暴食の怪物
津波のように押し寄せる肉塊から身を守る為に、カルウィルフは咄嗟に後退し、シェエンバレンの身体から距離を置いた。
肉塊はシェエンバレンの身体を覆い尽くし、少しずつ何かの形へと変化していく。気色の悪い音を立てながら蠢く、大量の肉によって出来上がった『それ』は、この世に生きる生命の姿とはかけ離れた、正真正銘の異形であった。
頭部、胴体、四肢。人間を含むあらゆる動物の肉体を構成する身体部位をかろうじて持ってはいたが、そのどれもが醜く歪み、赤黒い光沢をまとっていた。
右腕は丸太のように太く強大で、左腕は関節から細かく枝分かれし、その先端は槍のように鋭く尖っている。アンバランスな二つの腕を支える胴体と両脚の表面には、獣人の時に生えていた体毛の隙間から軟体生物のような触手が溢れ出し、激しくひしめていた。
空想の世界にも存在しない様相を持つ怪物の、最もおぞましい部分は頭部だった。葡萄の実の様に付いている無数の眼球がぎょろぎょろと蠢き、その全ての視線がカルウィルフの姿を追っていた。
あまりにもグロテスクな姿へと変貌したシェエンバレンを前に、カルウィルフがたじろいでいると、眼球に塗れた頭が奇怪な叫び声を上げながら縦に割れ始める。
割れた頭の中から現れたのは、大量の歯が幾重にも敷き詰められた『口』だった。大きく開かれた口からは粘性の体液がぼたぼたとこぼれ落ち、蒸気を上げながら地面を溶かしていく。
「喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろぉっ!」
変貌したシェエンバレンは何度も同じ言葉を叫び続けていた。まるで知性を感じられない言動から、この化け物の行動原理は食欲だけに絞られているように思えた。
暴食の怪物。数多の人を喰らい、異界の扉を通り続けた果てに生まれた物がこんなものなのか。復讐を誓った敵の前だというのに、カルウィルフの心は酷く虚しかった。
怪物は奇声を上げながら、カルウィルフへと突進する。触手の束でできた脚は、その巨大な身体からは考えられぬ程の速度を生み出していた。
カルウィルフは今までシェエンバレンを切り刻んでいた見えざる刃を操り始めた。この刃には周囲の光を吸収すると、その色へと変色する特殊な塗料が塗られている。カルウィルフが対異界喰らいの為に用意した策だった。
見えざる刃は迫りくる怪物の両脚に目掛けて、高速で回転しながら、突き進んでいく。そして、カルウィルフの狙い通りにシェエンバレンの脚を再び切り落とした。
だが、シェエンバレンの進行は止まることはなかった。切り落とされた脚の切断面からは、すぐに大量の触手が湧き始め、新たな脚へと変わった。
「はははははははっ!」縦に裂けた口の奥から、怪物の狂った笑声が響く。
「くそっ! 化け物め!」
カルウィルフは再び刃でシェエンバレンの全身を切り刻んだが、獣人の姿の時を超える圧倒的な再生速度により、僅かな傷も与えることはできなかった。
シェエンバレンの巨大な右腕が突っ込んでくる。カルウィルフはそれを紙一重で躱していく。ちらりと右腕が衝突した地面を見ると、そこには大きな穴が出来上がっていた。これを食らったら、ひとたまりもない。
今度はは、枝分かれした左腕による追撃が始まる。鈍重な右腕と違い、何度も素早い刺突を繰り返してくる。
手に持った刀と、刃の鎧でなんとか連撃を凌ぎ切ったが、身を守ることしかできず、こちらから攻め入る隙は全く無かった。だが、例えこの化け物の身体をバラバラに切り裂いても、すぐに元通りになってしまうだろう。
(こいつの力の源はなんだ? それを壊せば、この化け物を止められる!)
カルウィルフが勝機を探っていると、突然、シェエンバレンの身体が震えだし、口から大量の体液をこちらに向かって吐き出してきた。カルウィルフは先程の蒸気を上げていた地面を思い出し、素早く姿勢を低く落としそれを躱した。おぞましい怪物の体液はカルウィルフの頭上を通り越して、背後の壁をぐずぐずに溶かした。
溶け崩れた壁の方から蒸気が舞い上がり、カルウィルフの鼻孔に入り込む。胃酸が逆流した時のような酸っぱい臭いがした。
(これは胃液か?)
この街の本で読んだことがある。体内に人工的な機械を埋め込み、臓器の代用として機能させる方法があると。もしや、それが力の触媒なのだろうか。
シェエンバレンの身体が再び震えだす。カルウィルフは体液による攻撃に備え、数本のナイフを片手に構えた。大量の歯が連なる口が大きく開かれる。カルウィルフはその瞬間、ナイフをシェエンバレンの口の中に向かって放り投げた。
カルウィルフの投げたナイフがシェエンバレンの無数の眼に映った途端、体液をばら撒こうとした口が閉じた。ナイフは口の中に入ることなく、眼球のいくつかを潰しただけで、すぐに他の眼の隙間から、潰れた眼球の代わりがぼこぼこと這い出てくる。
(やはり、奴の体内には何かがある!)
口をしっかりと閉じたままの怪物の姿を見据えながら、カルウィルフは考える。最強の再生能力があるのなら、あんな小さなナイフを気にする必要は無い。それを攻撃を中断してまで避けたのは、きっと体内に弱点があるからだ。どんなに知能が衰えても、急所を守る本能はあるのか。
この怪物を仕留めるための方針は決まったが、方法は限られている。触手に塗れた体表を突き破ることは、凄まじい速度の再生能力が許さないだろう。やはり、あの口の中に刃をぶち込んで、内臓をズタズタに切り裂いてやるのが、最も有効な手段と言える。
今の奴の頭の中の殆どは、食欲に支配されている。それは奴の強力な武器でもある。必ず、あの口が開かれる時はある筈だ。狙うのは、そこだ。カルウィルフは目の前の怪物を倒す方法を決めながら、その様子を窺った。
しかし、怪物はカルウィルフの狙いを理解しているかの様に、縦に裂けた口を力強く閉じ、百近くある眼球でこちらをじっと見つめていた。
カルウィルフは見えざる刃を気づかれぬよう、シェエンバレンの周囲に配置し、攻撃の態勢を整えた。刀を右手に、左手にはナイフを持つ。
シェエンバレンの醜い身体が微かに脈打つ瞬間、カルウィルフは怒涛の攻撃を開始した。ナイフをばら撒きながら、力強く踏み込み、周囲に配置していた見えざる刃を怪物の両腕に向かわせる。
最初に投げたナイフを囮にすることで、シェエンバレンの両腕を見えざる刃によって切り離すことができた。これで、奴の武器は口だけになる。カルウィルフは両腕の再生が始まる前に、シェエンバレンとの距離を更に縮めるため、再び大きく踏み込んだ。
攻撃の手段を失ったシェエンバレンは口を大きく開きながら、カルウィルフの身体に噛み付こうと迫ってきた。カルウィルフはすかさず、数本のナイフを開いた口の中に向けて投げた。しかし、すぐにナイフの存在に感づかれてしまったのか、左右に開かれた口は勢いよく閉じようとする。このままでは間に合わない。
カルウィルフは投げたナイフを操り、左右に反らした。そして、ナイフより早く刀を突き出し、閉じかけたシェエンバレンの口の中に突っ込んだ。
「喰ってもらうぞ! 俺の刃を!」
カルウィルフは刀を傾け、シェエンバレンの口の中にねじ込み、両顎を無理矢理に開かせた。それでも、閉じようとする口を抑えるために、自身の身体を刀と共に押し込む。
無数の歯が肩や腕に突き刺さったが、全身の筋肉を強張らせ、シェエンバレンの動きを完全に止めた。やるなら今しかない。カルウィルフは左右に反らしていたナイフを再び操り、シェエンバレンの喉の奥へと向かわせる。研ぎ澄まされた刃の輝きが暗く深い怪物の中へと消えていった。




