表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨夜月に抱かれて 第一部 初恋編  作者: 冬鳥
2010年12月27日。愛知県東海市にて七海葉月。
36/40

12月27日 愛知県東海市

@


名古屋市南東部に位置する東海市。小高い丘の上にあるのは大型スーパーだった。その1階食料品売場に彼女はいた。時折、羽織るグレーのコートの襟を指先で払うような仕草を彼女はする。こびりついた癖というよりもなにかが心のなかで増幅するのを抑え込もうとしている儀式のように見えた。払いのけるもの隠そうとしているものはいったいなんなのか、彼女は襟に付着しているものをたえず気にしていた。



彼女は会計を済ませた食料品を丁寧に袋のなかへと詰めていく。

周りはあらゆる音に支配されており年末の書き入れ時で食料品売場のレジはとても混んでいるようにみえた。彼女は食材を全て袋に入れ終わってから小さな溜め息を一つ漏らした。なんだか彼女はひどく疲れているように見えた。


物憂いな表情のままに買い物袋を片手で持ち上げてゆっくりとした足取りで歩きはじめる。通路で子供連れの家族とすれ違い足早の若いカップルに肩をかすめるように追い抜かれていく。


うつむきながら歩く彼女はふとなにかの目線を感じた。心に少しだけ動揺を覚えながら側面に連なる大きな窓ガラスに顔を向ける。ガラス越しに見える空は暗い褐色を帯びはじめていた。彼女はいま目線を感じたのは鏡に映る自分自身の瞳だったと信じ込ませようとしたが窓ガラスに映り込む自分と瞳を合わせたままいまだ感じる背後の視線を鏡越しに追いかけようと試みる。


だめだ。


彼女はその行為を途中で中断した。


見知らぬ男性がこちらを見つめているのがわかったのだ。


やめよう、知らない人。


彼女はまた先程のように俯きそして歩きはじめようとした。

 

窓ガラス?


彼女はなにかに気付きもう一度顔をあげる。

大きな窓ガラスはくもっているところもあれば結露が雫となって下に流れていくところもあった。彼女は冷気によって濡れて曇った窓ガラス越しに映るなにかを探しはじめた。手にする買い物袋のなかでなにかが細かくぶつかりあうような音がする。



彼女は思う。冷気に晒された窓ガラスを見て思い出す自分がいまここにいるのだと。そして

私はあの人をすぐに思い出してしまうと。私はいまも過去から決別できないままなのだろう。過去に縛られたまま生き続ける自分が嫌いなはずなのに、醜いとさえ思うはずなのに。だがこうして結露で濡れた窓ガラスを見ただけで私は彼を克明に思い浮かべてしまう。そして足を止めていま彼のすべてを心の底から感じたい気持ちで心がいっぱいになる。私の人生には彼がいた。私には彼が全てだった。彼の笑顔に泣き顔に、はにかむ表情を思い出していく。抱きしめられたときの温もりや初めてキスをしたときの彼の唇の感触と甘い吐息も思い出す。

自動的にコマ送りされていくようにたくさんの映像が脳裏に浮かび上がっては消えていく。濡れた窓ガラスというたったその一つの記憶の断片によって蘇る数多の彼のあらゆる面影は残映を背景に実に克明に浮かび上がっていくのだった。


私はあの人を忘れていかないといけないのに。


それはわかっている。忘却の彼方に彼を置き去りにする。


彼女は思う。私はきっと15年間戦い続けているのだ。と。彼を忘れるための戦いを続けているのだ。と。


彼女は寂しげに窓ガラスから目を離して再び歩き始める。だがもう彼女は理性が働いていないのを理解していた、過去の記憶だけが前衛を支配していく。


中学生の

彼は息を吹きかけた窓ガラスに指先でゆっくりと丁寧に文字を書き始めた。

彼女は息を吹き付ける彼の仕草を隣りから見て顔を赤らめていた。



好きだよ



彼はそう書いて彼女を長い時間見つめそして強く彼女を抱きしめた。


好きだよ葉月。


悠理はそういって私を強く抱きしめてくれた。


悠理の香りがした

とても大好きな香り…


私は悠理の胸に顔を埋めてとにかく泣いた。






出入口の自動ドアが開くと共に、ひんやりと冷たい風が彼女の身体を一気に冷えさせた。

彼女は買い込んだ食材を自転車の前カゴに入れて手に息を吹きかける。両手のなかで白い息がわずかな時間だけ留まっていく。


悴む指をもう一度さすり息を吹きかけてから白い毛糸の手袋をする。


西の空には。


彼女はいつものように西に広がる空を見つめた。この丘の上に来るとここから見える景色につい目を奪われてしまう。

広がる東海市の排他的な景色は彼女にとって不思議に懐かしくそして穏やかにさえ見えた。


上空を立ちこめる汚染された空気が彼女を包みこむ。汚れ朽ち果てそうな自分自身の身体と心を鎮魂して存在意義を肯定も否定もしない情景へと導く。私にとってこの街は救いなのかもしれない。


東海市の海際が一望できるこの場所からは製鉄所の煙突から流れる煙の流れが良く見えた。三本の長い煙突はまるで競い合うように白い煙を南の空へと長い尻尾となり吐き出されていく。その遥か上空では雪雲が急ぎ足で駆け巡っていく。ときに強い北風が世の中の人々の浮つく心を戒めるように吹き荒れていく。


その風は彼女の長い黒髪とマフラーを横になびかせる。



いま彼女には彼ではない心から愛する別の人がいる。


その愛は彼女を必要として

彼女もその愛を必要とする。


過去の自分と現在の自分はいつしか別の世界へと分断されたように。


あのころの記憶。彼女の追憶はあの事故のまえから始まる、妹と母親を失ったあの日から彼女は変わっていった。妹の四葉が隣りにいる頃の彼女の日々は輝いていた。


「葉月と四葉は今日はなにしたい?かくれんぼ?ドッジボール?」


マンション入口で悠理が満面の笑顔で聞

いてくる。悠理の隣りには新汰がいる。


葉月は少しだけ思案する。


「えっと!えっと…悠理と新汰がやりたいほうでいいよ!ね?四葉もそれでいいよね」



「うん!おにちゃんのやりたいこと四葉もしたい!」


葉月と手を繋いだまま四葉は嬉しそうに飛び跳ねる。


「そうなのか?ならどうしようかな」


悠理と新汰は声を合わせて言った。


「よーし!じゃあ今日は探検しよう!」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ