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雨夜月に抱かれて 第一部 初恋編  作者: 冬鳥
2010年12月27日から2日前の25日。新潟県新発田市。秋月悠理と名乗る男
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波多野美雪

彼は苦笑いしながら、波多野その上げた手を早く下ろせよと右手を上下に小さく二回振ってみせた。   


「俺が君を襲うわけがない、すぐに君だとわかったしね」


クリスマスの夜空の下で二人は微笑みあった。



「だってギクリとしながら思ったんです。そういえば秋月部長は武道の達人だったなって。あの眼光の鋭さは私を不審者と瞬時に捕捉した威圧なんだって。私はただちに捕捉されて投げ飛ばされるのだと覚悟しました、きっとそんな私は全身打撲の即死ですよね。そして私はあの世から部長を少しだけ恨みます、あなたの勘違いだったんです!って」



「ふ。なんだよそれ、おれは武道の達人でもなんでもないよ。最近は道場に行けばもっぱら子供達のお相手だし、それに最近は腹もすっかりでてきた中年のおじさんだ」



「やだ。おじさんてまだ部長って確か30歳ですよね、お腹が出てるなんてもう嘘ばっかり、じゃあいまから秋月部長のお腹触らせてくださいよ」



「お?俺のぽんぽんか。いいよ、いつでもどうぞ自由に触ってくれ」


彼の肩の力が抜けていくのが美雪の目にもわかった。



「もう、ほんとに触っちゃいますからね。でも社内で有名なのは事実です、秋月営業部長は武道の達人でいまも道場に通ってるって。経理部でもよく噂になってるんですよ、秋月部長の背中が視野に入れば誰かがこう言います、背後から襲ってみな、瞬時に投げ飛ばされるよとか、いつオリンピックに出るのかしらとか楽しそうにそう噂しあってます。相変わらず部長は人気者です」


彼はやれやれといったふうにそっぽを向いた。


「まず訂正したいのはおれがやってるのは柔道じゃなく空手だよ。だから投げ技は得意ではないしオリンピックの種目にもない。それにほんとは俺の悪口のが多いんだろ?わかってるさ。それより今日はクリスマスだ、こんなところで油を売ってたらだめじゃないのか、それとも彼氏とここで待ち合わせか?さて俺は帰るぞ。明日も仕事だ、おそらく本社まで行くことになりそうだな」


彼が身体を反転しようとすると、美雪は途端に頬を膨らませた。


「うー、そこは触れてはいけないところです、いま私に彼はいませんよ。昨日のイブもまっすぐ帰宅しましたし、ま、そんなことは秋月部長にしてみればまったく興味ない話だと思いますけどね、ああもう、一人さみしいクリスマスなのがばれちゃった。とてもショックです、それに悪口なんてないです、ほんとに秋月部長のことはみんなが尊敬してます」



「俺は尊敬などされるより悪口を言われてるほうが気が楽だよ。彼氏か…波多野は綺麗なんだから誘う男のほうがきっと躊躇するんだよ、それともえり好みが激しいとかか?」



「あー!ひどいな。部長が毒針を次々と私のハートに刺してきます」


胸を抑え苦しむそぶりをする美雪と、声を出して笑いながら「すまない言い過ぎたようだな」という彼の眼差し。美雪はいまこうして秋月悠理と向かい合い、しかも二人きりの空間のなかで親近感に包まれることにこのうえない幸福感を覚えた。


「秋月部長、もう一度言ってください、さっきの言葉」



「ん?波多野はえり好みが激しいってことをか?」



「もう、そっちじゃないですよ、いじわるですね相変わらず。あ、そういう秋月部長はいまからデートですよね?それとも素敵な花嫁さん候補が家で待ってるとか?美味しい料理とクリスマスケーキをテーブルの上に並べて愛しのフィアンセは部長の帰りはまだかなまだかなってお待ちしているのでは、あ、ケーキはすでに昨日のイブに食べちゃってますか?」


美雪は唇をへの字に結んでから悠理の反応を注意深く窺った。




2004年に新潟県中越地震、2007年7月には新潟県中越沖地震がこの地帯を襲った。二つの大地震によって多くの損害とそれに伴う復興が新潟県全体を覆った。重機部品や運搬機械部品などの専門知識を要するものから工作機械や電動工具といった細かい部品まで幅広く請け負うこの会社が、有益となる人材を半年前に福井県の本社から新発田支店に送り込んできた。それが秋月悠理と名乗る男だった。波多野美雪は四歳年上の突如現れいきなり営業部の若きトップとなった秋月悠理を一目見たときから心を奪われた。だがそれはどちらかといえば憧れや尊敬の思いが遥かに強いもので正確には恋ではなかったのかもしれない。特定の芸能人に想いを馳せるのと同じような感情だった。当時美雪には学生時代から長く付き合っていた彼氏がいたし当人との結婚もそろそろかなとお互いに考え始めていたころだった。世の中には悠理のようなあんな人を惹きつける男性もいるのだ、社内で偶然会えれば幸運であり日々の仕事が少しだけ楽しくなる、といったような美雪が抱くのは決して自分にも重たさはない感情だった。経理部は会社ビルの二階、営業部は三階にあり、職場で悠理と会う機会もごく限られていた。会うとしたら階段や正面玄関で偶然すれ違う程度でありたまたま会えば美雪から会釈をする程度。そんなある一定の離れた距離だった。   



美雪は秋月悠理はまず既婚者なのだろうと思い込んでいた。家に帰宅すれば綺麗な妻がいてもしかしたら子供も二人くらいいるのではないか。本社からの新参者は仕事がかなりできるという噂は経理部まで届いていた。仕事のできる外見のいい男は若くして結婚するもの、しかも性格もいいと噂のあの男は尚更だなと美雪のなかで決めつけているところがあった。でもいま美雪が考えると違ったのかもしれない。悠理がもし独身ならば自分のなかの保ってきた均衡が崩れる怖さみたいなのがあった。美雪は憧れという感情を悠理に抱いたまま自分から何かをするわけでもなく、悠理が転勤してきてから二か月あまりの日々を過ごした。だがある日、悠理が既婚者だと決めつけていたことが簡単に崩れ去っていった。化粧室で女子社員二人の会話を聞いてしまったのだ。


「ねえねえ、秋月営業部長はまったくプライベートの話しはしないらしいんだけど、この前ね営業部の佐藤君が聞いたっていってたよ、自分は30歳で独身だってね。あと先週の食事会のときお店のトイレのところで酔った若い男二人に絡まれてたのを助けたって噂は知ってる?。総務のなんとかって若い子が無理矢理に手を引っ張られたりしてたって。それを秋月部長が見つけてあっという間に二人の男を倒しちゃったみたいよ、秋月さん武道の達人なんだって」



話を聞いた美雪はこの時思わず身震いをしたのをいまでも克明に覚えている。



それからの美雪は職場で悠理と稀にしかすれ違うことのできない現実を変えていくことに没頭した。営業部に行く用事はすべて引き受けて事あることに顔を出した。広い営業部のフロアを入口から覗き込むと遠目に見える悠理の存在があった。彼はいつも真剣な眼差しで何かに取り組んでいた。端整な顔立ちに相反するような逞しい両腕が腕まくりをするカッターシャツから覗いていた。それは誰の目にも鍛え抜かれたのがわかるほどだった。無我夢中で仕事に打ち込む姿。美雪は観察するたびに悠理のすべてに惚れ込んでいった。朝起きたときから夜眠るときまで悠理のことを考えた、いつからかそれでは満足できないのか夢の世界のなかにまで悠理は現れはじめた。美雪の心の奥底まで悠理が独占していった。


彼女は悠理を想う時によく上越市にある鳥ヶ首岬灯台の残像を脳裏に探しそして連想させた。高校を卒業するまで上越市の名立区で育った彼女は、よく近くにある鳥ヶ首岬灯台を見にいった。落ち込んだ時や辛いことがあったときは一人で学生服のまま空が夕焼け色から星が降り注ぐ世界になるまで横にちょこんと座り灯台が見つめる同じ荒波を見続けた。そして真っ黒な日本海に向けて強力な光源が明滅を繰り返すのをしばらく見届けてから、美雪は立ち上がってスカートの裾を払った。そのときには必ず再び前に進む勇気を肩を並べる白い灯台が与えてくれていたのだ。立ち去るときにもう一度見上げると灯台は無言のまま真っ黒な日本海を照らしていた。断崖の上にそびえる真っ白な建物。それはたえず孤独でたえず優しげでたえず勇ましかった。悠理の隣にたえずちょこんといてこれから広がっていくだろうあらゆる景色を一緒に彼と見ていきたいと美雪は切に願った。


美雪は営業部にいる同期入社の男性に何度も探りを入れて悠理の情報を聞き出そうとした。幸いなことに彼の浮いた話はまったく出てくることはなかった。婚約間近だった彼氏とは美雪から一方的に別れを告げた。切り出したときに彼氏からは、かなり酷い誹謗の言葉を浴びせられたが美雪は意に介することなくただただ涙を流し泣いて見せて謝った。そのあと彼氏と別れたのを知った同僚や学生時代の友人は幾度となく美雪を飲み会に誘った。断り切れないままに参加はするのだが、美雪は悠理以外の男には全く魅力を感じなくなっていた。近づいてくる男達のなにもかもがうすっぺらく偽りだらけの張りぼてのように見えた。逆に美雪はといえば友人達からあの子は可愛いからコンパに連れて行けば向こうが喜んでくれるということで何度も誘われた。美雪は断ることができない性格でありいつしか自分も張りぼてとなっていたことを知った。ある日、週末に有名企業の男性らとのコンパだから必ず美雪も来てね、よしじゃあ皆で気合入れてミニスカートで行こうよと言われ、あまり気乗りしないまま言われたままに丈の短いスカートで行ったときがあった。店の前で合流して席に座ろうとした美雪をテーブルを挟んで前にいた四人の男が一斉に注目した。足元から頭の先までを見る男達の視線は獣のように臭く汚らわしいだけであった。美雪は彼らと同じ空間で呼吸をするだけで苦痛に思えた。ずっと俯いたまま男から話しかけられても無視をした。途中で気分悪いから帰ると言ったら友人が美雪に言った。「美雪、なによその態度は失礼よ調子乗らないで」そのとき美雪は悠理のことがすぐに頭に浮かんだ。そしていった。


「だってほら、みんなゲスで最低だよ。まったく楽しくないの同じ空間で呼吸すらしたくないの」そう言うと誰かが美雪の顔におしぼりを投げつけた。それから飲み会に誘われることもなくなった。


美雪は目が眩むほどに荒波を照らす勇ましく優しく全てを包み込む灯光を求めた。他は必要なかった、せっせと営業部に足を運ぶことが何よりの至福だった。





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