灯台
生きていく原動力の大半が悠理へと向けられていくことに、美雪はあえて自ら歯止めを効かすことはしなかった。片思いは想像によって日々を作り上げていくことを知り、幸福と呼ばれるものはいつも目と鼻の先にあるのものだと悟った。悠理の温もりを夢のなかで肩先や指先で感じた朝は見るものすべて、生きていくすべてが愛おしく感じられた。そしてその幸福感が美雪を一段と輝かせていった。
悠理に少しでも振り向いてもらうためにまずは自らの自信を求め少しでも高めることが優先だと思った。休日になればエステに通い、毎日の食事制限を怠らず夜はスポーツジムに通い英会話も習い始めた。あの人と付き合えるという夢のためならばどんな努力も惜しまなかった。その間に友人からの遊びの誘いは一切無くなっていたが美雪はまったく気にすることもなかった。秋月悠理への想いのままに自分磨きをすることがなによりの極上の喜びに感じられた。
書類を手に鼻歌混じりに階段を上り営業部へと足を運び悠理が外出中のときはひどく落胆して、デスクにいるときはこの上ない喜びを感じた。もし悠理に自分の気持ちを告げてあっさり断られてしまったら、そのまま悠理を失ってしまったらそれからの私はどうすればいいのか。再び私はほかの男に恋を抱くなんてことができるの?。いや、そもそも生きていくことすらできないのではないか?。美雪は悠理へ抱くこの強い気持ちを感情に流されたまま伝えることだけは絶対に避けるべきだと思った。少しずつでいいのだ、たった数ミリでもいい、いまはまだはるか遠くにいる彼との距離を焦らず縮めていきたいと願った。それでも、もし途中で無理な望みだと分かったならばその場で脚を止めよう、その場所から私は彼を見続けようと思った。自分がそれからもこの世で生きていくための防衛本能としてなのだろう、半ば暴走ぎみな告白だけは必ずしないと自らに誓った。一歩ずつ決して焦らないでゆっくりでいい自分をせっせと磨いていく。美雪は夕日を浴びる真っ白な灯台まで続く九十九折りの急な道のりを何度も思い浮かべた。ゆっくりでいい、あの人は必ず崖の上にいるのだから。
悠理が砕けた態度で接してくれるようになるまでそれなりの月日を必要とした。美雪はまず営業部の同期入社だった男性社員から食事に誘われるようにして、そこから徐々に営業部内の人から人へと繋がっていき、ついには悠理に顔を覚えられて会話ができるところまで来た。このとき美雪は灯光の優しさに包まれた温もりを肌で感じることができた。悠理から見れば四歳年下の妹のような存在かもしれないしそれ以下かもしれない。徐々に距離が縮まっていくのは確かだか一度も下の名前で呼ばれたことはなかった。きっと私の名前が美雪というのも把握されてないだろう。「部長にいま彼女はいなさそうだぜ」同期の男性社員からそう聞いたとき美雪は幾つもの質問を繰り返し聞いた。どうして?どうしてあなたは部長に彼女がいないってわかるの?
彼女がいない。たとえそれが真実だとしても
きっといまはいないだけ。
あの人ならすぐに彼女ができてしまうだろう。
少しずつ美雪のなかで焦りが生じて行った。秋月悠理との関係が前に進まない焦燥が日々増えていった。悠理がほかの女子社員に見せる笑顔を見たときは吐き気すら覚えた。そして今。
悠理がこちらに赴任してきてから半年が経過していた。月日でいったら短いが美雪には長い期間に感じられた。出会ってから半年、できることならと今年のクリスマスを意識した。世の中の流れが特別な日を作り上げている。悠理に会いたい、もしできることなら二人だけのクリスマスを過ごしたい。昨夜の24日も悠理をこの場で待ち続けたが彼は深夜まで会社に残っていた。今日こそは。冷たい風に覆われるなか美雪は悠理が仕事を終えて現れるのを建物の冷たい壁に背を当てたまま待ち続けた。これでは秋月部長へのストーカー行為ではないか、私はいったいなにをしてるのだろうととても情けない気持ちが沸き起こる。これまで悠理に恋をしていたときの自分は自分への陶酔感もあった。だがいまここにいる私はなんて惨めなのだろうと。しかしすぐに悠理のことを思い浮かべとにかく逢いたいのだという気持ちがすべてに優っていく。心が二つに割れていく感じだ。身体が寒さを訴える。あらゆるものがちぐはぐになっている。すべてが痛いほどにわかる。心は何度も警笛を鳴らす、わたしはなにをしているのだ。いますぐに戻れ。悠理に嫌われて生きていけるのか?と。だがどうしても身体がこの場を離れようとはしなかった。徐々に北風が冷たくなっていくなか美雪は幾度となく営業部がある三階を見上げ明かりが消えるそのときを待った。待ち続ける間、美雪は何百回と自問自答を繰り返した。昨日に続き今日もここで待つ自分は自分への裏切り行為ではないか?と。何度も自らに問いかけるのだがやはり身体がこの場から離れようとすることは出来なかった。そして三階の明かりが消えたときには結論らしきものが出た気がした。
美雪は気づいたのだ。
きっと私はもう限界なのだと。勝算など0%だ。そんなのは分かっている。でももう私は部長が、悠理が欲しくてたまらないのだと。誰にも取られたくない絶対に。
@
悠理は美雪の問いに間を少し置いてから答えた。
「こんな俺に彼女がいるわけないだろ。途中何か適当に食って帰ってシャワー浴びて眠るだけだよ」
「こんなって・・・どうしてですか?どうして秋月部長は彼女を作らないんですか」
美雪は強い口調を恥じるように俯いた。
「俺のことなんてどうでもいいだろ。ところで波多野は誰か迎えにきてくれるんだろ?ここで待ち合わせしてるんだろ?いまから駅まで一人で歩くとか絶対にいうなよ、長く暗い夜道が続く。おれは疲れたよ、じゃあまた明日な」
片手を軽く上げてから悠理が車に身体を向けたときに「あ、待ってください」と美雪が引き留めた。
「あの・・・秋月部長・・・私・・は」
「寒くなってきたな、これから雪になるかもな」
「え・・・」
「波多野は雪は好きか?見飽きたか?俺は好きだよ」
強い北風が二人の間を駆け抜けて行った。
「波多野の名前って美雪だろ。とてもいい名前だな、おれは子供のころからとにかく雪が好きなんだ、福井にいてもここでもやはり雪は」
美雪はその大きな瞳で悠理を見つめ続けた。白い頬が赤く染まる。何故だろう涙が溢れ出る。私はいま泣いているのか、美雪の首に巻かれるマフラーが頬を伝うその涙の雫を掬った。
「お、おい、なんで泣いてるんだ?なにか悪いこと言ってしまったかな」
美雪の濡れる頬を悠理も悲しげに見つめた。
「私は・・・ずっと、ずっと秋月部長のことが好きです」
「波多野・・・お、おれは・・」
「私はあなたが好きです・・・好きです・・すいません、どうしても伝えたくて」
美雪は溢れ出る涙を指先で拭った。
「すみませんでした・・私・・・行きます、帰ります」
美雪が悠理から離れようとしたときに、再び北風が悲鳴をあげるように二人の隙間を吹き抜けていった。
捨てられた空き缶が駐車場の中央へ向けてからからと転がっていき、吹き溜まりに積もったままの枯葉が足元の革靴の上を滑っていった。
「ちょっと待ってくれ。俺は君が思うような男ではないんだ…違うんだ。俺は実は…なあ波多野聞いてくれ。俺は……」
突然、悠理のなかで絶望的な虚無感が襲い始めた。
風が不条理となって背中を押す。彼は眉間に指を当てながらその元凶なる部分を睨み付けた。
ーもう逃げ出したくはないー
過去へと誘わせる風は彼をあざ笑うかのように襲いかかる。眉間を抑える指と指の間からなにか巨大な生き物の影がこちらに近づいてくるのが見える。彼は瞳を充血させながらその影を睨み付けた。じわりじわりと近寄ってくる影は突然落とし穴に落ちるように地面に吸い取られていく。そのとき影はなにかを言った。嘲笑のようなものをこちらに投げかけそして消えていった。その直後、地鳴りが響き地面が揺れ始め次第に立っていられないほどの大きな揺れとなり悠理を襲う。激しさを増していく揺れを引き金に、車やフェンスや建造物すべてが一斉にぐにゃぐにゃと波打ちだした。彼が見る現存世界のすべてがまやかし物だと気付かされるほどに歪み断ち切られていく。
「部長?どうしたのですか?」
目の前にいる男の異変に気付いた美雪が声をかける。
「だ…大丈夫だ」
彼はよろめいたまま車にもたれ掛ろうとしたが平衡感覚のすべてが奪い去られたように足元から崩れ出した。
@
現在。
12月27日。
結城リクはかけたままの眼鏡のブリッジに指を当てた。
「いいか椎奈。敵の動きはことのほか早いかもしれない。そして次は必ず仕留めにくる」
洗面台の鏡に映る自分は眼鏡をかけ携帯を耳に当てた姿だった。リクは僅かに首を傾げてみせる。
「リクはどう思う?敵は…悠理の名前を出してくるなんて…」
「ああ、俺たちは間違えていたんだ。敵は新汰の兄貴のケンジではなかった。あのとき俺たちはずっと騙されていたことになる。本当の敵は違ったんだ、あの街にはとんでもない悪魔が住み着いていた」
新汰の兄である賢治も相当な悪魔なのは確かなのだがそれ以上の存在。
「リク…悔しい…わたし達はずっと騙されていたんだね」
「ああ」
あの時、新汰の兄の賢治を敵と決めつけたばかりに最悪な事態を招いてしまった。まんまと敵の策略に乗せられてしまったことになる。
「敵は思った以上に強敵で…畜生…やはりあいつ…だったのかもしれないな。それは俺たちにはとても辛いことになるが」
「うん…たぶんいま私もリクと同じ人物のことを考えてると思う、いまの私の居場所を知ってて、あの時私達の身近にいて、深い悪を隠し通す知恵がありそしていま私達を殺したい人なら私にも一人しか浮かばない」
「あいつは…きっとあのとき麗奈も殺しているのだろう。俺が必ず復讐してやる」
鏡に映る自分の瞳は真っ赤に充血していた。
「椎奈は何時までそこにいるんだ?」
リクが訊くと椎奈は「21時過ぎかな」と即答する。
「わかった、なるべく早く行く。22時には合流しよう」
店に客はまだ少ない。自分以外の客は確か後ろでビリヤードに興じていた若いカップルだけだった。いまこの場所に人が来ることは確率的には低いだろう。リクは目の前にある洗面台の鏡に映る自分を見つめながら携帯を強く握り締めた。
「わかった。私はここでリクが来るの待ってればいい?」
「ああ」
椎奈が勤める動物病院は愛知県一宮市内にある。
「ねえリク…実はもう一つ伝えないといけないことがあるの、落ち着いて聞いてね。いまこんなこと言ったらダメかもしれないけどリクには知らせておきたくて。あのね…葉月先輩と新汰君がいま一緒に暮らしてるっていったらリクは…どう思うのかな…」
リクは間髪いれずに返答をする。
「残念だがそれは断じてないだろう、あの人は、葉月はいまも悠理を待ってるはず…おい…まさか本当にあいつと葉月が一緒に?冗談だと言え椎奈」
「ごめん…リクは葉月先輩にさ…悠理君のことを…いまもまだ想い続けていてほしかった?待っていてほしかったかな」
「椎奈…そうだな…いまも葉月は悠理が帰ってくるのを待ち続けてると…俺は信じていたかったのかもしれない…心のどこかで葉月がまだ悠理を待ってると……」
リクは涙が瞳から溢れれでている自分に気付いた。
葉月。ほんとにおまえはなんて運のない女だ…
一緒に住んでる男は…
中学生のとき、あの時リクは新汰に聞いた
。
「なあ、新汰。葉月をあそこまでの地獄の底まで陥れたのはおまえだろ?すべてお前の仕業だろ。そこまでして悠理から葉月を奪いたかったか?そこまでして葉月が好きか?いったいおまえは裏でなにをしてきた」
あのとき新汰はなんて言ったかな。暴走する兄貴を止められないとか言ってたか。いったいあいつの知恵はどこから…
「リク…ごめん。わたしも最近知ったことなの、葉月先輩を探しだして連絡したら新汰といまは一緒に暮らしてるって…近く結婚することになるよって言ってた。ごめんなさい、リクにはなかなか言い出せなかった…こんなタイミングでほんとにごめん。わたしはそれを知ったら貴方が壊れてしまいそうで怖くて」
椎奈の声はひどく震えていた。
「そうか…いや…いいんだ。俺は大丈夫だから。それで葉月と新汰は…二人はいまどこにいるんだ?」
「この愛知県にいる。いま三河の西尾市に二人で住んでるっていってた」
「そうか…悠理が消えてから俺たちはずっとなにかを無くしたままなんだな、だがあいつは帰ってくるんだよ、必ずな。そうだろ?椎奈。そのとき葉月は…どう思うかな、悠理が帰ってくることに、葉月はまた苦しんでしまうのかな」
新汰は絵にかいたような仲間を見事に束ねるリーダー的存在だった。周りの者は一様に新汰を尊敬した。リクも最初は新汰とひどく敵対したがいつしか新汰を友人として認めていった。だが1学年上の七海葉月が受ける迫害のことが表に出て来るとリクはあまりにも完璧さを見せつける新汰を逆に疑いはじめた。悠理を出し抜くために葉月をあそこまで貶めたと思った。だがいまとなり理解できた、あらゆることが新汰によってこの自分すらも利用され仕組まれていったのだ。リクと悠理は上級生との争いに専念させられその間、葉月はとことん一人孤立していった。観察力が鋭いリクでさえ見抜くことができなかった。まさにリクの完全敗北だった。
「リク…あなたの気持ちはわかる。きっと葉月先輩も悠理をいままで探し続けていたと思う、待ち続けていたと思うの。いえ、いまも必ず心のなかで探してるはず。だって葉月先輩はほんとにねすっごく悠理のことが好きだったの。同じく悠理君もずっとたまらなく葉月先輩を好きだった。わたしはそれが痛いほどわかってた。でも…」
「いや、いいんだ。葉月があいつを、新汰を選んだならそれでいい俺があいつは必ず殺す、それだけ。だがな悠理は必ず戻ってくるんだ、それだけは真実なんだよ」
「リク……うん、そうだよね。悠理君は必ず」
リクは鏡から目を離して廊下につながるドアを見つめた。
「新汰には兄の賢治がいた。賢治はあの街ではかなり有名な不良であの街の暴走族のリーダー的存在だった、おそらくその兄貴が裏で上級生を操って七海葉月を孤立させ酷いイジメに導いていったのだと、理由はただ弟のためにだ。おれはそこには新汰自身も絡んでると考えた。だが、邪魔が入ったんだ、もうひとつの影が現れた」
「リク…影ってきっと麗奈ちゃんが言ってた人だよね。もういいよ、もういいから…これ以上考えたらあなたが壊れちゃう!」
「バカだなこのおれが壊れるわけないだろ。いままでこうしてやってこれたんだ、眼鏡を外せば頭悪い優等生だ。ところでいま一人で職場にいるわけじゃないよな?」
「スタッフがまだ二人残ってる」
リクは腕時計で時刻を確認する。針は19時50分を指していた。
「22時までには必ずそっちにいく。スタッフも誰かは残しておけよ必ず一人にはなるな。番犬になるようなよく吠える犬もいるんだよな?確か一宮インター超えて信号いくつか超えたところ?」
「うん。信号6個くらいかな。左側にカラオケ店があるからそこを左に、ここは動物病院だよわんこたちは患者様だから安静にさせたいな」
「わかった。酒飲んでるからタクシーで行く」
「うん」
「敵は動き始めてるそして敵…つまり新汰はいまあのときのことを失敗したと思い込んでいる。かなり動揺してるはずだろう。だがお目当ての悠理は絶対に見つからない。だからそのまえに俺や椎奈に会って話しを聞きたいはずだ。苛立ちがあるだろうから向こうはかなり強引な聞き方をしてくるはずだ。さぞかし凶暴な殺し屋だろうからお前なんぞ質問の応えようによっては過去の同級生だろうか簡単にこの世から消される。いいな。死にたくなければそこから出るなおれが行くのを待ってろ、電話切るぞ」」
「わかってる。黒幕はやっぱり新汰だよね?……」
「ああ、あいつしかいない、恐ろしい男だ。葉月と自分の関係を邪魔する奴には容赦しないだろう、だが必ず俺があいつを殺すよ」
リクは携帯を切り無造作にポケットにしまうとトイレのドアを開けた。通路を歩き先程までいたスツールに座ると女性店員の樹里がおしぼりを手渡してきた。
「すまないがマスターを呼んでくれ」
「あ、はい」
なあ悠理、おまえなら。
リクは小さく微笑んだ。おまえなら間違いなくとことん復讐するだろ。
おまえが過去の全てを知ったら新汰を殺すよな?必ずそうするよな
リクの目付きが変わる。
だが…
俺はどこでなにを間違え新汰をあそこまで自由にさせちまったのか・・・。
いまになり、ようやく真実にたどり着いたことは果たして早いことなのか逆にすべて遅かったことなのか。
リクはもう一度中学時代の記憶の扉を開きたいと思った。
新汰がすべてやりやがった。
すべての悪を!あいつが!