2月
雪野坂さんに好きな人がいるということが判明して以来、俺は勉強も何も手につかなくなってしまっていた。
――が、そんな俺を立ち直らせたのは、以外にも加藤の言葉だった。
「……なあ加藤、もしも、もしもの話だよ? 加藤の好きな人に、他に好きな人がいるってわかっちゃったら、加藤ならどうする?」
「ア?」
ある昼休み、俺はそれとなく(?)加藤に聞いてみた。
「何だそのくだらねー質問は」
「く、くだらないって!?」
こっちは真剣に悩んでるのに!
「そんなのそのライバルよりも魅力的な男に、自分がなりゃいいだけじゃねーか」
「っ!」
……何だって。
「恋愛もバスケも同じだ。最終的にライバルよりも点数が高かった方が勝ちなんだからよ。今の時点で相手にリードされてるからって、あきらめたらそこで試合終了だぜ」
「……加藤」
加藤はバスケ部らしく、有名バスケ漫画の名言を、俺に授けてくれた。
そうか、そうだよな。
雪野坂さんが誰を好きだろうが、俺が頑張ってそいつよりも俺の方を好きにさせればいいだけなんだ!
「お前は凄いな、加藤」
「ん? 何がだ? あー、それにしてもよー、四組の篠崎さんて、イイよなあ」
「……」
お前は本当に凄いよ……。
それ以来俺は、今まで以上に勉強を頑張った。
それだけではなく、教室でもなるべく雪野坂さんに話し掛けるようにしたし、月曜日はセーラープリティの話題で盛り上がったりもした(楓ちゃんもまた俺とセーラープリティごっこをしたいと言ってくれてるらしい)。
俺の見える範囲では、雪野坂さんが想いを寄せている男が誰なのかは特定できなかったが、そもそもこの学校の人間とも限らない。
油断は禁物だ。
そして一年生最後の学年末試験がやってきた。
ハッキリ言って、俺は心持ちだけで言えば受験生の気分だった。
ある意味これで今後の人生が決まるかもしれないのだから、あながち間違ってもいないだろう。
今度こそ俺は雪野坂さんに勝つ。
そして雪野坂さんを振り向かせる。
俺は心血を全て注ぎ、乾坤一擲の精神で学年末試験当日を迎えた。
その甲斐あって、俺はテストで過去最高の手応えを感じていた。
どの問題も、頭で考えるよりも先にペンが動いて、いつの間にか答案を埋めていくような感覚だった。
自己採点でも、どの教科もほぼ満点に近かった。
実際、全科目の合計点でも、俺は前回の期末テスト時より17点も上回っていた。
――今度こそ雪野坂さんに勝った。
俺は襟を正し、学年順位の張り紙の前に立った。
「フー」
大きく深呼吸を一つしてから、俺は真っ先に3位の位置に書かれている名前を見た。
するとそこには――
雪野坂さんの名前が書かれていた。
「……あ」
そんな。
これでもか。
これだけやってもまだ届かないというのか。
死ぬ気で足掻いても足掻いても、それでも雪野坂さんはいつも一歩先に行ってしまう。
俺が雪野坂さんに追い付けることは、一生ないのだろうか。
俺の心には果てのない荒野を彷徨う旅人のように、虚しい風が吹いていた。
「進藤君」
「……雪野坂さん」
振り返るとそこには雪野坂さんがいた。
だが、今だけは雪野坂さんの顔を見たくはなかった。
こんな情けない姿の俺を、雪野坂さんの目に入れたくなかった。
いっそ俺は、消えてしまいたかった――。
「……凄いね、進藤君は」
「え?」
凄い?
俺が?
俺なんかのどこが凄いっていうんだよ雪野坂さん。
今回もあれだけ頑張ったのに、雪野坂さんに勝てなかった、俺なんかのどこが――。
「ふふ、さては進藤君、ちゃんと順位表見てないでしょ?」
「――え」
俺は身体を反転させ、後ろの順位表を再度確認した。
そうだ。
そういえば俺はまだ、自分の順位を見ていなかった。
俺は何位なんだ――。
今回、俺は――。
「――あ」
俺の順位は………………2位だった。
「おめでとう進藤君。今度こそ本当に、私の負けだね」
「……雪野坂さん」
俺の隣に立った雪野坂さんは、何故か少しだけ嬉しそうな顔をしているように見えた。
「……はい、これ」
「え」
雪野坂さんは透明な袋に入った、小さな包みを俺にくれた。
その中には、歪な形をしたガトーショコラが入っていた。
いかにも手作りっぽい見た目をしている。
――そうか、テストのことで頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。
今日は、バレンタインデーじゃないか。
「あ! お返しとかは、気にしなくていいから!」
「え、でも……」
「じゃ、じゃあ、私は用事あるから、もう行くね! じゃあね進藤君」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ雪野坂さん!」
「バイバーイ!」
「雪野坂さーん!?」
……行ってしまった。
俺は自分の身に起きたことがまだ理解できておらず、ガトーショコラを握ったまま、呆然と立ち尽くしていた。
だが、家に帰ってきて自分の部屋の机に座った途端、ついに雪野坂さんに学年順位で勝てたことと、雪野坂さんからチョコレートを貰えたことがセットで俺の心に襲ってきて、俺は机の上で頭を掻きむしりながら10分程悶え苦しんだ。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
そしてやっと少しだけ心が落ち着いてきた矢先だった。
ミィが俺の机に乗ってきて、ガトーショコラの匂いをスンスン嗅いでいるのが目に入った。
なっ!?
「ダ、ダメだぞミィ!」
「ニャオン」
「俺にもくれよ」とでも言わんばかりのミィから、俺は慌ててガトーショコラを取り上げた。
もちろんこのチョコを誰にも分けたくないという気持ちもあるが、そもそも猫にチョコレートはご法度なのだ。
猫がチョコレートを食べてしまった場合、中毒症状を引き起こし、最悪の場合死に至ってしまう。
俺も自分で猫を飼うまでは知らなかった。
俺は不満気な顔のミィを床に下ろしてから、じっくりとガトーショコラに向き合った。
雪野坂さんがどういうつもりでこれを俺にくれたのかは定かではないが、今はそんなことはどうでもいい。
たとえこれが義理チョコであろうと、俺にとっては好きな人から貰えたかけがえのないものであることには違いはない。
今の俺にとってこのチョコは、国宝にも匹敵する程の価値がある。
居住まいを正し、清い心でいただかなくては。
俺は震える手で包みを開き、ガトーショコラを手に取って、ゆっくりと一口食べた。
すると――。
「甘ッ!!!」
死ぬ程甘かった。
それは俺が生涯口にした食べ物の中で、ブッチギリで一番甘い食べ物だった。
最早チョコに砂糖が入っているというよりは、砂糖にチョコが入っていると言った方が適切かもしれない。
まさかパーフェクトガールだと思われた雪野坂さんに、こんな意外な弱点があったとは……。
大丈夫なのかな?
こんな感じでケーキ屋さんでバイトしてて、やっていけてるのかな?
まあ、ケーキ屋さんではあの美人の店長さんが監督してるのだろうから、滅多なことは起きないのだろうが……。
「……ハハッ」
何だか初めて雪野坂さんにも人間らしいところがあることがわかって、俺は少しだけ嬉しかった。
俺はそれからたっぷり30分程掛けて、ガトーショコラを完食した。
その間ずっと俺は泣いていたが、その涙の意味は、自分でもよくわからなかった。