1.その慟哭は天高く
パシャッと水しぶきの跳ねる音がする。
雨の降る中を必死に逃げる少女は息を切らし少しの間立ち止まる。
傘も持たない少女はびしょ濡れで、濡れた前髪が邪魔なのか無造作に片手で払った。膝に手を付き肩で息をしながら時折噎せる。
それでもなお自身の足を叱咤するように拳で殴り、再び走り出す。
幾度となくまろびながらも前へ前へと進んでいく。その少女の目の前でゆらりと空間が歪んだ。
「っ…………」
少女は走っていた勢いを殺しきれず、つんのめるようにして止まる。
「逃げるなよ、ノア」
歪んだ空間から突如現れた男が少女に話しかけた。ノアと呼ばれたその少女は、はっ、と鼻で笑いギラギラ光る瞳で男を睨む。
「殺されそうになってるのに逃げないとかバカだろ」
確かに。と男は頷きゆっくりと手を前に掲げた。ノアは警戒していつでも逃げれるようにと腰を低くする。
「逃げるのならば拘束するまでだ」
男の手から光が飛び出し、瞬間的にノアを光の輪で拘束した。
咄嗟に逃げることの出来なかったノアは拘束を解こうと抗うが光の輪はビクともしない。それどころかノアが身をよじるたびに締め付ける力が強くなっている。
くっ、とノアは唸り膝を折った。それでも抗うことはやめない。
「解こうとしても無駄な足掻きで終わるだけ……それはお前がいちばんよく知っているだろう?」
抗うノアの前で立ちどまり、ノアを見下ろした。
「敵を前にして絶体絶命な状況であろうとその目が光を失うことは無い。昔から変わらないな、ノア」
男は先程までの冷徹な雰囲気は残すものの、どこか憂いを帯びた目をノアに向ける。ただ静かに自分を見下ろす男をノアは一層きつい眼差しで睨みつけた。
「んで、お前は私の敵になったんだよ」
ノアは苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら苦しげに声を漏らす。その声はまるで懇願だった。違ってくれと、夢であってくれと切に願う声が聞こえてきそうな程の。
「……殺さねばならなくなったからだ。この世界にお前は必要ない」
しかし返ってきたのは冷たい淡々とした声で、ノアはヒュッと息を飲んだ。殺さねばならない。必要ない。その言葉が、男から紡がれたそれが心を深々と突き刺す。
ゴウッと風が強く吹き付けどこかの家の窓がパリンッと割れた無機質な音がした。
「私はただ生きていたかっただけなのに!!なんで誰かに否定されなきゃいけないんだよ!!生きたいと願って……何がいけなかったんだよ!!」
慟哭が街中に響く。頬を流れる雫は雨か涙か。判別はつかないがノアは確かに泣いていた。心が哭いていた。
「生まれた時から生きることを望まれてなんかなかった!生きてちゃいけないんだってずっとそう思ってた!!それを覆したのはお前だ!!生きろと言ったのはお前だ!!」
雨の中、心の叫びが降り注ぐ。
「なのに……なのに何で、何で今になってそれを否定されなきゃいけないんだ!!生きろと言ったお前に!!」
一度は愛を教えてくれた人。幸せを与えてくれた人。なぜその人にこのような仕打ちをされなければならないのか。
男はそんなノアの叫びをなんの感情も乗せない表情で見下ろしている。
その事がノアにはさらに突き放されたように感じた。
否、実際突き放されているのだろう。今までの情など無かったかのように殺されそうになっている今。
「こんなことならあの時アイツらと死んどけばよかった!!こんな気持ちを知るなら、あの時、アイツらと!!世界を憎んだまま死んどけばよかった!!幸せなんて知ることないまま死んどけば!!!」
その時ピクリとも動かなかった男の顔が少し歪んだ。同時に男の影が僅かに揺らぐ。俯いて男の顔を見ないようにしていたノアはそのことには気づかぬまま肩を震わせる。
「俺はお前に幸せになって欲しかった。それは本当だ。笑って欲しかった、喜んで欲しかった、幸せだということを実感して欲しかった」
今までと変わらず淡々と紡がれるその言葉。あまりにも簡素で淡白で、ノアには何も届かなかった。
ノアは小さく嘘つきと呟く。
「俺は狗だ。逆らうことなど許されない。俺はお前を殺す、それが……世界の総意だ」
男は腰から提げていた剣に手を掛ける。
また小さく嘘つきと零し、ノアは顔を上げた。
「嘘つきだ、お前は嘘つきだ!!今更そんなこと言われたって!何だよ幸せになって欲しかったって!!最後にはみんな私を裏切っていくんだ!結局は!!信じた私がバカだったってことなんだろ!!!」
一瞬、ノアの瞳が紅く光った。それに目敏く気付いた男はノアを殺すために剣を掲げる。
「俺を憎めばいい。それでお前が救われるのなら最期まで俺を憎んで逝け。世界がお前を見放しても、俺は……」
聞こえるはずもない小さな声で男は思いをこぼす。
せめて苦しまぬように、せめて痛みを与えないように。世界に抗えなかった男は最後の優しさを持ってノアを殺す剣を振り下ろす。紡がれることのなかった言葉を乗せて。
「ぜってぇ、ぜってぇ許さねぇ!!アラン!!私は、俺は、貴様を絶対に許さない!!」
まるで呪いだ。と男、アランは自嘲する。いつの日か守ると誓った少女を自身の手で殺す。それをきっと忘れないための呪い。
この優しい子が幸せに生きられる未来を自分が作ることは叶わなかったから、どうか。
「すまない、ノア。愛している」
一言小さく、ノアに聞こえるか聞こえないかの声量で最も伝えたかったことを声に出し、アランはその切っ先をノアに突き刺した。
とおくで泣き声が聞こえる
それは怒りや悲しみが綯い交ぜになった感情
憎い憎いと口が紡ぐ
悲しい悲しいと心が叫ぶ
愛してほしかったと一筋の涙が頬を伝った