。その事実がこれ程までに嬉しい。
「れどがー、いき……てた」
声が掠れたままで、良かったと噛み締めるように繰り返した。
今にも涙が溢れ出しそうでノアは唇をかんで強く耐える。唇から鉄の味がしようと構わなかった。弟の前で情けない姿は見せられない。
ノアは自身の痛む身体を無理矢理起こしてレドガーに抱きついた。
強く抱き締めようにも如何せん体が痛くて力は込められなかったけれど。
レドガーは姉さん?と困惑した声音で声をかけてきたが、返事をしないノアに何を感じたのか力強く抱き返す。
痛いと感じる苦痛より、ここにレドガーがいるという幸福感の方が大きく感じた。
ノアの白に近い金髪よりも少しだけ濃いサラサラとした金の髪。ノアの青を帯びた翡翠色の瞳に緑を足したようなタレ目ゆえに甘い印象を与える目。線の細い体に、高めの体温。腕の中にあるレドガーだと確信できる全てのものにノアは安堵した。
ノアはしばらくの間そうしていたが落ち着いてこの現状が把握できてなかったのを思い出し、パッとレドガーから体を離す。
「そういえば、何で…俺はここに」
ノアは少しだけ声が出しにくかったのか僅かに咳き込んだ。気付いたレドガーがベッドの脇にある机に置いてあった水をノアに手渡す。
ノアはありがとうと一言お礼をして水を飲むとレドガーに向き直って説明を促した。
「覚えてない?姉さん”掃除”に行って大怪我して帰ってきたんだよ」
ノアがまだアランに拾われる前、レドガーやほかの仲間たちとナニカに追われる生活をしていた頃。
追っ手が迫ってくる度に”掃除”と称して年の上の者たちが撃退しに行っていた。仲間たちの中では年が上だからといって世間から見れば彼らも少年少女の域を出ない。ナニカは真っ黒で形も分からない不可思議な存在だ。そんな得体のしれないナニカから逃げ延びるのは容易ではなく、仲間が一人また一人と消えていく。
ノアは久しく思い出すことのなかった苦々しい思い出に顔を歪めた。
ノアがあの日々から抜け出せたのはアランのおかげだ。仲間が一人もいなくなって、自暴自棄になっていたノアにアランが手を差し伸べてくれていなければ、あの時周りの仲間たちと共にノアもいなくなっていたに違いない。
「一人で行ったって聞いてレオさんが駆け出して行ったんだ。暫くして血だらけの姉さんを抱えて戻ってきたからびっくりしたよ」
レドガーはそこで一旦言葉を切り、はぁーと深い息をこぼした。そのまま俯いて喋らなくなる。おい、レドガー。とノアが声を掛けたことで顔を上げるが、前髪に隠されて表情は上手くうかがえない。隠された顔を見ようとノアが前髪に手を伸ばすと、それを遮るようにレドガーがノアの手を掴む。レドガーは静かにほとんど囁くような声で呟いた。
「心配したんだ。目が覚めない姉さんに、もうこのまま起きてこないんじゃないかって不安を掻き立てられて。でも僕にはどうすることも出来ないからただそばに居るしか出来なくて」
風でレドガーの前髪がふわりと靡き、見えなかった顔が顕になった。
レドガーは顔をくしゃくしゃにして頬を濡らしている。涙をとめどなく流す姿はまだ子供のそれで。ノアはギュッと力が込められて掴まれた腕をゆっくり離させ、逆にこちら側に引き寄せた。
痛む腕を伸ばして頬を伝う涙を拭ってやる。レドガーは一瞬ぴくりと反応したもののされるがままになっている。
「姉さんまで……僕から離れないで…」
涙と共に溢れ出したレドガーの本音。
ノアはレドガーの泣き言など以前は聞いたこともなかった。
いつも気丈に振る舞い、彼よりも年下の子達の面倒を率先して見ていたレドガー。掃除にやるには心配だったため、皆が揃ってレドガーはアジトで他のものを安心させてくれと頼んでいた。ノアたちが掃除に出たあとレドガーが入口でどんな顔をして見送っていたかも知らずに。
不安ばかりを募らせていたのだろう。隠すことが上手かったレドガーだからこそ、ノアは勝手に大丈夫だと決めつけていたのだ。
レドガーがやっとノアに本音を話してくれた時、それはもう遅すぎた。レドガーは涙をポロポロと流し、壊れそうになるまで自分を追い込んでいた。
ノアが目を覚ました時笑顔でおはようと言ってみせたように、レドガーは自分すらも偽って生きてきたのだ。本心を隠し、平気なフリをして、他人と自分を偽ってきた。
「レドガー」
小さな呼び声はレドガーの耳に躊躇いもなく忍び込んできた。涙でぐしゃぐしゃの顔を必死に隠そうとするレドガーの顔に両手を伸ばす。
「もう我慢しなくていい。お前に無理させてたくせに俺がこんなこと言って調子がいいかもしれない、けどなレドガー。これからはちゃんとお前のこと見てるから」
ノアはレドガーと額を合わせるようにして見つめ合う。ノアの青混じりな翡翠色とレドガーの緑が濃い翡翠色とが絡み合った。
「後はもう姉さんに任しとけ。そんでお前のことも頼らせてくれよ」
レドガーにふっとほほ笑みかける。
レドガーは未だ涙で濡れる顔に笑顔を浮かべて大きく縦に頭を振った。
ノアはよし、と頷きレドガーの頭を撫でる。擽ったそうに身をよじるレドガーは照れているのか仄かに顔が赤い。
まだ夢か現か把握は出来ていないがそれでも長らく会うことが無かった、会えると思っていなかった弟との再会はノアの心に余裕をもたらした。
大好きだった男の裏切りは想像以上にノアの心を傷つけていた。
「姉さん、大丈夫?辛そうな顔してる」
レドガーの声で我に返ったノアは苦笑した。流石は姉弟とでも言うべきか、レドガーにはすぐに感情を見破られてしまうようだ。分かりずらい部類ではないとは思うが、誤解を招いてしまうことの多いノア。それによって相手に不快な思いをさせてしまうことも少なくはない。
しかし幼い頃から言葉少なでもレドガーに間違った思いが伝わることは無かった。それはレドガーにしてみても言えることで、昔からノアとレドガーはお互いが一番の理解者だった。
「ありがとうな、レドガー」
理解してくれる弟はいつもノアの心の支えだった。いきなり感謝を告げられたレドガーは、何だか分からないけど大丈夫そうだと判断し、どういたしまして姉さん。と返した。
あの後他愛もない話をして此処が本当に過去であるのだとノアは実感した。
ノアにとってアランに裏切られたこと、殺されたことは嘘ではない。ならばアランによって剣が体を貫いた時、自分は過去の世界へと来てしまったのだろう。
そう仮説を立てたノアはこれから起こることが自分の知っていることか、それとも全くの違う道筋を辿るのか考えた。
もし同じ道筋を辿るのだとすれば、あの事件がやってくる。一夜にして全ての仲間が手の届かぬ場所に行ってしまったあの血の夜が。
ノアが死んだあの時からざっと5年程前のことだ。今の体が12歳ほどであるから猶予としては1年あるかないか。せっかく過去に戻ってこられたのだから今度こそ大切な人達を守ってみせると、ノアは固く自身に誓った。
「姉さん、まだ外に出ないでね。体調が万全な訳じゃないんだから」
早速体づくりにでも行くかと思いたった瞬間、レドガーに制されてベッドに体を沈めることとなった。
「レドガー、お前心でも読めるのか」
あまりにもタイミング良くレドガーが声を掛けたものだから、ノアは少し慄いた。本当に心でも読めるのだろうか。私の変化に敏感すぎやしないかとノアは訝る。
「うずうずしてたからね。体動かしたいんだなーってことくらい分かるよ。何年一緒にいると思ってんのさ」
両親は何年一緒にいようが分からなかった気がするのだか、そこは置いておこう。
確かに万全な状態ではなく、動こうとすればお腹にある傷が激痛をもたらす。ノアは渋々、動こうとするのをやめた。
「あ、そういえばレオさんがお見舞いに来るって言ってたけど…」
レドガーが切り出したところで軽く扉が叩かれる音がした。レドガーがレオさんかな?と首を傾げ、返事をして扉を開ける。
案の定外に立っていたのはレオだった。覚えている姿と遜色なく、またレオも生きていることでノアは本当に過去に戻っているのだと改めて実感する。
「何だ、起きていたのかノア」
ぶっきらぼうに言い放たれたその言葉に優しさが込められていることをノアもレドガーも他の仲間たちも知っている。不器用なやつだが、誰よりも熱く優しい心を持っているとノアは昔から思っていた。
「お陰様で生きていられるようだ、助かった」
一瞬、ほんの気づくか気づかないかの差でレオは眉を顰める。ノアは目敏くそれに気が付いたが敢えて何も言わず言葉を進めた。
「あまりよく覚えていなんだが、レオが知っているだけでも俺の気絶前のことを教えてくれるか?」
ノアは現状の把握が出来たところで、自分がどういった経緯でこうなったのかをレオに聞くことにした。前世と言って正しいのかどうかも分からないがノアが前にいた世界ではこのような過去はなかった。故に何があったのかを知るためには周りに聞くしか方法はなかったのだ。レドガーに聞いたことはざっくりとした事で、レオがノアを助けに行ってから帰ってくるまでの間は不明だ。ならばやはり、当事者に聞く他知る術はないだろう。
「俺もあまり詳しくは語れないぞ」
それでもいいのかとレオは言外に告げる。大まかにでも話してくれて構わないと、ノアは首を縦に振った。
レオが語ったのを要約するとこういうことらしい。今から約一週間前、ノアの姿が忽然と消えていることに気が付いたレオは居場所を仲間に聞いて回ったが、誰もが知らないと言った。手掛かりがあるかとノアの部屋に赴けばいつもノアが”掃除”の時に使う武器が一式消えていた。1人で掃除に向かったと悟ったレオはレドガーにその事を伝え、あとを任せて自身はノアを追った。
そこまで語った時点でレオははぁ、やれやれとため息を吐いた。ノアが何だと視線で問えば、察しろ馬鹿と同じく視線で返ってくる。はぁ、ともう一度ため息を吐きレオは続きを話し始めた。
周辺の森にはおらず街まで行けば路地裏から血の匂いがしたのでその匂いを辿っていくとそこにノアがいた。血濡れのノアに意識がなく危ない状態だと判断したレオは急いでアジトまで戻り、レドガーと共にノアの看病についた。それからノアは五日間眠り続け今に至る。
ということらしい。
「ノア、本当に覚えていないのか」
レオにそう聞かれたノアは緩く首を振った。覚えているもなにもノアがこの世界のノアでない限り記憶は違う。前の世界の過去で起こらなかった事柄についてノアが知るはずもなかった。
否定を示したノアにレオはそうかとだけ返事をする。
「レオさん!姉さんは怪我人なんだからあんまり長くいたらダメだよ! 姉さんもちゃんと寝ること!」
レドガーはビシッとノアとレオに指を突きつけて強く言うと、最後に優しく微笑んで部屋を出ていった。
2人だけにしてあげようという優しさからだろう。本当にそういう気遣いに溢れた子だ。気遣うつもりが当の本人になかったとしても、それは自然と周りを気遣う行動になっている。ノアとレオは顔を見合わせて笑った。
「身体は大丈夫か」
近くにあった椅子に座っていたレオはノアの寝ているベッドに座り直し、寝ていたノアの前髪をサラッと掬った。
「起き上がれば痛む程度だ。寝ていれば問題ない」
この距離感も懐かしいなとノアは苦笑した。ノアとレオはこのアジトでは一番古い付き合いだ。もちろんそこにはレドガーも含まれるのだが、ノアとレオは同い年ということもあり昔から仲がよかった。
変な噂を立てられるのもあれなので、2人きり以外の時ではこのように触れ合える距離にいることもなかった。
「血濡れのお前を見た時、肝が冷えた。また仲間を失うのかってな」
髪を弄びながらレオは静かにそう告げる。
「レドガーにも言われたよ。あいつの涙がこんなにも堪えるとは思わなかった」
ノアはふいとベッド脇の窓から差し込む光に視線を移し、目元を手の甲で覆い隠した。
泣かせたのか。とレオが僅かに驚いたように言う。それにただうるさいとだけ返しノアは沈黙を貫く。
何の音もしない空間が続いても、不思議と不快な気持ちはしなかった。ノアの頭を撫でるレオの手はとまらず、ゆっくりと時が流れていく。
「俺もレドガーも大事なヤツを失うのが怖いだけなんだ」
ボソリ。声が聞こえた。
「手からすり抜けていく感覚分かるだろ」
ああ、分かるさ。分かるとも。今まで何度その感覚を味わってきたことか。数えきれる程だったにも関わらず全ての大事なものが手からすり抜けていった。
ノアは唇を噛み締める。
「何で、俺たちだったんだろうな」
ノアはストンと心に落ちる音を捉えた。
そうだ、何故俺たちがこんな目に遭わなければならないのか。何故俺たちの仲間は次々に消えていく運命を辿るのか。何故何も守れないのか。何故…何故…何故……。
挙げていけばきりのないそれらを睨みつけるように光に手を翳しその向こう側を見る。答えなど誰も知らない。答えなどあるのかも分からない。けれど、その”ない”を恨まずにはいられなかった。
「お前、その目の色……」
呼び掛けられ、顔を向ければ呆然とした表情をしたレオがノアを見ていた。
「目の色がどうかしたか?」
何も言わないレオにノアが問いかければ、レオはいやと頭を振った。
「光の加減で違う色に見えただけのようだ」
変なレオだな。ノアはクスクスと先程までのことを忘れ笑った。