6月
俺の体重は75キロにまで減った。
これでスーパーファットから、ミドルファットくらいにはなったかもしれない(何それ?)。
最初の頃は500メートルでヒイヒイ言っていたランニング距離も、今では2キロにまで伸びた。
腹筋も40回、腕立て伏せも10回と、少しずつだが着実に回数も増えている。
心なしか、腹筋も割れてきているような気もする(ゴメン今のは見栄張った)。
俺は、満を持して次の段階に進むことにした。
やって来たのはメガネ屋さん。
バイト代もそこそこ貯まってきたので、いよいよコンタクトデビューすることにしたのだ。
子供の頃から世話になっているメガネ屋の店長にコンタクトにしたい旨を伝えると、
「ハハハ、青春だねえ」
と茶化されたが、グッと堪えた。
何とでも言うがいい。
いつか目玉が飛び出るくらい可愛い雪野坂さんを連れてきて、目に物見せてくれる。
サンプルのコンタクトを目に入れる際は指も心も震えたが、入れてしまえばこんなものかといった感じだった。
むしろメガネがなくなった分、頭がとても軽く感じた。
これでTシャツを着る際も、いちいちメガネを外さずに済むのかと思うと、心が躍った。
俺用のコンタクトが届くのは1週間後だと言われたので、新作ゲームが発売する前くらいワクワクしながら、俺は1週間を過ごした。
そして1週間後、メガネ屋でコンタクトを受け取った俺は、その足であらかじめ予約しておいた駅前にあるシャレオツな美容院に向かった。
普段の散髪は千円カットの安い店で済ましている俺だが、これからはそれではダメだ。
雪野坂さんに釣り合う男になるためにも、身だしなみにも気を遣わねば。
美容院の外観は、いかにも『ダサ男お断り』とでも言いいたげな洗練された佇まいで、入るのには大層勇気が要ったが、雪野坂さんの笑顔を思い浮かべて自らを奮い立たせ、俺は入口の戸を開いた。
「いらっしゃいませ。当店は初めてですか?」
「は、はい……」
俺を担当してくれた人は、この店の店長さんらしかった。
とはいえ、歳はまだ三十前後といったところだろう。
スラッとした高身長のイケメンで、絵に描いたようなリア充のオーラを醸し出している。
俺の髪を切っている最中も、俺に気さくに話し掛けてくれ、相当コミュ力も高いことが窺える。
さぞかし女性にもモテることだろう。
ここまで人間として差があると、嫉妬心よりもむしろ諦観の念が湧いてくるから不思議なものだ。
俺はもう一つ勇気を出して、店長さんにワックスを使った髪型の整え方をレクチャーしてもらえないかと頼んでみた。
何せワックスなんて生まれてから一度も使ったことがないので、一人で適当にやったら散々な結果が待っているのは、火を見るよりも明らかだったからだ。
店長さんはそんな俺の不躾なお願いにも笑顔で応じてくれ、初心者の俺にもわかりやすく、丁寧に髪型の整え方を教えてくれた。
俺の髪質に合った、オススメのワックスまで紹介してくれた。
カット代は5800円で、ゲームソフトが一本買える値段だと思うと、若干めまいがしたが、その分得られたものも大きかった。
俺は今後も、髪を切る際はこの店に来ようと決めた。
翌日、朝教室に入る際、俺の歩く足はガクガクと震えていた。
雪野坂さんはメガネをコンタクトに変え、髪型もワックスで整えた俺を見てどう思うだろう?
何、陰キャが調子コいてんだよと思われたらどうしよう。
いや、それ以前に、俺なんかの変化にまったく気付かない可能性だって高い。
所詮俺なんて雪野坂さんにとっては風景の一部に過ぎないのだ。
通学路に貼られているポスターが変わっても気付かないように、俺がどれだけ見た目を繕おうが、雪野坂さんの目には止まらないかもしれない。
俺は必死に平静を装いながら、自分の席に腰を下ろした。
まだ雪野坂さんは登校してきていないようだ。
既に席替えはされていて、俺と雪野坂さんの席は離れてしまっているが、位置的に雪野坂さんが自分の席に向かう際は俺の前を通り過ぎるはず。
いつだ。
いつ雪野坂さんは登校してくるんだ。
あまりの緊張に俺の心臓はフルスロットルで脈打ち、頭がボーッとして目の前が真っ白になってきた。
「――あれ? 進藤君、何か雰囲気変わった?」
「――!」
その時、俺の頭の上から透き通るような声が降ってきた。
慌てて顔を上げると、そこには雪野坂さんが天使の笑みを浮かべて立っていた。
あまりの緊張に、雪野坂さんが教室に入ってきたのにも気付かなかったらしい。
「う、うん……。ちょっとね」
何が「ちょっとね」なのか自分でもまったくわからなかったが、やっとその一言だけを俺は返した。
「ふーん、そうなんだ。似合ってるよ、それ」
「っ!……あ、ありがとう」
「いえいえー、どういたしまして」
雪野坂さんと交わした会話はそれだけだったが、この日俺は一日中、口元がにやけっぱなしだった。