大海原には船が浮かぶ
ここはどこかの世界、どこかの街。見渡す限りの大海原。海の上には沢山の廃船が浮かぶ。船の墓場。過去には船上に人が住む街があったのだろうか。しかし、今はもぬけの殻。船のきしむ音だけが鳴り響く。
ここはどこかの世界、どこかの街。男と少女は異界を渡り続けていた。そして、今度は廃船の上。人の気配の無い廃墟となった街の探索。異界渡り達も知らぬ未知の世界を旅する。
砂の異界を後にしたラフーリオン達は、その後、いくつかの異界を渡り歩いた。都市、農村、森、渓谷。二人が歩いた異界は沢山の人々の生活や景色を見せた。
そして、今回の異界の扉の先は強い日差しが差す海の上、巨大な船の甲板へと繫がっていた。両隣にも大型の船がずらりと並んでおり、甲板から隣の船に繋がる橋がかかっていた。
二人は無数の船の上に作られた街に辿り着いたのだった。
「変わったところだ。船の上に街を作るなんて」ラフーリオンが辺りを見回す。
「ラフーリオンも始めて来る世界なのか?」同じように海を見渡すリシュリオル。
「ああ、来たことのない世界だ。他の異界渡りから聞いたこともない」
「珍しいですね。ラフーリオンさんが見たことも聞いたこともない異界なんて」アリゼルがリシュリオルの影から現れる。
「今まで渡った全ての異界にラフーリオンは訪れていたからな」リシュリオルがアリゼルの言葉に続けるように話す。
「異界は無限に近い数が存在すると聞いたことがある。俺が知らない場所も多いだろう。ただ異界渡りによって、辿り着く異界の傾向はあるらしいが」
「誰も知らない未知の異界。楽しみですねー」愉快そうに笑うアリゼル。
「あんまり楽しいだけじゃないがな。こういう世界では何が起こるか全く分からない」ラフーリオンは改めて鋭い目つきで周囲を見回す。
「取り敢えず、この船を調べてみるか」ラフーリオンたちは異界の扉に繋がっていた船の中を探索し始めた。船は大型の旅客船でレストランやバーなどの飲食施設、プール、シアター、カジノなどの娯楽施設が多数設けられていた。
だが、船内は荒れに荒れており、壁紙も剥がれかけ、床も所々抜け落ちている。そして、船体の殆どが海に浸かっていた為、生身で探索できる場所はあまり無かった。これ以上この船にいても仕方がないとラフーリオンが判断し、二人は甲板に戻ることにした。
「何もないな。あるのは廃船になった豪華客船だけみたいだ」ラフーリオンは甲板から見える大量の船を見渡して、ため息をついた。
「他の船もあまり期待できそうにないな」
「ああ、よく見ると、他のどの船も外装がボロボロになって剥がれかけてる」リシュリオルが船体の表面へと目を凝らす。
「この世界に人はいないんでしょうか? こんなに大きな船が何隻もあるなら、一人くらい人間がいてもいいと思うのですが」アリゼルがリシュリオルの隣にいる時よりも高く浮かび上がり、空中から周囲を見回した。
「人がいなくなった異界もある。そういう異界にも何度か訪れたことがある」ラフーリオンが答える。
「人がいなくなった? どういうことだ?」
「……戦争とか伝染病とか、何かしらの理由があって、その街の人間が全滅したってことだ。……人が消えても扉は残るから、異界の扉として通ることはできる」口を開くのを少し躊躇うように話すラフーリオン。
「異界の全てが平和ってわけじゃないのか」リシュリオルは異界の暗面を知り、少し悲しくなる。
「どんな世界にも良い面と悪い面があるもんだ。目に見える表面だけで世界の情勢を判断するのは良くない」
「リシュがいた世界にはいろいろありましたからね。異界に平穏な世界を期待するのも分かります」アリゼルが上空から降りてきた。リシュリオルはアリゼルの言葉を聞いて、舌打ちをする。
「そんなに酷いところだったのか? お前の住んでいた街は」
「あの街の事は話したくない」リシュリオルはそっぽを向いてしまい、自分が住んでいた街について何も話さなかった。
「まあ、誰にでも言いたくないことはあるだろうさ。……さて、ここでお喋りを続けていても問題は解決しないし、他の船に行ってみるか」ラフーリオンは好奇心を抑えて、今立っている船に隣接している貨物船に向かって歩き出した。
貨物船には、大量のコンテナが無造作に積まれており、甲板は迷路のようになっていた。崩れ落ちたコンテナを避けながら、甲板を歩き回るラフーリオン達。
だが、この船にもめぼしいものは何も無かった。今にもコンテナが崩れ落ちてきそうだったので、急いで隣の船に向かった。
貨物船の隣の船はクルーザーだった。その隣の船は大型漁船。いずれの船にも人や鍵の気配は無かった。
「船にもいろいろあるんだな。勉強になる」ラフーリオンは興味深そうに頷きながら、船を見て回る。
「どうでもいいよ、そんな事」リシュリオルは悪態をつきながら、ラフーリオンの後をつまらなそうに付いていった。
船の上を渡り歩き、探索を続けているとリシュリオルが何かに気付く。
「おい、あれを見ろ」数隻隣にある船を指差すリシュリオル。
「誰かいますねー。ここからではどんな人かは分からないですけど」アリゼルが上空から呟く。
「ここに来て、初めての人か。どんな奴か分からん。注意して近づくぞ」ラフーリオンが先行して、慎重に船との距離を狭める。船に近づくに連れて、今まで見てきた船とは異なる様相をしていることに気付く。
「軍艦だ。この世界での戦争で使われていたんだろう」ラフーリオンは船体から飛び抜けた背の高い檣楼を見上げる。ラフーリオンは何かを察知したようにリシュリオルの方を見る。
リシュリオルは彼の視線の動きに合わせて頷く。
「鍵の気配がする」
「ああ、この船からだな」
二人は再び目の前の巨大な軍艦を見上げた。
ラフーリオン達は軍艦の甲板に向かう為、船体にかかる梯子に取り付いていた。他の沈みかけの船と違い、軍艦はしっかりと海上に浮かんでいる。その為、船同士を繋ぐ橋が架かっておらず、長い梯子で船体を登る必要があった。
「もうすぐ甲板に出る。ここからは更に慎重に行くぞ。アリゼル、甲板の様子を覗いてきてくれないか?」
「お安い御用です」
アリゼルが船体の壁に沿いながら浮上し、甲板を覗きに行った。しばらくすると、ラフーリオン達の元に戻ってきた。
「この梯子を登り切ると、檣楼の真横辺りに出るみたいです。あと艦首の方、一番手前の砲塔の近くにスーツを着た若い女性が二人いました。何かを探しているようでしたが……」
「スーツ? ……取り敢えず、俺一人でその二人に接触してみる。何かあったら合図を送る」ラフーリオンは梯子を登りきり、甲板に足をつける。リシュリオルは見つからないように、梯子の近くで待機していた。
アリゼルが言っていた通り、二人の女性は一番手前の砲塔の辺りにいて、何やら話し込んでいた。ラフーリオンは彼女達に見つからないように、甲板上の設備の陰に隠れながら艦首付近の砲塔に近付いていく。二人に気付かれずに、砲塔の側まで辿り着いたラフーリオン。更に彼女達に近付いていく。二人の内の一人が笑い声を上げる。
(なんだか聞き覚えのある声だ。気のせいだろうか? ……嫌な予感がする)ラフーリオンは聞き覚えのある笑い声に不安を感じながら、彼女達の死角から顔を覗き見る。一人は長い金髪、もう一人は明るめの茶髪を後ろに結んでいた。
(まさか……)二人の内の一人はラフーリオンがよく知っている人物だった。
リシュリオルと出会う前に、弟子として一緒に異界を渡っていた――。
「イルシュエッタ!」ラフーリオンは思わず声を出してしまった。彼の声に気付き、素早く身構える二人。だが、ラフーリオンの顔を見た茶髪の女性はすぐに警戒を解いた。
「あれ? 師匠じゃないですか! 久しぶりです」茶髪の女性が驚いた顔をした後、笑顔になり、馴れ馴れしくラフーリオンに話しかけた。
「ああ、久しぶりだな。……イルシュエッタ、まさかお前に会うなんて」ラフーリオンは未だ驚きを隠せないでいた。
「この方を知っているんですか? イルさん」金髪の女性がイルシュエッタに質問する。
「私に異界のことを教えてくれた人ですよー、先輩」
「そうだったのですか。私はリーリエルデと言います。彼女とは職場の同僚です」リーリエルデがラフーリオンに向けてお辞儀をする。
「俺はラフーリオンです。……職場の同僚と言っていましたが、何か仕事を為さっているのですか?」
「はい。異界渡りの旅を助ける為の道具の開発や販売をしています。規模の小さいお店なので、まだ試作品が多いですが、別々の異界同士を繋ぐ通信機なんかも作っているんですよ」リーリエルデが自慢気に話す。
「それはすごい。……ですが、イルがそんな仕事についていたなんて、信じられない。こいつが役に立つとは思えない」ラフーリオンはイルシュエッタの方へと視線を向ける。
「ひどいなー、師匠は。私はすごく役に立ってますよね、先輩」
「ま、まあ護衛役としては……他はさっぱりですけど」歪んだ笑顔で答えるリーリエルデ。
「先輩までそんなこと言うんですかー?」
「やっぱりな……。お前が役に立つ所は腕っぷしの強さだけだったからな」ラフーリオンがリーリエルデの言葉に納得するように頷く。
「そんなことないですよー、料理を作ったりしたじゃないですか」
「あんなに不味いものは人生で二度食うことはないだろうな」
「でも、異界の鍵探しは一級品でしたよね」
「どこかのアホが異界の鍵を排水口に流して、初めて下水道に入ったことがあったな。あれは良い経験だった」鼻で笑うように話すラフーリオン。彼の嘲るような態度に苛ついた顔をするイルシュエッタ。
「……でも、師匠との喧嘩には負けたこと無いですよ」イルシュエッタは自慢気に笑みを浮かべた。
「……確かにお前のほうが強かった。それなのに俺に迷惑ばかり掛けるから、お前と一緒の毎日は辛かった。まだアイツといた方がマシだ――」
自身の言葉でリシュリオルを待機させたままだったことを思い出すラフーリオン。
「忘れていた!」急に慌て始めるラフーリオンの姿を見て、不思議がるイルシュエッタとリーリエルデ。
「……もうここにいるぞ」不機嫌そうな顔をしたリシュリオルが砲塔の影から現れる。
「あんまり遅いから、アリゼルにお前の様子を見に行かせたんだ」
「とっても楽しそうに二人の女性とお話していると伝えました」アリゼルがケラケラ笑う。
「余計な事を……」ラフーリオンがため息をついた。
「人を待たせておいて、良いご身分だな」リシュリオルの髪がうっすらと赤みを帯びる。彼女は鋭い目つきでラフーリオン達を見据える。
(こいつら、どこかで見たことあるぞ)リシュリオルはイルシュエッタとリーリエルデの顔を二度見する。
(ああ、思い出した……)リシュリオルの中で沸々と怒りがこみ上げてくる。
「お前等、私を異界の扉に送った異界渡りだな!」リシュリオルの髪が一瞬で長く、赤く変貌する。
「うーん?」イルシュエッタがリシュリオルの顔を凝視する。そして、何かを思い出したように彼女に指を差す。
「ああ、雪の街にいた偉大な精霊憑きの子供か。今までよく生きてたじゃん」どうでもよさそうに頭を掻きながら、話すイルシュエッタ。その態度に更に怒りの炎を激しく燃やすリシュリオル。
「リシュを異界の扉に送り込んだのは、やっぱりイルシュエッタだったのか」ラフーリオンが呆れた顔でイルシュエッタの方を見る。
イルシュエッタの異界渡りの力は鍵。あらゆる場所に扉を作る。そして、彼女は異界の扉を作り出す特殊な力のある鍵を持っている。行き先は不明、一人だけしか通れない扉を。
「あと時のこと、忘れた事はないぞ!」リシュリオルの怒声が船に響き渡る。
「ふーん。私はすぐに忘れたよ」リシュリオルを嘲笑うように挑発するイルシュエッタ。
「くたばれ!」リシュリオルの叫びと共に空中に現れた複数の火球がイルシュエッタに向かって驀進する。それを軽やかな足捌きで躱すイルシュエッタ。
「あの時よりは強くなったね。……でも、そんなの当たらないよ。私の髪の毛先にすら当たりやしない」しなやかな体躯による無駄の無い動きが飛び交う炎を捌き続ける。
「ならこれでどうだ!」リシュリオルの周囲に黒い炎が巻き起こる。
「あれはまずい。……もうよせ、リシュ! 船が沈むぞ!」ラフーリオンが叫ぶ。
「うるさい! こいつだけは許せないんだよ!」リシュリオルは止まらない。
「聞き分けの無いやつだ。リーリエルデさん、少し下がりましょう。あの炎に巻き込まれたらまずい」ラフーリオンはリーリエルデを炎の届かない所まで誘導する。ラフーリオンが炎から遠ざかろうとするのを見つめるイルシュエッタ。
「……確かにその黒い炎は危なそうだね」イルシュエッタが呟いた直後、彼女はリシュリオルに向かって、素早く前進する。
「正面から来るなんて、いい度胸だ」
「まさか!」イルシュエッタは前進の速度を緩めて、小刻みにステップを踏み、左右への動きを加え始める。
「何だ? あの動き」リシュリオルはイルシュエッタの変則的な動きに気を取られる。
「リシュ。彼女、指で何かを飛ばしできましたよ。あっちと……そっちから」リシュリオルからやや離れた場所にいるアリゼルが指を差しながら、注意を促す。
(私の指弾、よく見えたな。流石は名前の通った精霊)イルシュエッタがアリゼルの優れた動体視力に言葉を呑む。
「何が!」リシュリオルはアリゼルの指差した方向へ視線を向ける。視線の先には何かが光に反射しながら、彼女に向かってきていた。
「それ、当たると痛いよ」イルシュエッタは薄ら笑いを浮かべながら、リシュリオルへの前進を再開する。
(クソ! 避け切れない!)イルシュエッタの攻撃に気付くのに遅れ、慌てるリシュリオル。
「なら、全部燃やす!」リシュリオルはかざした両手を振り下ろし、黒い炎を放射状にばら撒き、真っ直ぐ近づいてくるイルシュエッタと彼女が飛ばした何かをまとめて焼き払おうとする。黒い炎がリシュリオルの周囲から激しく音を立てながら、沸き起こる。
炎が収まると、リシュリオルの眼の前からはイルシュエッタは跡形も無く消えていた。
リシュリオルが安堵のため息をついた瞬間、背後から甲板を踏む靴音が聞こえた。その音にリシュリオルは反射的に振り返る。彼女の後ろにはイルシュエッタが余裕の笑顔を見せていた。
「今度はもっと高めに炎を撒いたほうが良いよ」イルシュエッタが空に向かって指を差す。
彼女は凄まじい跳躍力で燃え盛る炎を飛び越え、リシュリオルの背後へと回り込んでいたのだ。イルシュエッタは高所からの着地をものともしない、素早い走り出しでリシュリオルとの距離を一気に詰めようとする。反応に遅れたリシュリオルはイルシュエッタの接近を許してしまう。
「これは本当に痛いからね」イルシュエッタは鍵束をポケットから素早く取り出し、鍵が指の隙間から突き出るように握り拳を作った。そして、リシュリオルの顔面に向けて鋭い突きを放つ――。
だが、イルシュエッタの拳はリシュリオルの目の前で止まった。どこからか現れたアリゼルがイルシュエッタの腕を掴んでいた。
「危ない危ない。リシュ、大丈夫ですか?」アリゼルがイルシュエッタの腕の先へと視線を向けると、額に汗をかきながらへたり込んでいるリシュリオルがいた。
「さっきもそうだったけど、二対一はずるいんじゃないかな」イルシュエッタが不満気に言う。
「宿主に何かあったら困りますからね」アリゼルは掴んでいたイルシュエッタの腕を離した。
「はいはい、そうですか。せっかく盛り上がっていたのに。白けるなー」イルシュエッタは掴まれていた腕をぶらぶらと振る。
「お前、あの動きは何だ? それに今の跳躍、並の人間ができるものじゃない」リシュリオルが先程の戦闘でイルシュエッタが披露した独特の動きについて聞く。
「暗殺拳法」イルシュエッタが何もない空中に向かって拳で素振りをする。
「ふざけるな!」リシュリオルはイルシュエッタの茶化すような態度に怒号を放つ。その大きな声に彼女はしかめっ面をして、耳を塞いだ。
「リシュリオル、そいつの言っていることは本当だ。イルシュエッタは異界渡りになる前は幼い頃から俺にもよく分からない組織で暗殺の訓練を受けていたんだ」ラフーリオンが真面目な顔でイルシュエッタの過去について語り始める。
「そうそう。日夜、暗殺者になるための厳しい訓練で涙を流す私を可愛そうに思った師匠が、一緒に異界を旅しないかと誘ってくれたんだよ」イルシュエッタが一人でくだらない茶番劇をし始める。
「……それは嘘だ。俺が次の異界の扉を通ろうとしたら、無理矢理付いてきたんだ。俺をいきなり殴り倒して、連れて行かなきゃ殺すと言って。最悪な事にこいつには異界の扉を通れる適性があった」
「そうだっけ?」とぼけたような態度をするイルシュエッタ。
「……そうだ。後になって理由を聞いたら、毎日同じ訓練が続いてつまらないから、組織から逃げ出したとか」
「そんな得体の知れない組織からよく逃げ出せましたね、イルさん」リーリエルデがイルシュエッタの素性に驚いていた。
「言ってませんでした?」またとぼけるイルシュエッタ。
「イルさんは自分の事を全然喋らないから……」リーリエルデが困った顔をしながら、ため息を漏らした。
「暗殺拳法だかなんだか知らないが、私にもその技を教えろ!」リシュリオルが唐突に叫び出す。
(この状況でよくそんなことが言えるな)ラフーリオンがリシュリオルの言葉に唖然とする。
「この状況でよくそんなこと言えるね」イルシュエッタが呆れた表情でリシュリオルに言う。
「うるさい! 不公平だろ。私はずっと何も無い部屋に閉じ込められていたんだ。そんな技術を覚える時間も無かった!…………」リシュリオルは言ってはいけない事を言ってしまったように黙り込んだ。
「閉じ込められていた? お前がいた世界で、何があったんだ?」ラフーリオンは好奇心を抑えられず、リシュリオルを問い詰めようとする。だが、彼女は何も言おうとしなかった。しばらくの間、誰も口を開かない時間が続く。
イルシュエッタがその沈黙に耐えかね、ため息をついた。
「はぁ、人には色々事情があるから、これ以上君のことについては誰も何も言わないよ。その話はもう終わり」イルシュエッタの言葉に、少しだけほっとした顔をするリシュリオル。
「ただその前の話。私の体術を教わりたいって言うなら、条件がある」続けて話すイルシュエッタ。
「条件っていうのは?」今度は不安そうな表情をして聞くリシュリオル。
「私の事を『師匠』と呼んで敬う事。私、いつか弟子をとってみたいと思っていたんだ!」
「断る!」リシュリオルは即答する。
「じゃあ、教えない。この話は無かった事に」
「何か、他に無いのか? 他の条件は」
「無いよ。さあさあ、手始めに私を師匠と呼んでみなさい」
「…………し、ししょ……」リシュリオルは呟くような小さな声を上げる。
「声が小さいなぁ」悔しそうにするリシュリオルをいやらしい目つきで見下ろすイルシュエッタ。
「さあもう一回。ほらほら大きく息を吸って――」ミシッ、ミシッ。イルシュエッタの言葉の途中、何かが軋むような音がした。
「変な音がしないか?」甲板に響き渡る異音に気付き、周囲を見回すラフーリオン。
「この船、揺れているような気がします」リーリエルデが怯えた表情で言う。
「大丈夫でしょ。こんなボロ船でも、沈むことはないんじゃない?」イルシュエッタが一歩、足を進めたその時、床からバキッと音が鳴った。
「やっぱりヤバイかも」焦った顔でラフーリオン達の方を見るイルシュエッタ。
その直後、イルシュエッタとリシュリオルが立っていた床が大きな音を立てて崩れ落ちた。二人は甲板の下へと落ちていった。
ラフーリオンとリーリエルデが甲板にぽっかりと空いた大きな穴を覗き込む。
「大丈夫か!」ラフーリオンの声が穴の中で響き渡る。
「大丈夫、私も弟子も無事だよ!」イルシュエッタの声が返ってくる。
「弟子じゃない!」リシュリオルの声も確認できた。
「……大丈夫そうだな。今から下に行く方法を考えるから、そこで待ってろ!」
「どうせこの船の中に鍵があるなら、いろいろ調べてみるよ!」
「待て! そこを動くな!」ラフーリオンの制止の声に対する返事は聞こえなかった。彼は大きくため息をついた。
「どうしましょうか?」リーリエルデが困った顔をしながら質問する。
「取り敢えず、この穴の下に降りる方法を考えましょう。リーリエルデさん、何か使えそうな物は持っていませんか?」
「はい、なんでも持ってますよ。私の異界渡りの力はこのケースです」そう言って、リーリエルデは手に持ったアタッシュケースをラフーリオンに向けて突き出した。
「ケース?」ラフーリオンが首をかしげる。
「私のケースにはいくらでも物を入れられるんです。ロープでも梯子でも、なんでも入れてありますよ」
「なら、長めのロープを出して下さい。あと、船内を照らす明かりもお願いします」
「分かりました。今出しますね」リーリエルデは少しだけ口の開いたアタッシュケースに手を突っ込んで、ガサガサとまさぐり始めた。
「ありました!」リーリエルデがアタッシュケースから手を引き抜こうとすると、ケースがはちきれそうになるほど、膨れ上がる。彼女はお構い無しにケースから思いっきり手を引き抜いた。
「どうぞ、ロープとランタンです」どういう原理なのか、膨れ上がっていたアタッシュケースは元の大きさに戻り、リーリエルデの手元には束ねたロープと大きなランタンがあった。
「……ありがとうございます」
ラフーリオンはどうやってそのケースの口より大きな物を取り出したのか聞こうと思ったが、異界のまだ見ぬ驚異の力なのだろうと考えて、すぐに忘れる事にした。
「じゃあ、下りていきましょう」ラフーリオンはロープを甲板上の適当な柵にくくりつけ、リシュリオル達が落ちていった穴に投げ込んだ。長いロープの先端が抜け落ちた床の底に向かって落ちていった。
床とともに甲板から落ちてしまったリシュリオルとイルシュエッタは鍵の気配を見つける為に、船内の探索を開始しようとしていた。船首に近い場所から落ちた為か、二人は真っ直ぐな通路の端にいた。
通路を進むにつれ、抜け落ちた穴から照らされる光が弱まり、船内はどんどん見通しが効かなくなっていった。
「これじゃあ、探索どころじゃないね。……我が弟子よ。精霊の炎でこの暗い船内に明かりをつけたまえー」ふざけた態度でイルシュエッタがリシュリオルに命令する。
「調子に乗るなよ」リシュリオルは悪態をついたが、空中に小さな炎の玉を発生させる。船内は行動を起こすにはあまりにも暗すぎたのだ。
「よーし、偉い偉い。じゃあ行こうか、我が弟子」イルシュエッタが先行して歩き始める。
「面白い人ですね」アリゼルが笑いながら言った。
「……」リシュリオルはアリゼルの言葉にも、イルシュエッタの悪ふざけに対しても何も言わず、先に進んで行くイルシュエッタに付いていった。
片っ端から船内を調べていく二人。船内は他の船と比較すると状態が良かった。浸水している場所なども無く、動かそうと思えば今からでも海の上を進んでいきそうだった。だが、船室の一部の扉は錆びついており、精霊の力で強化されたリシュリオルの腕力でも開けることができなかった。
「だめだ、全然開かない」リシュリオルが苛ついて、開かずの扉を蹴りつけた。
「師匠に任せなさい。開けてあげましょう」イルシュエッタは扉の前に行き、ポケットから鍵束を取り出した。
「私の鍵は何でも開けられるんだ」イルシュエッタは船室の扉の鍵穴に明らかに形の合わない鍵を差し込もうとする。
「そんなの入らないだろ」リシュリオルがイルシュエッタの行動を馬鹿にするように笑う。
だが、鍵はするすると鍵穴に入っていった。そして、扉に四角く筋が入っていき、扉の内側に一回り小さな別の扉が現れる。
「どう? すごいでしょ。さあ、お先にどうぞ」イルシュエッタがお辞儀をして、扉の横に移動した。
リシュリオルは不愉快そうな顔をして、扉を開けた。扉の先は寝室につながっており、二段ベッドがずらっと並んでいた。少し埃を被ってはいたが、硬そうなマットレスもまだしっかりとした骨組みを残しており、目立った汚れの無い白いシーツが敷かれていた。
「少し休もっか。なかなかの寝心地だよ、このベッド」ベッドに飛び込み、横になるイルシュエッタ。
「そんな事してる場合じゃないだろ」リシュリオルが怒鳴り声を上げる。
「じゃあ一人で鍵でもなんでも探しに行けば?」イルシュエッタはリシュリオルの方も見ずに目をつぶったまま、どうでも良さそうに言った。その様子を見て、リシュリオルはイルシュエッタの説得を諦め、彼女が寝ているベッドとは反対側のベッドに座り込んだ。
「弟子はさー、どうして異界渡りの旅をしてるの?」横になったままのイルシュエッタが突然聞いてくる。
「弟子じゃない」
「じゃあ、リシュリオル……だっけ? ……君はなんで旅をしてるの?」
「お前のせいで異界に飛ばされて仕方なく。……異界渡りは異界を渡っていないと生きていけないだろ?」
「ははは、そうだね」イルシュエッタが呑気そうに笑い出す。リシュリオルは彼女の笑い声に苛立ち、引きつった表情をする。
「私はね、異界の景色を見て回るのが好きなんだ。次の異界に行く度、新しい世界に生まれ変わった気分になる。リシュも異界を渡っていて、凄いとか綺麗だとか思うことはあるでしょ?」楽しそうに話すイルシュエッタ。
「まあ」
「そういう感性は大事だと思うんだ。なんの為に異界渡りをしているのか分からなくなったりしたら、この旅は結構きついよ」
「なんで、そんな話をいきなり始めるんだ?」リシュリオルは話の流れが掴めなかった。
「師匠の旅の目的は知ってる?」
「師匠?」
「言ってなかった? 私、ラフさんの元弟子だよ」
「そうだったのか。だから、さっきも私のことをそっちのけで話し込んでいたのか」
「久しぶりだったからねー、しょうがないよ。許してあげて」
「アイツのことはどうでもいいが、お前の事は許さない」イルシュエッタを睨みつけるリシュリオル。彼女はイルシュエッタに異界に飛ばされたことを相当に根に持っていた。
「ははは、またリシュが強くなったらやろうね」イルシュエッタは笑いながら余裕そうに言った。その反応に苛立ち、何回目かも分からない舌打ちするリシュリオル。
「それで、ラフーリオンの旅の目的っていうのはなんなんだ?」
「やっぱり聞いてなかったか。師匠はね……死に場所を探してるんだ」
「死に場所?」リシュリオルは思いもよらぬ答えに驚き、目を見開いた。リシュリオルの影に潜むアリゼルも興味深くイルシュエッタの話に耳を傾けていた。
「師匠は何処かにある異界渡りにとっての最終地点、異界の扉が現れなくなる場所を探してる。本人が強い意思で求めれば、そういう場所に辿り着けるらしいよ。そこで異界渡りとしての寿命を終えようとしてるみたい。師匠に異界の事を教えた人がそうやって寿命を迎えたって聞いてる」
「異界渡りとしての寿命ってなんだ?」
「異界渡りが同じ異界に居続けることで、力尽きる事だよ。異界渡りは一つの異界に居続けることはできない」
「どうして、そんなこと」
「私が師匠の元を離れてから、色々あったみたい。何があったかは聞けてないけど」
「…………」リシュリオルは沈黙する。
「私が師匠にそのことを聞いた時は、抜け殻みたいな状態だった。私のおふざけも通用しないくらいに落ち込んでたよ」
「初めてアイツに会った時はそんな風には見えなかった」
「リシュと会ってから、少し変わったのかもね」くすっと笑うイルシュエッタ。
「そうかな?」
「そうだよ」イルシュエッタがまた笑って答えた。
「リシュ、君はそのうち師匠と別れることになる。それは確実だ」イルシュエッタは話し続ける。
「師匠と別れることになる前に自分の旅の目的について、考えておいたほうがいい。まあ、そんなもの私みたいに観光とか軽い目的でもいいと思う。……仕事も一応目的の一つではあるけど」
「旅の目的か……今まで、ラフーリオンに付いていくだけで考えたことも無かった」リシュリオルは今までのラフーリオンとの旅の事を思い出す。
「旅の目的と言っても、生きる為にとかはやめたほうがいい。私達は異界を渡っていれば永遠に生き続けられるからね。永遠の命を維持する為に異界を渡り続けるなんて、不毛な作業を繰り返してるみたいでなんだか辛いでしょ?」
「永遠の時間……」リシュリオルは自分が不死に近い存在になったという実感が無かった。
「まだ焦らなくてもいいって言いたい所だけど、異界の扉は気まぐれだからね。次の異界が師匠の目的の場所かもしれない。今からでも考えておくといいよ」
「単純なようで難しいな。直ぐには思いつかない」
リシュリオルはベッドに横になり、ラフーリオンの旅の目的の事。そして、自分の旅の目的の事について考えている内にいつの間にか、眠りについてしまっていた。