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死にたかったか、龍馬 その三

 私も今井も階段を駆け登る際、既に抜刀していた。

 私は男の首筋目掛け、横殴りに斬りつけた。

 男が後ろに倒れかけなければ、刀はそのまま、首に入り、嘗て、与頭が清河八郎の首を皮一枚残し、断ち斬ったように、首を両断する筈であった。

 が、男は俊敏に後ろに倒れかかり、私の刀は男のこめかみから額にかけて、横一文字に鋭く薙ぎった。

 浅くはない、確かな斬撃の感触が私の手に伝わった。

 血と脳漿が同時に噴き出した。

 しかし、男は気丈にも身を倚じり、背後の刀を取ろうとした。

 私は二の太刀を素早く、男の右肩に入れ、袈裟に斬った。

 しかし、あまり斬れなかった。

 男は刀を掴み、立ち上がった。

 男は大柄であり、私よりも少し背が高かった。

 坂本だ!

 私の心は躍った。

 私は渾身の力を込め、三の太刀を振り下ろした。

 坂本は両手で刀を鞘のまま持ち、私の斬撃を受け止めた。

 坂本の鞘のこじりが低い部屋の天井を突き破った。

 私の刀は坂本の刀の鞘を削り、刀身をも削り、なおも余勢で、坂本の前額を斬り割った。鉄が焼ける臭いと血の臭いが私の嗅覚を刺激した。

 石川、石川、と叫びながら、坂本はゆっくりと崩れ落ちていった。

 坂本を斃した私は、今井の方に目を遣った。

 今井の方も、私同様、けりがついていた。

 今井の小太刀使いは有名で、相手の男は頭部、両手、両足を斬られ、畳の上の血溜りの中に俯けに倒れていた。

 そこに、与頭、渡辺らが入ってきた。

 与頭が坂本の喉に止めの刃を入れた。

 坂本の身体が少し痙攣した。

 渡辺らが石川という男に乱刃を加えていた。

 与頭が、もうよい、もうよい、と鋭い声で制止した。

 引き上げに入った。

 与頭が低い声で謡をうたった。

 鞍馬であった。

 私の刀は鞘に入らなかった。

 三の太刀で坂本の刀の刀身を削った時に、曲がってしまったらしい。

 鞘を捨てて、剥き出しの刀身を羽織でくるんで帰路に着いた。

 帰路、ええじゃないかの踊りの群れに遭遇した。

 この頃、京で流行っていた。

 ええじゃないか、ええじゃないか、と私も唄ってみた。

 漸くにして、胸の動悸は収まってきた。

 不意に、喜びにも似た熱いものがこみ上げてきた。

 坂本を仕留めた。

 俺が仕留めたのだ。

 ええじゃないかの群衆に向かって、叫びたい気持ちだった。

 存外に、呆気なかった。

 その夜は夜通し、佐々木様の旅宿で祝杯を重ねた。

 皆、したたかに酔った。

 酔うと、与頭は会津訛りが出る。

 与頭に、桂君今夜の働き、一番であった、と褒められた。

 私は嬉しかった。


同年十一月十六日

 朝に帰り、床についたが、寝つかれなかった。

 ひどく酔ってはいたが、神経が昂ぶり、眠れなかった。

 以前、薩摩藩士と斬り合った際も、そうであった。

 奇妙な掛け声を伴い、鋭く打ち込んでくる、一撃必殺の示現流の打ち込みをすんでのところで躱し、抜き胴を入れ、斬り倒したのであったが、その時も俺は眠れなかった。

 初めて、人を斬ったのが、その時だった。

 それ以後、相当人を斬っている俺であったが、坂本を斬って、また同じように眠れなくなるとは。

 増次郎より、今井が斬った昨夜の一人、石川という武士は、土佐の中岡慎太郎であったとの報が入る。

近来稀に見る快挙なり。

 与頭帰り来たりて、新選近藤氏に賞せられしとのこと、語る。

 組の面目、この上無し。

 坂本は土佐海援隊の頭、中岡は土佐陸援隊の頭にて候故、両巨頭を一瞬の内に失いし土佐は茫然自失にてござ候哉。

 土佐、まことに憐れむべし。

 因果応報、かくの如しか。


同年十一月十八日

 昨夜、坂本、中岡、下僕藤吉、三名の葬有り。

 道の傍ら、士の礼を以て見送る。

 墓所は東山霊山也。

 良馬と記せしは誤り、龍馬也。

 また、同夜、伊東甲子太郎殺害さる。

 新選組実行すと聞く。薩摩の走狗を成敗せしもの也。


同年十一月十九日

 本日、坂本中岡成敗の功より、十五人扶持を頂戴す。有難きこと哉。

 又、見廻組総頭、堀石見守様より脇差一振拝領す。名誉なり、以て家宝とせん。


同年十一月二十四日

 快晴。寒風激し。


 「桂殿、お主、変だと思わないか」

 居酒屋で酒を酌み交わしている時に、ふと、渡辺吉太郎が呟いた。

 「何が?」

 「坂本の件、さ。我々見廻組の遣った仕事ということが、どうも秘密にされているらしいのだ」

 「そう言えば、そうだな。坂本を殺ったのは、新選組とか、薩摩とか、いろいろな噂が市中には流れているようだし」

 「何故、秘密にされているのだろう。この頃の与頭の様子も変だとは思わないか。どうも不機嫌を絵に描いたみたいな顔をしているぜ」

 思い当たる節があった。

 俺は声を顰め、渡辺に囁いた。

 「増次郎から聞いたことだが・・・。与頭は永井玄蕃頭様から叱責されたとのことだ。坂本を何故斬ってしまったのだ、ということらしい。永井様のお考えに依れば、坂本はこれからの幕府にとって有用な人物であった、ということなんだ。何でも、大層きついお咎めの口調で、馬鹿者呼ばわりされたみたいだ。徳川を潰すつもりか、とまで言われたらしい」

 「それじゃあ、与頭も立つ瀬が無いわ。それと、また、妙な話も高橋安次郎から聞いた」

 「どんな?」

 「中岡を巻き添えにしたことで、然る筋から与頭が抗議されているとのことなんだが」

 「然る筋? 勿論、ご公儀では無いな。恐らく、坂本を売った筋だろう」

 「そこまでは知らん。今井殿も、あの晩斬ったのが、中岡慎太郎と知って、驚喜していたくらいだ。中岡を失って、一番困るのは、薩長、岩倉卿あたりか」

 「坂本を斬って、永井様から叱責され、中岡を斬って、然る筋から抗議される、か。いずれにしても、我々見廻組の仕事と公然には言えない仕儀となってしまったのか」

 俺も渡辺も、暗然たる気持になった。

 酒が急に不味くなった。

 俺たちのあの仕事は一体何だったのか。

 然る筋から死を望まれ、俺たちに売られた坂本が急に可哀そうになった。

 俺たちは畢竟、暗殺の道具でしか無かったのか。

 俺たちはただの狂犬、・・・、か。


同年十一月二十七日

 昨日、坂本の件にて、永井主水正尚志様直々にて新選近藤氏をお取り調べ、とのこと。

 笑止千万也。


 「近藤氏も迷惑なことだ。大目付、後、若年寄となられた永井玄蕃頭様はご存じでも、町奉行としての主水正様には見廻組の仕事とは伝わっていないものと見える。永井尚志様もお一人で若年寄、町奉行と兼務され、なかなかお役目とは言え、大変だのう。しかし、体裁を繕うにもほどがある」

 与頭がお茶をすすりながら、軽く口元を歪められた。

 「桂君。君にはすまないが、坂本の件は無かったものと忘れてくれたまえ。折角のお手柄だが、我々の仕事であると公然には言えない事態となってしまった。どうも、坂本・中岡の件で、我々は孤立してしまったようだ。然る筋からの情報提供に踊らされた自分が何とも歯がゆい。申し訳ない」

 与頭に謝罪され、私の心は重く沈んだ。

 坂本を見事に仕留めた時の何とも言えない心の躍動感は既に消え、今は只、虚しさだけが私の心を支配していた。

 私のしたことは、一体何であったのか。


同年十一月二十八日

 曇天。寒さ益々厳しき。

 ひさご屋に行き、一人鬱々と酒を呑む。


 「俺たちが京を離れている間に、坂本さんが斬られた」

 俺は、どきりとして、聞き耳を立てた。隣の衝立の客は、長州人と思われた。

 「いつ?」

 相手が声を顰めて訊き、話の主も一段と声を顰めて続けた。

 「十五日の夜半だそうだ」

 「で、死んだのか?」

 「殆ど、即死だったそうだ。一緒に、中岡さんも殺られた」

 「中岡さんまでも・・・。殺ったのは、誰だ? 壬生浪か?」

 「いや、知らん」

 「坂本さん、中岡さんを斃すとは、えらく腕の立つ奴だなあ」

 「中岡さんはともかく、坂本さんは北辰一刀流の免許持ちだからな」

 「まさか、・・・、薩摩じゃあ、ないだろうな」

 「まさか。いくら、坂本さんの動きが目障りでも、殺しはしないさ」

 「そりゃそうだ。中岡さんまで殺られたとなると、薩摩じゃないな」

 「やはり、幕府の手の者だろう。しかし、殺ったのが、幕府となると、馬鹿なことをしたものだな」

 「何故だ?」

 「お主、知らんのか。坂本さんは幕府との全面戦争を避ける為、いろいろと周旋していたという話だぜ。その坂本さんを幕府が殺る訳がない。主戦論者の中岡さんを狙うならいざ知らず」

 「坂本さんの苦心の周旋を知らない、新選組あたりが殺ったのかも知れない。手柄目当ての馬鹿者共め!」

 「なんだ、お主、泣いているのか」

 「坂本さんが可哀相でなあ。坂本さんは未だ三十を少し出たくらいの齢だぜ。今、死ぬ齢じゃないだろう」

 「でもな、いずれ、薩摩の頭の固い奴らに斬られたかも知れんぞ」

 それっきり、衝立の客は押し黙った。

 俺は、坂本の孤独を想った。

 幕府からも狙われ、薩摩からも睨まれていたという坂本龍馬という男の孤独を想った。その坂本を、俺は公務とは言え、斬ってしまったのだ。

 じりじりとして、遣り切れない羞恥と後悔を覚えた。

 忸怩たる思いだった。


同年十二月二十日

 与頭より、戦雲急の談有り。帰宅し、身辺を整理す。

 もとより、死は覚悟。潔く戦い、斃るは武士の習い、本望也。


慶應四年一月三日

 夕刻より戦闘。星夜、露営の陣中、吉太郎来りて語る。


 「この頃、こんなことを考えるのだ。坂本は、我々見廻組によって殺されなくても、いつかは殺されたんだろうな、と。そうは、思わないかい、はやさん」

 「多分、な。坂本は、徳川と薩長との全面的な戦いを避ける方向を模索していたようだ。永井様を密かに訪問したのも、その模索の一つだったんだろう」

 「そんな坂本は、薩長の奴らにとっては、邪魔者でしかない。邪魔者は消せ、か」

 「坂本の挙動を詳しく、我々に知らせることによって、坂本を我々の手で秘かに消す。自分の手は汚さない。汚ねえよ。実に汚ない遣り方をしやがって」

 「はやさん、俺たちは、とどのつまり、利用されたんだ。坂本に済まねえこと、しちまった。済まねえこと、しちまったんだなあ、俺たちは」

 「今更、繰り言を言ったところで、死んだ坂本は生きかえってこねえよ。さあ、飲みなよ、吉さん。飲んで、与頭の言うように、早く忘れちまおうぜ。明日は戦だ。薩長の奴らを斬りまくって、一人残らず、地獄へ道連れだぁ」

 「はやさん、元気だねえ。おいらも見習わなくちゃいけねえや」

 夜空には、星が煌めいていた。

 微かなしわぶきが露営の重く沈んだ闇の中から聞こえる。

 静かな夜であった。


同年一月四日

 草がこんなにも匂うものとは知らなかった。

 空が見たい。もう一度、青い空が見たい。

 駄目だ。どうしても、身体が動かない。


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