大人たち 菊田源蔵
昼間でも交通量の多い庄内川右岸堤防道路から見下ろすと、ある一画に長年手付かずな雑木林があった。誰からも忘れられたようなその小さな森は風のざわめきを伝えるためだけに存在しているように見えた。そこから少しずつ視線を右に移していくと風の鳴る音の木々が途切れていき源蔵の所有する小さな畑がある。彼はこの場所を楽園と呼ぶほどに好む場所だった。理由は単純だそれはのんびりとなにかしらの作業をしながら近くの建物から出てくる車両をたえず気にかけることだった。
来たぞ。
源蔵は濁る瞳に力を籠める。
乗車している男女を職務質問するかどうかを見極める寸前の警察官のごとく凝視する。痛みすら与えるようなその眼差しに相手側はまず気付かされ目を逸らす者もいれば、我関せず仲良く話しこみ車を走らせていく者もいれば、なんだよといわんばかりに運転席の男性が睨み付けてくることもあった。いろいろな向こうのリアクションがこちらにダイレクトに響いてくるようで源蔵はつい楽しいなと思ってしまう。
そんなときの彼の記憶力や想像力はやけに高く壮大だった。
いまの男はやけに女より年上だったな。
女は30代前半てとこか、あかんな真昼間からこんなところで。
おそらく後日どこかで二人に会えば顔を思い出せるのではないかというくらいに源蔵は脳をフル回転に記憶を留めていく。
そもそも源蔵は他に所有する畑の畦道に遺棄されるペットの排泄物の多さに強い苛立ちがあった。夏になればそれはもう臭さくてたまったものじゃない。飼い主は犬の糞がそのまま畑の肥料になるとでも思っているのだろうか。こちら側からすればふざけるもいい加減にしろと怒鳴りたくなる。源蔵はペットを連れて歩く人を細かく観察し顔を覚えていくことが習慣になっていた。そしていつしか源蔵は人の顔を覚え記憶に留めることが他人より少しばかり秀でる特技となっていた。毎日近所に住む住人の顔を見ては刷り込ませるように記憶していく。加えて源蔵は根っからの女好きであり女性をこれでもかと観察するのは人生の喜びすら感じていた。
そしてこの場所だ、ラブホテルがすぐ近くにある小さな畑。行為を終えた怪しい関係の男女が色々な表情で通り過ぎていく。そしてある人物をここで目撃したのはもう正確に何時になるのかは定かではないのだが
一つ確かなのは七海家を襲った災難よりも少し前だったことだ。
源蔵はここでいつものようにホテルから出てくる車がいれば車内を覗いては自分でも感じるくらいに嫌な笑みを浮かべていた。
ホテルの正面出入口はきっと庄内川堤防道路側なんだろうが交通量があるそちらからではなくほとんどの車両が人目を避けるようにこちら側にある路地裏の出入口から出てくる。
実にいい位置にこの畑はある
源蔵は今日も通り過ぎていく車両をこれでもかと見届けていた。
昼を過ぎたころに一台の車両が出てくる
一方通行なのでかならずこちら側に来る。そして運転席にいる男を見届けた際になにか見覚えがあった。
あれは…確か…
源蔵はすかさず助手席の女も見る。
髪の茶色い若い女でなかなかの美人。こちらには見覚えがなかった。
脳をフル回転させて記憶を必死に辿っていく。駅から西に続く道、夕方。スーツ姿。そうだ思い出した。あの男は確かあのマンションの住人だ。間違いない。
ただ集合住宅というのは厄介なもので顔は覚えても何号室の誰々まではわからないのだ。
あいつの素性を知りたい。
隣りにいた女は決して女房ではないはずだ。
源蔵は人の弱みを握る快感を覚えた。
そしてあれから数年が経った。
源蔵はいま枝がちくりと腕を刺してくるなか必死にクリーム色の四階建てのマンションを見上げていた。
七海の奴は妻と娘を失ったあの事故よりもまえに他のあの茶色い髪の若い女と不倫をしていたのだ、しかもいま一緒に部屋にいるのはあの女ではないか!
間違いない。源蔵の記憶力は確かなものがあった。
このマンションに住む小学生のガキ大将に聞いたのだ。
生意気なガキはあれは七海の親父といった。
源蔵は心のどこかすみっこのほうで考えたりもする。
もしかして…
あの男が女房と娘を殺したのか?と。
いま若い女とあの部屋にいる七海という男はもしや悪魔ではないのか?と。
夜空に覆われ始めた時を忘れたかのように4階の明かりを見上げていた源蔵はふと人影がマンションの入口からこちらを見つめているのがわかった。
それが誰かはわからないが源蔵はなんだかやるせなくなりため息をついた。そしてゆっくりとその場から立ち去っていく。
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夏の暑い日だった。悠理と新汰は葉月の部屋にいた。
きっかけはなんだったのだろう。おそらく悠理が思い出したといわんばかりに発した言葉だった。
「そういえば公園に変な本が落ちてたよな」
悠理が新汰に返事を求めると新汰は小さく舌打ちをして下を向いた。
「え?なに?変な本て?」
葉月が悠理に聞いたことによって話しは膨らんでいった。
そしていま。
白いスカートの両裾に葉月の指先が当てられていた。彼女は困惑と緊張が入り混じる表情を浮かべながら細く長い人差し指に恥じらいを乗せてスカートの先端を引っ掛けていた。
ゴクリ。
新汰の固唾を呑み込む音が悠理のところまで届いてくる。
「え?…葉月…なにを言ってるの。スカートのなかを見せるってこと?」
悠理はなんとか声を絞り出したが喉の奥に何かが詰まっているように小さく掠れた声で玄関付近の天井まで浮遊してはすぐに消えていった。
「恥ずかしいけど…興味あるなら…だって悠理見たんでしょ、裸の女性の写真」
葉月はなにか怒っているように見えた。
「み、見てないよ、新汰も見てないよな」
「見てない!蹴飛ばしてやったそんな本は」
葉月は悠理が女性の裸の写真を見たことを喜んで話すのがなんだか許せなかった。
そして
もうちょっとここに三人で一緒にいてほしいの
と、葉月はそう言いたかった。
「ほんとは見たんでしょ新汰も、興味あるならスカートめくる」
葉月は二人の有無を確かめることなく人差し指に力を入れた。
「葉月!なにしてるの!」
悠理が大きな声を出す。
その声は葉月の脳天に突き刺さったかのように彼女の行動を瞬時に停止させた。
「いいよ見せなくて。葉月は恥ずかしいでしょ?僕だっていま葉月にズボン下げてはいてるパンツを見せるのは恥ずかしいよ」
悠理の素っ気ない言葉が葉月を現実の世界に戻らせる。醜態をさらした後悔と孤独がはびこる世界へと。
「あのね…そういう意味じゃなくて…違うの、違う。ごめんなさい、私なに言ってるんだろ。もうちょっと三人でゲームやりたくて…そうだ、今日はこれから雨になるかも。だから…」
新汰は口をぽかんと開けて動きを止めたまま自分の足元を見続けている。
「ごめんなさい」
いまにもくしゃくしゃに泣き出しそうな葉月がいる。
「葉月どうしたの?泣いちゃうの?」
悠理が近づくと葉月はさっと広げた片手を前に突き出した。
「泣いてなんかない。ごめん、雨はきっと降らない、だから行きなよ。公園で友達待ってるよ」
俯いて声を沈める葉月がとても弱々しく虚ろげだと悠理には見えた。葉月の心がいまも泣いている。
葉月のすぐ背後にはテレビ画面に映るゲームのキャラクターが中央にぽつんと佇んでいた。コントローラーが二つ葉月の足元に転がったまま。単調なゲームのBGMとクーラーの機械音が無機質に時の流れを知らせてきた。
「また遊びに来てね」
吹っ切れたように上げた葉月の表情はいつもの笑顔に戻っていた。目尻がわずかに濡れたままの笑顔だった。小さなえくぼが頬に浮き上がる天使が降り立つようないつもの輝きはなかった。そして白いスカートの裾は葉月の両手でしっかりと押さえられていた。
二人は402号室を出て階段を降りて公園へと向かっていく。
友達が来るのを待つ最中に新汰がおしっこしたくなってきたと片隅の草むらに行くのを悠理もついて行く。
「なあ悠理。なんかさっきの葉月おかしかったよな。なんつうか元気ないっていうか。怒ってんのかな?と思ったら次は泣いてるようにも見えた。」
新汰がズボンを下ろすと
隣りの悠理も同じくズボンを下ろし始める。
「葉月の家で麦茶飲み過ぎたみてえだな」
「公園で一緒に遊びたかったんじゃないのかな葉月は」
「だめだ。今日は男ばっかだぞ葉月一人なんてそれこそ可哀想だ」
「あれ?なんか新汰のちんちんやけにデカくないか?え!なんでそんなにでかいんだ!すげえ」
「あ、おれのを見るなよ!うるせえぞ悠理」
新汰が悠理の靴におしっこをかけようとする。
悠理は笑いながら逃げだしていく。
「悠理!まずはそのちっちゃなゾウさんをしまえ!」
悠理は強烈に照りつける太陽のひかりを右手で覆いながらマンションの4階を見上げる。葉月の部屋のカーテンは隙間なく閉められたままだった。




