新発田市
12月25日。
「キャッ!危ない!」
目の前で均衡を失い倒れこむ悠理の身体に、美雪は距離を詰めて両手を腋の下に差し込んでぎりぎりのところで何とか支えた。
「秋月部長!どうしたんですか大丈夫ですか!」
華奢な腕に掴まるように寄りかかる悠理は苦しげな息を吐き続けた。
「す、すまない・・・た、たんなる立ちくらみだ、もう納まってきてる・・すまない、大丈夫だ」
美雪の助けを借りてなんとか体勢を立て直しもう一度「大丈夫だ」といって離れようとしたが、美雪は悠理の脱力したままの肩を支える両手をゆっくりと背中まで下ろして身体を密着させた。
「部長は働きすぎなんです・・・きっと、きっと身体が悲鳴をあげてるんです」
せっせと営業部に足を運び遠巻きなれど秋月悠理を見続けてきた美雪だからこそ解ることがあった。
新発田支店の営業部総勢30人の社員は、半年前から統括を任された秋月悠理の職務姿勢によって変わって行った。研ぎ澄まされた悠理の発言や行動に美雪の目には社員達はどこか恐れを抱きながら職務を進めているように見えた。彼の完璧ともいえる能力や態度は、部下達にとっては想像以上の脅威となっているのではないか、視覚では捉えきれないものがあった、それは営業部の広いフロアにこびり付くように付着したなにか重たいもの、それは嫉妬というべきか恐れというべきか。美雪は肌でそれらを感じとっていた。
秋月悠理に近づくために営業部の同期の男性社員と何度か食事をして親しくなった美雪は、やがて少々突っ込んだような質問も警戒されることなくできるようになっていた。ある程度酔わせれば悠理のことをわりと細かいところまで話してくれる、幸運なことにその男性は悠理に気に入られたのか仕事で一緒に行動することが多かった。
「秋月部長はさ、どんなところが優れてると思う?あの人はほんとにすごいと思わない?渡辺社長の懐刀とか言われてるんだよね」
いつものように酒が進んだころに美雪が悠理の名前を出すと、珍しく相手の男性はすぐさま不機嫌そうな顔をこちらに向け美雪を横目で睨んでからグラスに残る酒を一息に呷った。そして幸運を一切合財逃すようなため息をついた。おそらく仕事で最近悠理になにか言われたのか、それともただかなり酔っているだけなのか、とにかくいつもは悠理の話題をだしてもこうにはならないはずだった。
「またあの人の話題かよ、波多野はあの人のことが好きなのか?」
「うーん好きというより尊敬かな。年齢も私たちと四つくらいしか変わらないよね、それで営業部長でたった数か月で売上もかなり伸ばしてる。それってすごいよね」
差し向かいに座る男は口元を歪ませた。
「まあな。あの人は確かにやり手だよ。秋月部長の下で働いて社長の懐刀と言われてるのもわかる。新発田支店の売上は営業部長が変わってから明らかに伸びてるのも確か。部長は冷静に確実に仕事を取ってくる人だ。毎朝誰よりも早く出勤をして誰よりも遅く退社して週末は必ず福井の本社まで出向いていく。波多野の言うとおりすごいよ、あの人はほんとにすごい。だけどな、いいか波多野よく聞けよ、あの人はそれだけなんだよ。営業ってのはさ、みんなで盛り上げていくところあるだろ?営業部は会社の心臓みたいなものだ。団結して身体の隅々まで血液を送り出すポンプのような役割だ。そうだろ?血を送り込まないと会社は成長していかないんだ。そりゃ営業部の人間の個々の能力は違う、みんな金のためにやってるから抜け駆けしたくもなる。だけどそれを上手く団結させて効率よく血液を会社に送るのが営業部長ってもんだろ?」
「え?どういう意味?よくわからないな。私は能力がない飾りだけの上司のが絶対に嫌だけどな」
「まだ波多野はわかってないよ。経理部ではわからないところだ。俺たちは給料をもらう対価として会社にいかに売上と利益を献上できるか。そうだろ?だがな、あの人は全くの個人プレーだ。感情の起伏なくそつなく熟していく。能面のなかの素顔は俺たちには絶対に見せない。まるで無表情のままに殺戮をしていくどこかの将校だよ。誰にも心の内を見せない。そしてあの人は自分以外の誰も認めてはいない。永遠なる冷酷さだ。俺はあの人から全く体温なるものを感じられないんだ。波多野に分からないだろ、そんな人の下で働く俺たちの気持ち。自分の未熟さを無言のままに戒めてくる毎日だ、そんなこともできないのか?お前は無能だなってな。仕事やる気出ない日々だよあの人がこっちに来てからこちらは皆がうんざりな毎日だ」
なによこの男は。言わせておけば。美雪は激昂しながら反論した。
「なによそれ。ただあなたは秋月部長の持つ資質と自分の間に雲泥の差があることが悔しいだけじゃない、素直に認めれば?あの人には勝てないってすごい人なんだって。それで終わりな話じゃないの?部長の下で働けることが幸せだと思わないの?見習うところは真似てあなたも成長していけばいい。それともこの仕事が嫌なだけじゃないの?なら辞めてしまえば?あなたの存在が秋月部長に迷惑になってるかもしれない」
その男も負けてはいない。叩きつけるようにしてグラスをテーブルに置いた。
「ああそんなのはわかってるさ!絶対に超えられない壁が間近にある圧迫感を毎日ひしひしと味わってるよ!秋月部長は・・あいつは…あらゆる人達の人生を狂わせていくんだ!人がせっせと培ってきたプライドを無言のままに剥ぎ取っていくいくんだよ!こちらが学生時代から必死になって築き上げてきた自己顕示欲を全て打ち消し素っ裸にして心の内で嘲笑うんだお前は無能だなって。あいつがこっちに来てから最悪な日々なんだよ!他の奴も言ってるぜ、顔も見たくない早く本社に帰れってな!」
「何よ・・それ酷すぎる…あなた・・・部長に対してなんてことを・・・やめて。あの人を二度とあいつだなんて言わないで!」
何度も否定し反論しながらも美雪には男の気持ちが理解できた。
私は秋月悠理に対する気持ちを諦めたとしてこの先、他の男を愛して行けるのだろうか。
男なんてきっと星の数ほどにいる。でも
あの人と出会ったばかりになにか重要なものを欠落させてしまったような不安感がある。出会ったことによって入り込んだ迷宮は深い闇へと導かれていくだけなのかもしれなかった。
だがもう悔やむのは遅いと美雪は思った。酔いに任せて鬱積された怒りを見せたこの男も同じことだ。こうしてお互いに出会ってしまったのだ秋月悠理という男性に。この男はいままでせっせと培ってきた自信を喪失し、私は永遠なる恋に落ちた。
崖の上にそびえる白い灯台はどこまでも美しくどこまでも孤独で、どこまでも優しげで。そしてどこまでも…
生きていつしか死んでいくことの儚さを与えてくれる…
「波多野・・・」
抱きついたまま離れようとしない美雪の腕に悠理はそっと触れた。
「部長…秋月部長…私は」
いま美雪の肌に伝わるのは、男の皮膚の内側に宿る筋肉の硬さと鮮明さに溢れる香りと心地よい温もりだった。美雪は彼の背中に両腕をまわしたまま弾力ある胸元に顔を深く沈めた。
「お願いします・・・しばらくこうさせてください。私は・・いまあなたに冷たく身体を離されたらこの先どう生きていけばいいのかわからないです。何を糧にして長く暗い夜を越えて朝を待てばいいのか、秋月部長・・・もし冷たく突き放すのなら教えてください。これからの私は何が残され何に意味を見いだせばいいのか、教えてください。好きです。たまらなくあなたのことが好きです。他はなにもいらない。あなたを失ったら私は生きていけない」
美雪は言葉を吐き出しながら考えていた。私は秋月悠理を愛したときに自分が描いた最悪なシナリオをいま自らが行っているのだ。もう二度と後戻りができないことをしているのだと。だが、私はきっと愛するという想いの器の限界を乗り越えてしまったのだと思った。何度も空想を膨らませてきた彼の肌の感触と香りと胸元の温かさ。それらを現実に感じられたとき人は壊れてしまうのだ。
美雪の求める希望の道は、決められたルールの線上を歩むかのように必然的に打ち消されていった。悠理は背中に回された彼女の手をそっと握り締めてからゆっくりと引き離していく。
「いや・・・離さないで・・・お願い・・・私は行ってはいけないところまで足を踏み入れてしまったの。・・お願い・・部長・・・」
美雪の願いも虚しく男は絡める両手を取り払うと車に身体を向けた。
「波多野・・も・・もう大丈夫だ。ありがとう」
何事もなかったように、襟元に触れマフラーを巻き直してから靴音を鳴らし車に乗り込もうとする彼の背中に美雪は悲痛混じりの声を放った。
「部長・・・私はあらゆるものを失う覚悟で告白をしました。迷惑ですか・・・私がこれからも部長を好きでいるのは・・迷惑ですか?」
彼は足を止めた。地上では風が止んでいる。だがはるか上空では悲鳴のような音が何層にも連なり続いていた。
「波多野。俺は・・・。ずっと想っている人がいるんだ」
「この会社ですか。その女性はここにいるんですか」
彼は寂しそうに少しだけ口元を綻ばせた。
「違う。ずっとずっと昔に愛した人をいまも想っている、おれはいまも変わらずその人を好きなままだ、忘れられないんだよ」
美雪は驚愕の表情を浮かべた。
悠理が今にも泣き出しそうに見えたからだ。
「ああ・・・」
美雪はこのときわかったのだ。秋月悠理とあの白い灯台の最大なる共通点を。
灯台が照らす明かりが美しいのではない、そのとき影に浸りおぼろげに闇に支配される灯台部分がとてつもなく美しいのだ。あまりに脆く儚く砕け散るような弱さが光が照らす部分を支え続けているのだ。
悠理はおそらくもう二度と会うことができない人をいまも想い続けているのではないか。
もしかしてその人は
もうこの世には…
ーこの人はいまを生きてはいない、ずっと過去を生きてる―
いま美雪に見せた彼の顔はあまりにも。
あまりにも少年のような純粋さが追随する表情ではないか。
ー能面のなかの顔は決して見せないー
美雪にはわかる。彼はいま見せたのだ。彼の内面に籠り続ける悲痛を、真実を。
この人はずっと深い悲しみを背負いながら生きている。営業部の同期の男性の顔が思い浮かぶ。
あなたではこの人に絶対に勝てない。
このひとを動かす原動力は過去に置き忘れたものだ。それを少しでも思い出さないために毎日働き続けている。毎日限界まで、毎日疲れ果てその記憶に触れないままに眠れるように。
「秋月部長…教えてください!その人には…なぜ会わないのですか、もしかしてもうこの世界には」
「そうだよ、もう逢える方法がないからだ」
悲しげに佇む彼女を振り向きもせずに彼は運転席に身体を滑らせた。フロントガラスには霜が降り始めている。そのままエンジンをかけて走り出そうとする。だがアクセルに乗せた彼の右足は下りなかった。
男は充血させた瞳を閉じてから窓を開けた。
「波多野。いまから駅まで歩いていくのか」
「はい・・・」
「もう夜も遅い。駅まで送っていく。乗って」
美雪は頬を伝う涙をぬぐいながら無理に笑顔を作り上げた。
「大丈夫です。ゆっくり歩いて帰ります。私のことなんてもう気にしないでください。振った女に優しくするのは深い罪ですよ」
涙を流しながら手のひらを見せて断る美雪がいた、だが彼は突然、車を降りて彼女に駆け寄って腕をつかんだ。その力は強い。
「なに言ってんだそんなのはどうでもいいだろ!とにかく乗って。送ってく」
「え・・・でも・・・」
「いいから!君が駅まで歩いて帰る間に何があるか何が待ち受けているかわからないだろ!俺と一緒にいろ。駅まで送るから」
声を荒げて強引に美雪を助手席まで連れて行きドアを開けた。
「夜も遅い。危ないから。乗ってくれるね」
次は優しく問いかけるように話す悠理が居た。
「はい・・・反則すぎます部長は、ほんとに…反則ばかり」
美雪は助手席に乗り込んでからも身体を震わせて泣き続けていた。そして10分後、二人は駅前のロータリーで別れた。